百 金魚の浴衣

 夏休みになると、おばあちゃんの家に行くのが決まりだった。


 おばあちゃんの家は遠かった。

電車に何時間も揺られ、キラキラと光る海を渡り、山を二つか三つ越えて、ようやくたどり着くような、そんな場所におばあちゃん家はあった。


 赤ん坊の頃はお父さんお母さんと一緒に行っていたけれど、小学校に上がってからは、私一人で行くようになった。知らない街は、ちょっとした大冒険だ。全然知らない人、降りたこともない駅、聞いたこともない地名。家までの往復分のチケットやお小遣い、おばあちゃんへのお土産を手渡され、必死に地図を見つめながら一人旅をする。胃袋がぞわぞわするような不安と、胸が張り裂けそうなワクワクで、私は毎年夏休みが楽しみで仕方なかった。


 おばあちゃん家は、田んぼに囲まれた、のどかな場所にあった。バスは一日一本か二本しか通らないような、そんな場所だ。周りには本当に何にもなくて、一体どうやって生活しているのかと不思議に思う。お腹が空いても、近くにコンビニもないだなんて、私には考えられなかった。いつだったか、おばあちゃんに尋ねると、毎日朝と夕に『トラックのコンビニ』が来てくれるのよ、と教えてくれた。一体どれほど大きなコンビニなんだろう? 私は驚いた。


 毎年そこで、一週間くらい過ごすのが私の楽しみだった。

夜は真っ暗で、なのに空には星がキラキラ眩しくて、朝は静かで、だけど蛙や鳥がわんさか鳴いていてうるさかった。軽トラに山積みされたスイカ。歩道に咲くひまわり。神社で泳ぐ鯉。高層ビルどころか、信号機だってろくにない。まるで違う国に迷い込んだみたいだった。


「あんま遠くに行ったらいかんよ」

 いつも私にそう言い残して、おばあちゃんは毎朝畑に出かけて行った。

お昼になると地元の男の子たちがどこからともなく湧いて出て、橋の上から川に飛び込んだり、釣りをしたり、虫採りをして遊んでいた。私は人一倍恥ずかしがり屋だったから、さすがにあの中に入って行く勇気はなかったけれど、それでも近所の女の子たちと、河原でザリガニを突っつき合ったり、お花畑でかけっこをしたりして遊んでいた。


 あれは私が、小学三年生に上がったくらいだったろうか?

その日、おばあちゃん家の村の近くで花火大会が開かれるとかで、子供たちはみんな山の向こうに出かけて行った。私も楽しみにしていたけれど、たまたま熱を出してしまって、どうしても行けなくなってしまった。せっかく、金魚の浴衣まで用意してもらったのに。私は大泣きした。


 おばあちゃんはスイカを切ってくれたけれど、私はどうしても綿あめやたこ焼きが食べたいと言い張って、そうじゃなきゃ嫌だと駄々をこねて、結局手をつけなかった。「今年行けないなら、もう二度とここに来ないから!」おばあちゃんは困ったようにガラス戸の向こうに引っ込んで行った。私は何も言わず、頭から布団を被ってぎゅっと縮こまった。くらくらとする熱と、体の怠さでがひどくって、気がつくと、私はいつの間にか眠っていた。


 蚊帳の中で目を覚ました。

夜になると、障子の向こうからドン、ドンという音が聞こえて来て、その頃にはもう、私の熱も大分下がっていた。服の下にじっとりと汗がにじむ。山の向こうに目を凝らしたが、仄かに灯りが見える程度で、肝心の花火は見えなかった。


 おばあちゃんはもう寝静まっていた。信じられないことに、この村の人々は夜九時になると大概寝ている。まるで宇宙人と遭遇した気分だった。私は息を殺してガラス戸の向こうを窺った。気配はない。それで、急いで汗ばんだ服を脱ぎ捨てた。それから黄色い金魚の浴衣に着替える。だって、このままじゃ。夏祭りは無理でも、浴衣くらいは着てみたいと思ったのだ。せっかくここまで来て、何にもしないなんて、なんだかすごくもったいない気がした。


 それから思い切って、外に出た。髪をお団子にして、団扇を背中にさして、精一杯のおめかしをして抜け出した。もちろん、今から会場まで歩いて行くのは無理だ。それでも、気分だけでも味わおうと、私は近所の神社まで散歩することにした。あぜ道を登って行く。ひまわりがスヤスヤと眠っていた。まだ山の向こうでは、見えない花火のドンドンが続いている。それに合わせて歌うように、お古の下駄がからんころんと鳴った。


