3.安宿の夜

『情報集めは明日にするか? イングヴァル』

「ああ」


 届いた声にうつつに応えると、意識が遠退いていた。

 今夜もその時が来たと感じて、イングヴァルは硬く目を閉じる。

 再び目を開ければ、ベッドに腰を下ろす連の姿がある。彼女は徐に立ち上がると、扉に歩み寄った。


「久方振りの宿だ。身体を拭いたい。下の井戸で水をもらってくる」

『ああ』


 同じ言葉を返して横たわったままでいると、連は部屋を出ていった。彼女はじきに戻ってきたが水を張ったタライを床に置き、何の躊躇もなく着物を脱ぎ始めた。


『……えーっと連、俺がここにいるの、分かってるよな……?』

「無論分かっている。だが私にどうしろと? 顔を赤らめて恥ずかしながら脱げばいいのか?」


 背中越しの言葉が戻り、イングヴァルはそのとおりでしかないと心で返した。

 連の身体は、既に隅から隅まで知っている。今更裸を目の当たりにしても、何も思う必要はない。

 ほんの少し前までその身体を使って、今ここで言い並べられない行為を充分してきた。

 確かに彼女の言い分は正しいが、けれどもそれでいいのかと毎度過ぎる。


 その身体が寸前まで自分のものだったとしても、今のこの時は違う。

 主観から客観に変われば、感じ方も変わる。その辺りの感情はなかなか言い表しにくく、複雑なものであるが、この戸惑いが意味のないものであるのも分かっている。

 どう折り合いをつけても連のように割り切れない思いがいつも残るが、しかしだからといい解決策も見つからなかった。


「気になるなら、しばらく目を瞑っていればいい」


 告げると連は上半身を一糸まとわぬ状態にして、絞った布で身体を拭い始めた。

 イングヴァルは進言どおり目を閉じてみるが、鼓膜に届く衣擦れの音に、ついどうにもならない感情の昂ぶりを覚えるに至っていた。


「……イングヴァル、随分お疲れと思っていたが、まだ元気があるようだな。先程の女性は精根尽き果てるまで満足したようだが、お前の方は足りてないようだ。その主張はよく分かったが、どうか私の身体に戻るまでにはは収めておいてくれ」


 背中越しの言葉が再び届いた。

 この少女は後ろにも目があるのかと思うが、その指摘自体に異議はない。イングヴァルは自らの下半身を見下ろすとを黙らせることに集中した。


『……連』

「なんだ?」

『……せっかくだから、腕枕でもしてやろうか?』


 身体も拭い終え、久方振りのベッドに横になった連にイングヴァルは声をかけた。

 くたびれた部屋だが、ベッドは二人並んでも充分な広さがあった。ただ並んで寝るのも妙に感じてそんな言葉を向けたが、その提案には呆れ混じりの返事が戻った。


「イングヴァル、それに意味はあるのか……?」


 その言葉には「そうだな……」としか返せなかった。

 実体のないものに腕枕の真似事をされても、意味はない。苦笑を返して、ぼんやり天井を眺めていると隣からは多くの時間を必要とすることなく、微かな寝息が聞こえてきた。


 身を返して寝顔を窺うと、刻まれた疲労が垣間見える。

 暴力にも殺しにも、彼女は何も言わない。

 腰に添えた彼女の得物が、元より飾りでないことは分かっていた。ならず者が横行するこの異国の地で少女が一人で生きて行くには、綺麗事だけでは済まされない。

 故郷を出て二年、彼女がその間どう生きてきたか想像するのは容易い。

 暴力にも殺しにも、彼女は何も言わない。

 だとしても、中身は違っても周囲は自らと取る相手が繰り返すこの所業を彼女はどこまで許し、耐えてくれるのだろうか。


「…イングヴァル」

『……なんだ?』

「早く寝ろ」

『分かってる、言われなくてもそうする』


 眠りが浅いのか、まだ眠りについてもいなかったのか、言葉が届く。

 しばらくすると本当に眠りに落ちたらしき気配が漂ってきたが、逆にイングヴァルの目は冴えていた。それでも無理に眠ろうと目を閉じると、今度は先程の連の裸身が瞼の裏に蘇った。


 彼女の右肩から腕にかけて広がるあの痣。

 今日も彼女に何も訊けなかった。


『それは……俺が訊きたくないからかもしれないな……』


 一人呟いて、イングヴァルは再度隣を見る。

 その無防備な寝顔には、ついまた先程のような昂ぶりを覚える。

 鬼畜の所業ではあるのは重々承知だが身を起こし、覆い被さって唇を近づけようとする。しかしその行為が意味のないものであると再び気づいて、イングヴァルは今夜何度目かの苦笑を零した。

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