虹の回廊
若菜紫
虹の回廊
『虹の回廊』
モノレールの最後部に乗り込むと
車体がするすると後方に滑り出した
目の前の空間は車掌席にあたるのだが
無人運転のため空っぽで
ガラス張りの大きな窓には
今し方後にしてきた景色が開けている
前方も
私の座る席から右に眺める窓の外も
彼の座る席から
通路を挟んで隣り合う席の左も
きらきらと限りなく青い人工の海辺に囲まれている
夕べ一晩を過ごしたホテルの高層ビルを離れ
虹の橋
を英訳した名称で呼ばれる橋
夜毎きらびやかにライトアップされ
ロマンチックな観光スポットとなっているその橋
を滑りゆくこの車両
真昼の光と見送る景色に満たされて
そんな中を浮かんだまま
二人を乗せたまま
空間が戻っていく
昨日の昼
高まる気分を
握り合う手に込めながら
今とは反対の方角に車体が向いていた
あの地点に
原色系の虹色に彩飾された楽器を携え
私は彼から目を背ける
頑ななまで
窓の外に視線を向ける
帰り道にはよくありがちな
それぞれの気分
から焦点をそらすため
他愛もない玩具の楽器
数千円の買い物
だが
子どもにギターの練習をさせようと
自宅練習用に購入したことに偽りはないの
だが
彼と初めて訪れた海辺のショッピングモール
そこで入手した
虹色に彩飾されている玩具の楽器
彼と初めて訪れた海辺のショッピングモール
そこまでを辿る
人工の虹
彼が歩きながら
未だに店が存在していることを確認した
「ポムの樹」
は
二人が初めてこの場所で食事をしたレストラン
昨日
彼に再び写真を撮ってもらった自由の女神前
今回は
「LOVE」の字が虹色に彩飾されて
夕べ食事をした
愛と美を司る女神の場所
と名づけられている
イタリア風の街並みを持つショッピングモールは
近々閉鎖される
いつか訪れよう
と話していたが
昨日が最初で最後
再び訪れることはないだろう
戻ってゆく場所
戻れない場所
虹も
愛と美も
直接手で触れることはできないが
人工物として再現されることにより
はじめて物理的な接触が可能となるのか
精神的に
或いは
身体的に接触する
虹と愛と美
初めてこの場所を
二人で訪れた時感じた
心の触れ合いと
十数年を経て
二人で訪れている時体験する
肉体的な触れ合いと
これらを内包する場所の記憶
そこに到る道を私はあらためて見出だす
昼間の高まる想いを
或いは
名残惜しさを乗せる
だが所詮は単なるレールとなり
夜は
きらびやかにライトアップされ
ロマンチックな観光スポットとなる
この
虹の回廊に
『パンケーキの場所』
「自由が丘に来たからパンケーキを食べたいな」
一年ほど前
その人が言った
並木道にあるベンチに並んで座り
一つの箱に詰められた
丸くふんわりとして
掌と同じくらいの大きさをした
スフレ仕立てのパンケーキを
二人で食べた
冬の中
ふいに現れた日だまりを連想させる
温かい味がした
帰り道その人は
私の首筋に顔を近づけ
自分の贈った香水の香りを確かめた
「《この味がいいね》と君が言ったから
七月六日はサラダ記念日」
俵万智を好きになったきっかけである
この歌
健康的で
爽やかなイメージを持つ料理が
恋の歌に使われているという
目新しさに心奪われた
十代の日
恋
というものの持つイメージとは
まるでかけ離れた食べ物が
恋歌に詠み込まれている
思えば
パンケーキ
と聞いて
恋
を連想する人が
果たしてどれくらいいるだろう
一家団欒
親子で簡単クッキング
女子会
あたりが相応しいイメージだった
大学のサークルで
先輩後輩として出会い
そのまま
長い年月を過ごしてきた二人
食事をして
カラオケではしゃぎ
グループで卓球をして
彼に悩みを打ち明ける
近すぎた距離
寒くて冷えてきたね
と
手を繋ぐきっかけの
いつまでも見当たらないまま
冬の日だまりの中で
パンケーキのような
日だまりに留まっていた
遠い日々
それが
終わりを迎えようとしていた
冬のはじめに贈ったマフラーを
その人は外出するたびに巻いている
と報せてくれて
膨らみはじめた桜の蕾の下で
幾度となく唇を重ね合い
鰯雲の浮かびはじめた朝焼けを
抱き合ったまま眺めるようになり
あの日以来
一度も食べていなかった
