Zへ伸びる

 昼のラジオが聞いたことのない詩を詠んで、それに気を取られていたら手元のナポリタンのケチャップがはねて、わたしの白いワンピースの胸に大きな染みができてしまう。これから恋人に会いに行く予定なのに。こういう模様の服なんですって顔で出かけてしまおうかと一瞬思うが理性で留まる。濡らした布巾で叩いてみるが、染みはかえって広がるばかりだ。出発の時刻は近い。とにかく口紅を塗る。イヤリングをつける。服を着るのも食事の後にすれば良かったと気づく。でも、それなら家の中では何を着ていればいいんだ? 他の服はみんな洗ってしまったのだ。「ねえ、」とわたしは庭へ呼びかける。干したばかりの洗濯物の向こうに人影がゆらりと立つ。「こうこさん」とわたしはそのひとを呼ぶ。

「はあい」

 庭仕事に精を出していたこうこさんは、シャツやタオルをかきわけてやってくる。わたしの服の染みを見て、わーお、と土まみれの両手を挙げる。そのお手上げのポーズのまま花壇へ向かい、真っ赤なジギタリスをじょきじょき切ってわたしに寄越す。「これをね、ずっと胸の前に持っておくといいよ」

 こうこさんの助言のとおり、わたしはジギタリスを抱えて駅へ向かう。ジギタリスは背が高くて、服の染みだけでなくわたしの顔までを隠してくれる。混雑と蒸し暑さで殺気立つ構内を、その日はすんなりと通過することができる。わたしのうつむきがちな首や、痛みをこらえているような眉のかたちや、ときどき飛び出そうになる独り言や、落ちつきない目の動きは変わっていないけれど、それらが誰にも気づかれない世界はこんなにも歩きやすいと初めて知る。車両で足を踏まれることも、改札で舌打ちされることも、罵声を浴びせられることも、鞄を引ったくられることもない。予定よりずいぶん早く待ち合わせ場所に到着して、いつもは待たせてばかりの恋人を迎えることができる。

 血を流さず髪も乱れず服も破れていないわたしを見て、恋人は驚き、それから喜ぶ。わたしも微笑んでいるが、それは恋人には見えない。

 わたしと恋人は映画を観にいく。昔の邦画のリバイバル上映で、わたしと恋人が知りあったばかりの頃にも観た作品だ。ジギタリスごしのスクリーンは見えづらいけれど、影に隠れた箇所を想像しながら鑑賞する物語は、前に観たときよりもずっと面白く感じる。わたしが笑えば柔らかな花が頬に触れて揺れる。わたしが泣けば涙を吸った葉が生きいきと艶めく。

 映画を観終わったわたしと恋人は興奮して、建物を出てから感想を語りあう。話は弾んで、そのまま夜まで過ごしたいとお互いに思っているはずだけれど、それはできない。

 わたしと恋人の間には綺麗な、捨てるなんて考えられないほどに綺麗なジギタリスが咲き誇っていて、それを抱えている限りはキスすることも抱き合うこともできないからだ。

 ごめんなさい、とわたしは言う。責められているような気がして、つい口をついて出る。けれど実際に恋人がわたしを責めるのはわたしが謝った後だ。恋人はわたしをなじり、舌打ちし、殴打し、蹴り、わたしの髪を引きちぎる。

 自分の身体の見慣れた部分に見慣れた痣が浮かびあがる。わたしはそれに安心している。あるべきものがあるべき場所に嵌まっていく心地がする。映画を観る前、街や駅や電車で受けとりそびれたものが、やっともたらされたのだ。

 悪いことが遠ざかったように思っても、結局また別のところでひどい目にあう。苦しみは必ず待ち受けている。それはそういう定めだからで、どう足掻いても避けられないことなのだと分かる。わたしは今まで自身に降りかかる痛みや苦しみを、すべて自分のせいだと思っていた。わたしが馬鹿だから、わたしがのろまだから、他人に迷惑をかけるから、だから責められても仕方のないことだと納得してきた。だけれどそうではなかった。だって、今のわたしは間違っていない。燦然と咲くジギタリスを握りしめているよりも美しく正しいことなんて、世界のどこにもないはずだ。

 わたしが間違えなくとも辛いことは起こりつづける。そのことをわたしは嘆かない。選択に価値がないならば、何を選んだっていいからだ。

 気づけば暴力はやんで、恋人は倒れている。ジギタリスの毒にやられたのだと思うが、別の理由かもしれない。それもまたどちらでもいいことだ。恋人がだんだんと恋人だったものになっていく。わたしは途中で立ち去る。映画のようにエンドロールまで見届けるマナーもない。。

 家に帰るころには日付が変わっている。灯りはまだついていて、扉の隙間から線香の煙と、御念仏が漏れている。

 玄関をあがると袈裟をかけたこうこさんが出てきて「おかえりなさ~い」と間延びした声で言う。

「辛気くさいですね、いったい誰のお通夜です」わたしは尋ねる。

「じゅんえんくん~」

 借り物だろう、ぶかぶかの法衣の袖を振って、こうこさんは答える。わたしは呆れて言う。

「それはわたしの名前ですよ」

「そうだよ~」こうこさんは言う。「じゅんえんくんは胸を撃たれて死んじゃったんでしょ。お花だって供えてあげたじゃない。でも、死人のくせにほっつき歩いて、あげくに午前様だなんて、死人失格だね」

 南無南無と唱えるけれどろれつが回らずにゃむにゃむになり、それが自分でおかしかったのかこうこさんは吹き出す。笑いだしたら止まらない。酒が入っているらしい。偽物のうえに生臭坊主ときた。家主でなければ叩き出しているところだ。

 わたしは会話を諦めて、彼女の細い喉がうっかり数珠で絞まらないように首からはずしてやる。それから奥の間に入って、ラジカセのコンセントを抜くと御念仏はやむ。うずまき模様の蚊取り線香がほとんど燃えつきていたので、灰を捨てる。

 部屋の真ん中、棺桶みたいな長いものに布がかかっているが、妙にでこぼこしている。お菓子の空き箱を積んだり繋げたりしたのに、洗濯物をかぶせているのだった。

 柔軟剤のにおいのする衣服を漁る。半端な丈のズボンやボタンが大きすぎるシャツや蛍光色の靴下が引っ張り出される。どれも死装束よりはましだ。

 ぼろぼろになった服から着替えて、わたしはようやくジギタリスの花束をお

ろす。

 遮るもののなくなった目で見る部屋は、散らかっているのにさびしい。客用の布団まで下ろしてあるので、仕舞おうとしたら、こうこさんが来て突っ伏した。

「ほがほがほがん、うんうんうん」

 おやすみなさい、じゅんえんくん。と言ったらしい。

 わたしは一人でジギタリスを飾る入れ物を探すけれど、こんなにたくさんのお菓子の箱があるのにジギタリスを生けるのに丁度いい形はどこにもない。差し当たり細長い箱に横たえたものの、おさまりが悪い。未練がましく角度をいじくっているうちに、萎れかけた花のひとつが手に残る。

 わたしはそれをつまんで、こうこさんの肩に乗せてみる。呼吸にあわせて浮き沈みしていたそれは、彼女が寝返りをうったはずみに落ちる。

 こうこさんのすこやかな寝息を聞きながら、わたしはまだ自分が頼りない感じがして、脚やら顔やらをぺたぺた触るのがやめられない。

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