 山奥の、小さな神社は静まり返っていた。

石畳の階段の両脇に灯篭が並び、蛍みたいな小さな灯りをともして足元を照らしてくれた。いつもなら、蛙やコオロギが大合唱しているのだが、その日はやけに静かだった。長く細い階段を登り終えようとしていたその時、ふとどこからか話し声が聞こえて来た。


 その声は境内の、神社の近くから聞こえていた。私はとっさに茂みに身を潜めた。誰もいない。そのはずなのに、よくよく暗闇に目を凝らすと、ぼんやりと淡い灯りのようなものが浮かんで見えた。奥にいる誰かに気づかれないように、私はゆっくりゆっくり神社に近づいた。


 大きな鈴と、賽銭箱がある正面には誰もいなかった。神社の脇には小さな池があって、そこにはいつも数匹の鯉が泳いでいたけれど、あいにく夜の闇の中では、池は墨をこぼしたように真っ黒だった。風でそよぐ黒い水面の上で、小ぶりのお月さまが気持ち良さそうに泳いでいた。


 灯りは裏手側から漏れて来ていた。そっと近づくと、何だか太鼓や笛のような音が聞こえてくる。草むらから顔を覗かせて、私は思わずあっと声をあげそうになった。


 そこにいたのは、鯉だった。

しかも、浴衣を着て、ひょこひょこと歩いている鯉。それぞれ小さな提灯のようなものをぶら下げ、赤だったり青だったり緑だったり、色とりどりの灯りがそこいらじゅうで踊っている。私は目を疑った。こんなことってあるのかしら。神社の裏手側は、まるで小さなお祭りのようになっていた。大勢の鯉たちが集まって、賑やかに笑い合っている。おかしなことに、小さな屋台まで並んでいて、そこで「麩」や「海老の丸焼き」なんかが売られていた。こっちではハチマキをした鯉たちが楽しそうに盆踊りをし、あっちでは子供の鯉たちが金魚すくいに夢中になっていた。


「お姉ちゃん」


 急に後ろから声をかけられて、私は飛び上がるくらいびっくりした。振り返ると、小さな鯉が私を見上げていた。他の鯉たちと同じように、浴衣を着て、小さな蓮の葉のうちわを持った鯉の子供だった。


「金魚のお姉ちゃん」

 その鯉の子は私の浴衣の柄を指差して言った。


「行かないの?」

「え……」


 立ちすくんでいる間に、鯉の子は祭囃子へと駆け込んで行った。私はしばらく、惚けたようにその様子を遠くから眺め、やがてゆっくりと踵を返した。石畳を降りる途中、鯉たちの楽しげな笑い声がどこまでも私の背中を追って来た。


 家に帰ると、なんとおばあちゃんが起きて私を待っていた。手には綿あめとたこ焼きを持っている。どうやら私が眠っている間に軽トラでひとっ走りして、屋台で買ってきたらしい。

「ありがとう」

 ごめんなさい。そう言うと、おばあちゃんはシワシワの手で黙って私の頬を撫でた。綿あめも、たこ焼きもだいぶになっていたけれど、とっても美味しかった。夜、寝ようと思って浴衣を脱いだ。ハンガーにかけ、まじまじとそれを見つめる。なんだかちょっと、金魚の数が減っているような気がしたが、どうだったかはもう思い出せなかった。


 それから毎年、一昨年におばあちゃんが亡くなるまで、私は夏休みになるとおばあちゃんの家に出かけて行った。だけどあれからは一度も、神社の裏のお祭りを見かけることはなかった。池の鯉も、泳いではいたけれど、別に浴衣を着て歩いたりはしなかった。あれは夢だったのかとも思う。熱が出て、うなされていただけなのかも。

だけどそういえば、金魚の浴衣。

は今私の家にあるけれど、どう言う訳か年々金魚が逃げちゃって、今ではすっかり何の柄もない、ひまわり色の浴衣になっている。確かに最初は金魚がいたのだと、私はいつもそう言うのだけれど、それを信じてくれたのは、後になってもおばあちゃんただ一人だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

百物語 てこ/ひかり @light317

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