スフレ仕立てのパンケーキ
冬の日だまりを連想させる味
「うーん、アイスはRちゃんが冷えて風邪をひくから駄目。」
一年ぶりに
二人で訪れた自由が丘
ジェラートを食べたいという私の提案を
その人が優しさから却下する
私は苦笑しながらも
彼の気遣いを受け入れる
そして
「パンケーキでも食べよう」
並木道にあるベンチに並んで座り
一つの箱に詰められた
丸くふんわりとして
掌と同じくらいの大きさをした
スフレ仕立てのパンケーキを
二人で食べた
冬の中
ふいに現れた日だまりを連想させる
温かい味がした
「あの味を食べたいと君が言ったから
自由が丘はパンケーキの場所」
の
少しばかり長い詞書でした
『花束を紡ぐ夜に』
デートの前に
彼が花束を届けてくれた
庭に花がないので
言葉を私に届ける詩に束ね
メールで送ってくれた
詩は言葉の花束である
とは
陳腐な表現になってしまうので
ここに書こうとは思わない
しかし
花束以外に何と喩えようか
飾ることも
彼と別れて帰宅した後
触れて或いは香りを嗅いで
存在を確かめることも叶わないが
メールと一緒に
保存された添付ファイル
というデータとしての実在が
万一消失しても
不在の存在としてあり続ける
『不在の騎士』
という小説を彼から贈られ
近頃読み終えた
甲冑の中は空っぽの騎士
アジルールフォを巡る人間模様
物語の終盤で
アジルールフォの甲冑は
書き置きを添えられて無造作に積まれ
不在の騎士
が消滅する
デートから帰り
私の感情が無造作に積まれていく
つい先程刻まれた抱擁の記憶に
いつもと変わらない時間の流れが
容赦なく被さっていく
夜が訪れ
時間の流れの覆いが瞬く間に
一枚 一枚と剥がれ
剥がれた痛みの狭間から
記憶が顔を覗かせ
散らばった
無秩序な
感情の山から
彼の不在から
私は詩情を掬い上げる
その日経験した出来事や
彼との会話を思い出して
慎重にまた写実的に
言葉を連ねていく
存在が
無造作に積まれた感情の中から
密やかに現れるまで
今朝彼の紡いだ花束を抱き
ひとりで花束を紡ぐ夜
『秋の再会記念日に』
紅葉とは
葉の断末魔だ
と
どこかで読んだことがある
急激な気温の低下に
耐えきれなくなった葉の細胞
そこに起こる異変が
紅葉をもたらすのだ
と
赤や橙や黄色の焔にも似た
色とりどりの秋の木立
綺麗だね
と
喜んで眺める人間は
残忍な生き物なのだろう
一年前の今日も
この小径を通り
待ち合わせ場所に向かっていた
十年ぶりの再会
覚えているのは
木の根を避けて地面を踏みしめるたび
枯れ葉の音が響いたこと
指先が冷たく
久々に履いたハイヒールの足が
ちくちくと痛んだこと
紅葉がどれほど鮮やかに残っていたか
記憶にはあまり刻まれていないが
彼と離れて過ごした年月を
記憶の中から掬い上げ
思いを廻らせていたことは
はっきりと覚えている
一点の曇りも
暈しさえもない今日の空
疎らながらも色とりどりの紅葉
足元には
鶏頭花やランタナやマリーゴールド
彼が私を喩えた花であったり
二人で眺めた花であったり
彼が私に贈ろうとした花であったり
一年分の想い出が
一歩 一歩のたびに
小さく瞬き咲き誇る
寒さによって
情熱的な色に輝く
秋の木立
それぞれの日々を通り抜け
二人の想い出によって
彩られていく現在
人間はさほど
残忍な生き物でもあるまい
見上げると
赤や橙や黄色の焔にも似た
輝くばかりの秋の木立
そして
二人の時間が足元に咲き乱れる
鶏頭花やランタナやマリーゴールド
『朝焼けの中、大遅刻』
「朝焼けの中を散歩したいな。」
あなたが言うから
こんな時間に出てきてしまったよ
上のほうには緋色が燃えて
橙色のぼかしには星がうっすらと
下に沈んだ群青にはネオンの名残が雫のように
今朝は遠くまで行けそうだ
「大学まで歩きたいな。」
私が言ったから
こんなところまで足をのばしてしまったね
張りつめた薄青い冬の空
一点のくもりもぼかしもない
構内はおそらくがらんとしているだろう
今朝は一番乗りができそうだ
「学生以外は来校者名簿に記入するらしいよ。面倒だから帰ろう。」
あなたが回れ右をしようとする
あの日握れなかった私の手を握って
