潮ふけず。

 彼女の話を遮ってしまったこと、いまだに悔いている。僕といえば曰くつまらない男、曰く合理性を腹にかかえて生まれた男。雪原に足を踏み入れたこともなければ、そもそも雪がどういったものかも知らないのだ。重力との絶妙な均衡により落下する幻想的な一片であり、それはどこからともなくやってくる雲の欠片らしいが、なるほど、自然界がもたらした調律はたしかに幻想的といえる。彼女は雲をつかむような生活に憧れているようだが、金輪際憧れに留めておくだけなら一向に構わない。なにも行動に起こさないのなら可愛いものじゃないか、僕たちはどうあがいたって川面に跳ねる魚を叩けないし、百年にわたって世界中の人々を飢餓から救うことも出来やしない。お利口に境界の内側で暮らしたほうが良いのだよ。身の丈にあった生き方ってやつだ。ここに数種類のナイフとフォークがあるとして、丁寧に並べられているとする。──並べ方は好きに想像してくれても良い、丸い皿を囲んでも良いし、その上にはナプキンを乗せてても良い。だが先にこれだけは言っておく。この段階で僕以上につまらない質問をするようなら今すぐ本を閉じて外の空気を吸ってきたほうが良い。僕は「ナイフとフォークが並べられている」としか発していない。すなわち他のことは好きにすれば良いのさ。──さあ、どう考える? どんな情景を想像する? ──これが訊きたかったんだ。だからつまらないことを先に訊くなと言っただろう。話は最後まで聴くものだ。──ちなみに僕なら真っ先に少し背伸びをした高級レストランでの一幕を思い浮かべ、一般的な"恥ずかしくない"致し方というものを反芻するだろうね。みんなもそうじゃないかい? なぜなら僕たちはみな教育をうけた脳から生える四肢の賜物なのだから。外から順番に使うだとか、胸もとに見栄を忍ばせておくだとか、生まれたときから知っていたのか。そんなわけがない。生きていく過程で気がつけば身についていた俗にいう教養、所謂世間を渡り歩く術はすべて生きていくうえで何ら必要のないものである。残念ながら無駄である。しかしだが、無駄こそが重要であり僕たちを象っているといっても過言ではない、脳に植えつけられた無駄たちがそのままニンゲン──ヒト科の積みたててきた三角形──たる証明に他ならない。僕たちは無駄を蓄積したぶんだけ手足が伸び、脳がふくらみ、血液がふつふつと泡ふき沸きたつようになる。もう一度訊くよ。この世に生をうけ三日で走りまわる四足歩行の生き物、生まれることなく食物連鎖にその身を捧げるエラ呼吸の生き物、あなたは本当にこれらの仲間入りがしたいのかい? 本気には思えないな。憧れていることは本当かもしれない。でもよくよく裏側に回り込んでみるとね、憧れている自分に浸っているひどくニンゲン的な面が張りついているように見えるんだ。皮肉なものだね、もうすでに動物然としているじゃないか、ニンゲンとしてね。

 話は冒頭にもどるけど、雪をもたらす、しばしば奇跡をおこす自然界に彼女がただ思いこがれるだけで事足りるならそれに越したことはないんだ。一秒後どころか何年経ったって潮なんかふかせるものか。僕の役目は毎年こうやって彼女の目を覚まし、また来年も同じ話をすること。ここが夢みる女とつまらない男の現在地なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪どけず、潮ふけず。 白川迷子 @kuroshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