これからホテルに戻り
あの日抱けなかった私を抱くのだろうか
こんな時間に出てきたから
こんなところまで足をのばしたから
どこにだって行けるよ
あの昼下がり
サークルの会誌編集に
私を呼び出そうとした喫茶店にも
あの夕暮れ
学生証を見せながら
自分の辿ってきた人生について
いろいろと話してくれたカフェバー跡にも
でもね
大学の門の前で気づいてしまった
キャンパスから締め出されて
何年もの大遅刻
『一葉日記異聞』
お訪ねしたその日
桃水先生は
私の拙い小説を読まれ
親切に助言を下さいました
その後私は
すすめられたお汁粉を
先生と一緒にいただきました
そして
泣きました
綺麗な 綺麗な想い出は
心ない噂に
汚されました
美登利の投げた
紅い端切れのように
雨の道に打ち棄てられました
ひっそりと
短い命を咲き終えました
霜の朝
信如の挿していった
白い水仙のように
人は私の日記を読んで
訳知り顔に言うのです
樋口一葉と半井桃水は
お汁粉を食べた後
男女の仲になったのだろう
そのいきさつを書かないなんて
これだから小説家は嘘つきだ
と
桃水先生と
私の原稿と
お汁粉と
涙
どこに嘘などございましょう
私の書いた
小説の原稿や手紙を見ようと
人々がここを訪れます
「神奈川近代文学館」
「樋口一葉展」
こんなものができようとは
生きていた頃
私でさえ想像しませんでした
人の手紙や日記などを盗み読みして
何が面白いのでしょう
読まれては困るようなことなど
少しも書いてはいないけれど
一組の男女が
港の見える丘公園を登って
文学館のほうに歩いてきます
仲睦まじく言葉を交わし
指を絡めて寄り添っています
二人の話している内容を聞いて
この女の人も詩を書くのだ
と分かりました
意気揚々と会場の前までやってくると
「本日休館」の立て札が
「Rちゃんが先日のデートについて詩を書いていないから、樋口一葉が怒ったんだよ。」
男の人が笑いながら
恋人をからかいます
今日のことを早く詩に書かないと
次は臨時休館にされてしまうかしら
女の人は思っているようです
休館日を偽るですって?
随分と失礼な
小説家は嘘などつきません
ただ
少しばかり言葉足らずなだけ
詩に託すほか
余計なことを言わないのです
私が先生を恋慕う悦びも
ままならぬ恋の哀しみも
日記に記してしまえば
ただの独り言
書かずにはおられぬ
熱い心の裡をこそ
我が事として
いたずらに残すのではなく
詩に
また他人事として小説に花開かせ
人に繋いでゆく
これを
詩人としての使命と言わずして
何と申しましょう
私の詩は届くのでしょうか
私がこのように残した言葉だけを見て
公園を後にしたあの女の人に
「わが詩は人のいのちとなりぬべき」
と
『虹を架けるこの場所で』
完璧な空間に
完璧な時間が流れているのを感じる時
いつも思い出すものがある
小雨が降る夏のはじめ
恋人と二人で
神保町から東京ドームシティまで歩き
回転木馬に乗り
手を振り合ったあと
キャラクターの焼き印が押されたホットサンドをひとつずつ
テラス席で食べている時
彼が傘を広げ
柄の部分に結びつけて
私にプレゼントしてくれた
お菓子入りのてるてる坊主
「僕が持つからRちゃんは食べて。」
「そうしたらKさんが食べられないでしょ。」
身体を傾けた不自然な姿勢で
傘を持ち
手を添えて
雨を避けながら食事をした
あれから
半年が過ぎた今
パークハイアットの高層階
その角に位置する部屋は
隣接する二面がガラス張りになっており
そこから
刻一刻と移り変わる
都会の遠景を眺めることができる
苔色や黄色や橙が
色鮮やかな模様を織りなしている
皇居や街路樹
秋晴れの空遠く連なり
やがて霞んでゆくビル群
間もなく私は
ホテル内にあるプールへと飛び込む
今日のために用意した
真紅の水着を着ている
肩を傷めており泳げないため
プールサイドを歩く恋人
私は彼に
下手なバタフライを披露する
高層階へと差し込む昼の光に
ちらりと目を向けて
完璧な空間に
完璧な時間が流れているのを感じる時
いつも思い出す
お菓子入りのてるてる坊主
体調に不安があったり
子どもがまだ幼いため
早々と帰らねばならなかったり
雨の中白い服を着て来てしまい
跳ねが上がらないかと気掛りを感じたり
決して完璧ではなかった日
あれから
半年が過ぎた今
何とも分からぬ灯りの列や
甲州街道を走る
色とりどりの光となった車を眺める
恋人と共にウイスキーグラスを傾け
都会の夜に相応しいドレスと化粧に装いを変え
最上階にあるバーへと向かう
オペラシティやスカイツリーを眼前に
オリジナルカクテルを手にして
ジャズの生演奏に耳を傾ける
つい先程まで
私が泳いでいたプール
やはり昼とは違って肌寒さを感じる
恋人は冷え性の私を気遣い
私が休憩のためプールサイドに上がるたび
タオルやバスローブをかけてくれる
二人はそこにあるテーブルで
ナッツやドライフルーツをつまみながら
足元に散らばる光の粒を眺め
他愛もないお喋りを楽しむ
完璧な空間に
完璧な時間が流れているのを感じる時
いつも思い出す
お菓子入りのてるてる坊主
束の間のデートが
好い天気に恵まれるように
と
すでに降り始めた雨の中で渡された
万一の場合
恋人に病気を移さないようにと
キスをせずに距離を保ち
下校時刻に間に合わせるため
ふっつりと途切れるように
彼を振り切って
家まで走らねばならないのは分かっており
それでも
近くに設置されている噴水のしぶきと
霧のように細かい雨粒が
光の中で混じり合っていた
あれから
半年が過ぎた今
押し寄せる朝日に圧倒されてゆくビル群を眺めながら
広々とした浴槽で
お互いの身体を温める
朝食を部屋でとり
オペラのDVDをベッドで観ながら
いつしか愛し合い始めてしまう
恋人の腕枕に身を委ね
<ローエングリン>のアリアを彼方に聴く
目が覚めてからほどなく
私はプールに飛び込む
我ながら子どものようだ
と
半ば呆れながら
相変わらず
一泳ぎするごとに手を振る
プールサイドで笑いを堪えている
恋人の笑顔を間近に感じ
笑いを堪えきれず
プールの中ほどで足をついてしまう
天気雨の中
水しぶきの中
重ねるほどに白く輝く
想い出の光を集め
虹を架けるこの場所で
『淋しくも何ともない』
「僕はRちゃんがいるから淋しくも何ともない」
まだ暗い明け方
ふいに思い出して目を閉じる
「こういう昔からあるホテルは、外資系のホテルに押されて、どんどん閉鎖しているんだよ。」
歩きながら彼が説明する
百日紅の花が闇に浮かび
青々とした紅葉と
枯山水の静かな佇まいの中
池で鯉の跳ねる音だけが響く
「昔、家族でよく泊まったホテルも閉鎖してしまったの。」
ハイヒールの足元を気にして差し出された
彼の手に自分の手を委ね
私は続ける
「淋しいよね。想い出の場所が閉鎖していくのは。」
そして彼が
あの言葉を呟く
小雨の降る
秋のはじめの夜
出発の朝
慌ただしさに紛れて
ロールブラインドを開け忘れていた
子どもは夕べ興奮し
遊び疲れて寝過ごした
二階の窓から投げ与えられる林檎を目当てに毎朝訪れていた鹿も
人の気配を感じられなかったからか
その朝は姿を見せず
子どもはいつも楽しみにしている
朝食作りの手伝いをし損ねた
小雨の降る
春のはじめの朝
最後の時
というのがいつなのか
前もって知ることなど
誰にできるだろうか
あの朝
そうとは知らず
私たちが最後の別れを告げていた別荘を
人の手に渡すための用意をはじめる
小雨の降る
秋の終わりの朝
仕舞い込んでいた
人形も
ドレスも
子ども部屋の壁に架けられた
野生動物の絵も
綺麗に運び出されたろう
天蓋付きのベッドも
覚えたての化粧に夢中で
飽きずに覗き込んでいた鏡台も
伯母と合奏を楽しんだビアノも
トランプやチェスに伯父と興じた
背の高い椅子やテーブルも
人に譲られたろう
アイスクリームを売りに来るワゴンを待ち
母と腰かけていた階段も
祖父がハーモニカの手習いや
小鳥のスケッチを楽しんだデッキも
女四人で
買ったばかりの服を試着して笑い合い
祖母が古いCDを幾度も流していた
裏庭の森に沈む夕日が見える部屋も
幼い子どもが映画を観ては
レーサー気取りで赤い三輪車を
得意気に乗り回していたリビングも
足の悪い小鹿は
今ごろどうしているだろうか
七歳だった私のため
植樹されたセコイアは
今も葉を繁らせているだろうか
ガレージの敷石に刻まれた
家族ひとり ひとりの名前にも
雨は降りしきっているだろうか
毎晩のように聞いた汽車の汽笛は
どこに響いているだろうか
しかし
今朝方も
メールの着信音と共に
彼から送られた詩が
私のスマートフォンに届いているだろう
「僕はRちゃんがいるから淋しくも何ともない。」
まだ暗い明け方
ふいに思い出して目を開ける
『イゾルデは泳ぎ、トリスタンは周りを』
「イゾルデが乗っているのなら白い帆を、いないのなら黒い帆が掲げられているはずだ。」
伝説によれば
トリスタンはこのように呟き
イゾルデを待ち侘びたというが
「じゃ、泳いできます。」
デッキチェアで寛ぎはじめたトリスタンに
軽く微笑みを向け
イゾルデは背を向ける
プールの縁に腰掛け
足の先を水に入れて
水温を確かめながら
身体に少しずつ水をかけ
鉄製の棒でできた階段を降りる
わずかに身を震わせ
落ち着いたところで壁を蹴り
泳ぎはじめる
トリスタンは
周りを歩き続ける
今しがた
イゾルデと指を絡めて寄り添い
ここまできたあたりを
先程まで
イゾルデと抱き合い
シーツを乱れたままにしてきた部屋
その部屋と同じホテル内に
設置されたプールサイドを
昨日の昼近く
高まる気分を胸に歩いた街
その街の上空に浮かぶ
ガラス張りのこの場所を
ただ歩き回る
待ち侘びるでもなく
忘れるでもなく
「また、皆で集まりましょう。」
十数年前
イゾルデは
トリスタンに軽く挨拶の言葉を送ると
背を向けて泳ぎ出した
別々の人生に向かって
新たな波を
ひとつ ひとつと越え
水温を確かめながら
そこに不具合があっても
泳ぎ続け
或いは浅瀬でひと休みし
トリスタンは
あらゆる場所を歩いて
また立ち止まり
時々思い起こしていた
かつてイゾルデと共に
ディズニーランドを訪れた時
一緒に乗った京葉線に
今度は一人で揺られ
本に記された文字を目で追いながら
もう会えないのか
と
東京湾の彼方を眺めて
待ち侘びるでもなく
忘れるでもなく
やがて十数年の時が流れ
二人は
近々の再会を約束する
秋も深まり
寒さを増した朝
落ち葉に彩られた小径を
イゾルデはトリスタンの元へと向かう
待ち合わせた場所は
伝説のような海ではなく
都内の公園であり
交通の手段は
伝説のような船ではなく
散歩にはやや長めの徒歩であり
伝説のような船の帆に代わる
目印さえ決めてはいない
けれど
トリスタンは
プールサイドを歩き回る
そして
今
イゾルデは
プールの深みを泳ぐ
待ちくたびれるでもなく
ゆったりと
忘れてしまうでもなく
変わらずに
彼方の沖を仰いでいる
トリスタンの姿を見とめ
船に乗らずに泳いで
トリスタンの元へと向かうので
帆を掲げてはいない
けれど
上がる水しぶきに映る
朝の光の色は
白
『一葉日記異聞2』
懲りずに
あの二人が
神奈川近代文学館を訪ねてきました
前回逢引きをした時のことを
女の人が詩に書かないまま
ここを訪れたから
樋口一葉が怒って休館日にしたのだ
などと
怪しからぬ冗談を言い合っていた二人が
男の人は恋人に
甘い声で囁いています
ディズニーシー
ホテル
私の生きていた時代にはなかった
華やかな存在
私なんぞ
先生と二人で
ゆっくり出かけることすらできなかったのに
ただ
一杯のお汁粉と
火鉢一つ分の距離に
温め合った想い
それだけを胸に
残りの生涯を
一人で生きねばなりませんでした
私は
魔法をかけました
恋人のことなど考えないで
真面目に勉強なさい
迷ってしまえ
迷ってしまえ
展示を見るのに熱中するように
恋人とはぐれるように
と
女の人は
ひとつ ひとつの展示物に
目を凝らして立ち止まり
恋人は足早に
ガラスケースの前を通りすぎ
二人の距離は
見る見るうちに開いていきます
火鉢一つ分より
遥かに遠く
良い気味だわ
私は口元の
ひそかに綻ぶのを感じました
やがて女の人は
私の書いた手紙を見つけました
先生とお別れして
数年が経ってから
書かずにはおられなかった手紙を見つめ
行きつ戻りつしながら
書かれた年代を確かめているようです
小説家としての
名声を損なわないために
仕方なく別れたけれど
本当は
半井桃水のことを
いつまでも想っていたんだわ
そんなふうに考えを巡らせながら
想い出の中に
ひっそりと置かれていた
小さな火鉢に
ふたたび
小さく火が灯り
燃えはじめました
激しい焔には遠いけれど
明々と
消えることもなく
そして
その火を挟んで
先生は微笑んでおられます
私も微笑み返し
嫉妬に凍えていた手を
温かい火にかざしました
樋口一葉
の名と引き換えに諦めたはずだった
恋の残り火を
今見つけて
目に留めてくれたこの人に
かけてしまった魔法を
そろそろ解いてあげましょう
あなたは
勉強と引き換えに
デートを忘れなくても良いのですよ
女の人は
彼方に恋人の姿を見つけて
そして
足早に近づきます
「樋口一葉展」
二人の後ろ姿が
看板から遠ざかってゆきました
『バッハの曲が流れる部屋で』
焦げ茶色の木目が
四方の壁を区切る
戸棚の形で
サイドテーブルの形で
ベッドの形で
形成された美術館の骨組み
に
時間と空間を隔て
森が息づいている
ガラス窓が印象派の絵画となり
額縁の中で躍動を始める
白い絵の具のぼかしが
ちぎれ雲となって空を横切ってゆく
石畳の道に
突然の雨が
力を失い
風に娜ぶられるままとなった枯れ葉に
光が
点描をたたきつけ
また走らせる
中央に架けられた
現代アートのような
無機質に黒い再生機器
から流れる
一筋の音色の連なりは
ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲
「無伴奏フルートのためのパルティータ」
何処かの森に自生し
光と水を吸収し
あたりを浄めていた樹木
その木を伐り倒した誰か
伐り倒されたその木を
切り
削り
メッキを施した楽器職人
頭部管から息を吹き込む演奏者
樹木と
数人の営みが
音となり
厳かに連続する
ベッドの中で
縺れ合う一組の男女
いつもは
男に任せているデートのプランを
昨日は
いろいろと考えてみたのだ
一緒に観るオペラやバレエのDVDを
馴染みのある楽器店で一緒に選んだこと
共通の趣味である書店巡りを兼ねて
洋書専門店に併設された
行きつけのクリスマス用品店で
ウインドウショッピングをしよう
と誘ったこと
デパートに立ち寄り
彼にムランジェを贈った洋菓子店と
彼に振る舞う料理のヒントを得た惣菜店を案内したこと
バッハの曲
の録音が
「カンタータ 主よ、人の望みの喜びよ」
へと移る
樹木と
樹木を伐り倒した誰かと
楽器職人と
演奏者
演奏者の
両手
両足
音色は連続し
重なり
いつも
デートのプランを考えている男は
フルートの演奏をたしなむ女を
楽器店で催された試奏会に誘い
拙い演奏を大げさにほめ
昼間彼女のお弁当を食べたデパートの屋上に
夜景を見よう
と
陽が落ちてからふたたび誘う
自分には及びもつかないながら
詩を書いている彼女
彼女の文章力上達を願って
勉強会の原稿を書いてきて
深夜に部屋で講義をした
二人の身体が重なり
合わさる
パイプオルガンの高音が移ろい
通奏低音が続く
互いの隅々までを
一箇所 一箇所
一瞬 一瞬
確かめ合う
慌ただしい刻を
緩やかに感じようと
感覚を研ぎ澄ませて
演奏者は
鍵盤に下ろす指を
注意深く
なめらかな連なりに変えて
和音の完結
瞼の裏に散る
光の奔流
『冬の朝』
玄関を出て
慌ただしく扉を閉め
坂を駈け降りた
頬に触れるたび
冷たい空気が
鋭く尖って切れてゆく
走り
坂を降り切った四ツ辻で
いつものように
その人とぶつかった
眼鏡が白く曇り
抱えた南天の実が
赤かった
『その日のくるみ割り人形』
クリスマスイヴが近づいたら
素敵な部屋で一晩過ごそう
高層階から眺める都心の夜景は
お菓子の国みたいに幻想的だろうね
そんな景色を眺めながら
ケーキみたいに甘いカクテルを飲もう
ごめんよ マリー
約束した日に逢えなくなってしまった
急いで代わりの日にちを決めたから
部屋にツリーの用意ができなかった
クリスマスのプランも適用されないらしい
いいわ
二人で部屋を飾りましょう
せっかくクリスマスマーケットに来たから
何かプレゼントしよう
このくるみ割り人形がいいわ
赤と緑のクリスマスらしい色がきらきら光って
帽子にはほら
ピンクのチュチュを着て踊る私がついている
そうだね
このくるみ割り人形を眺めながら
「くるみ割り人形」のバレエを観よう
クリスマスらしいからと君が選んだ
「ラ・ボエーム」でさえ
今夜だけは喜劇になるかもしれないよ
夜景を望む部屋
窓際に近い枕元のスペースには
近くで買ったチョコレートの入った
魔女のイラストが可愛らしい小箱
クリスマスマーケットに入場した時
記念品として渡されたペアのマグカップ
赤に白で
ツリーや街並みのシルエットが描かれている
同じものがもう一つずつ
こちらのマグカップで
グリューヴァインを飲んだね
夜景を望む部屋
窓際に近い枕元のスペースには
小さなお菓子の国
そして
マリー
君と
君を案内する僕がいる
『シュトーレン』
深い緑色をした
針葉樹の梢
を見上げ
深い緑色をした
針葉樹の木陰
に寒さを凌ぎながら
シュトーレンの入った
箱の蓋を開ける
夕べ焼いた
バターやレーズンや胡桃の
甘い陽だまりに混じって
シナモンやクローブが
晩秋の風のように
二人を追いかけ
ログハウスの横に置かれた
もみの木のあたりに
しんと満ちた空気と溶け合う
雪は
降らないだろう
彼が
抱えていた万両の束の
一本の先を
二本の指で
そっと摘む
枝から離れる
赤い実
彼の
二本の指によって
そっと摘まれ
枝から離れ
シュトーレンに振りかけられた
粉砂糖の上に
点
と
赤く
深い緑色をした
針葉樹の梢
を見上げたことも
深い緑色をした
針葉樹の木陰
に寒さを凌いだことも
ログハウスと
その横に置かれた
もみの木のことも
夢
かもしれない
けれど
雪が降っていた
『テーマパークで子どものように』
眼下に広がるトスカーナの街並み
落ち着いた色調の絵画や調度品
そして
至るところに
見てすぐには分からぬよう
風景画や
天井の星座図
に紛れて描かれた人気キャラクターの姿
顔形を象った意匠
憧れていた部屋のベッドで
二人は目を閉じる
一日の楽しかった想い出を語り合い
愛し合おうとするも
眠気に抗うことができない
「テーマパークで子どものようにはしゃぎたかった夕暮れ」
が
「友達という名に紛れて」
から
早くも二十年後の今夜
テーマパークの入口に置かれた地球儀を背に
初めてツーショットを撮ってもらったあの日
ヴェネチアン・ゴンドラに乗らなかった
二十年後
二人は雨の合間にゴンドラで運河に揺られたあと
舟を背に写真を撮ってもらった
マンドリンの音色と水音が流れる
女は声楽を習い
カンツォーネの題名に詳しくなっていた
急回転するアトラクションに初めて乗り
男が文句を言ったあの日
名物の餃子ドッグを一つずつ食べた
二十年後
店の名前を勘違いした女は
もう売っていないのだと思い込んだ
二人は昼食を済ませた後
懐かしい看板に目を止め
想い出の味を半分ずつ分け合って食べた
潜水艦型のアトラクションに乗り
男は女を求めようとする
これらの施設があるエリアのモデルとなった
ジュール・ヴェルヌの小説に
女は息子の影響を受けて詳しくなっていた
貝の城を模した施設で
初めて一緒に買い物をして
人魚姫のキャラクターが描かれた化粧ポーチを
女が購入したあの日
男は女に教えた
本来はイルカのことであるトリトンが
ポセイドンに似たキャラクターの名前として使われているのはおかしい
と
二十年後
イルカのペンダントをつけてきた女は
ピンクのチュールで作られた
リボン付きのパーティーバッグを気に入り
対象年齢を店員に尋ねたところ
十二歳以上
であることが分かり
相変わらず子どもっぽい趣味を
男にからかわれてしまった
遺跡風のアトラクションが立ち並ぶエリアを
初めて訪れ
男が女に抱きつこうとしたあの日
言葉もなく黙々と
闇の中を歩いた
二十年後
有名な洋画をテーマにした宝探しのアトラクションを二人で楽しみ
男もその映画を気に入っていることを女は知った
他愛もない話をしながらジャングルに流れる川を舟で下り
やがて見えてくる地中海風の港町
夕闇に浮かぶ灯りの数々に
女は胸を躍らせる
初めて要塞の上から
入江に煌めく灯を眺めたあの日
男が女の頬を引き寄せた
女は思わずうつむき
二十年後
再び同じ後悔をするまい
と
男の手を引いて階段を上る
ルネサンス風のきらびやかな建物
くっきりと浮かびつつある夜景
古楽器の爪弾き
ここ一年の間に幾度も重ねたように
唇を重ね
永い刻の後
男は
階段の半ばまで駈け降りて立ち止まり
女を急かす
高いところは危ないから早く行こう
と
女は苛立ちを辛うじて隠し
男の後をついてゆく
アラビア風の街並みが続くエリアで
初めてメリーゴーランドに
二人で乗ったあの日
女はアラビアン・ナイト風のヴェールを試着し
よく似合う
と
男に褒められた
二十年後
二人は再びメリーゴーランドを楽しんだ後
ペアのショットグラスに
女の名前と日付を彫ってもらおうと決め
手を握り合ったまま
宮殿の上空に上がる花火を眺めた
豪華客船型のレストランを
初めて見ていたあの日
二人は夕食を食べずに帰ってしまった
二十年後
男は女を喜ばせようと
昔遠くから眺めたレストランを予約した
映画のような船内の装飾に心ときめかせ
女は男に手を取られて階段を上る
しかし
あまりの混みように
風邪をうつされ
幼い息子にうつさないか
と
心配になった
母として感じているであろう女の気掛りを慮り
男は思い切って予約をキャンセルする
そして
乗船する人が食事をするためのレストラン
を
近くに見つけ
女に知らせた
料理をテイクアウトし
船旅に憧れる人さながら
今し方出てきた船のライトアップされた姿を眺め
二人は外のテラスで食事を楽しんだ
眼下に広がるトスカーナの街並み
落ち着いた色調の絵画や調度品
そして
至るところに
見てすぐには分からぬよう
風景画や
天井の星座図
に紛れて描かれた人気キャラクターの姿
顔形を象った意匠
憧れていた部屋のベッドで
二人は目を閉じる
一日の楽しかった想い出を語り合い
愛し合おうとするも
眠気に抗うことができない
「テーマパークで子どものように」
はしゃぐことのできた一日
は
恋人の夜
という名前に紛れようとしつつ
夢の国の夜
を彷徨い続ける
『梟は林檎の樹の中で』
「林檎の樹の下で」
という小説がある
再会を約束しながらも訪れない恋人
を
林檎の樹の下で待ち続けた少女の話
「Old Owl」
というバーがある
同じ建物の中にある「ポムの樹」
と名づけられたレストランにみんなで行こう
という女の提案を男が断り
代わりに選んだ店
「ポムの樹」とは
テーマパークの帰り
三人でお酒を飲み
女が書きかけていた小説について
男が批評をしてから二十年
会わずにいた間
深く考えることもなかった店名
「ポムの樹」とは
今日一日テーマパークではしゃいで
唇を重ねた
ホテルへ戻る前に
「《Old Owl》に行ってみよう。」
と
男は提案する
お洒落なショッピングモール
の
中庭を望む一角
こぢんまりとした暗めの
落ち着いた色調の店内
空調が気になり
新しく設置されたテラス席に並んで腰掛けた
カクテルグラスを傾け
記念日の予定や
再会をしてから一緒に過ごしてきた日々や
昔の想い出について二人は語り合う
夜風が冷たくなると
男は女の首に
女から贈られたマフラーを巻いてやる
二人を見下ろす
梟の形をした
店の看板
あの夜
男と女が食事をしなかった
店の名前
「ポムの樹」
とは
「林檎の樹」
知らず知らずのうちに
今夜を待ち続けていた
あの日の二人
そんな恋人たちがいつかは訪れるのか
と
梟は待ちわびて
林檎の樹の中で
『千切れ雲』
その時
千切れ雲は
空を漂っていただろうか
途切れた記憶と
途切れた写真
懐かしいバーのテラスで
思わず
私が向けたレンズから
あなたが逃げた昼下がり
学生だった頃
夏の夜
あなたと
友達と
三人の仲良しグループで
この店に立ち寄ったね
はしゃいだ一日の終わりに
それぞれ
何を飲んだのやら
あれから
途切れた時間は
どこを漂っていたのだろうか
夕べ
二十年ぶりに訪れたら
ごつごつした木目の目立つテーブルも
焦げ茶色のフローリングだった床も
白く新しくなっていて
テラス席で
前に来たときのことを
あなたと再会してからのことを
とめどもなく語り合い
グラスを傾け
掌を重ね合い
千切れ雲は
空を漂っていなかったね
途切れた写真と
途切れぬ記憶
久しぶりに待ち合わせた秋の日にも
果てしなく続いていた
こんな鱗雲
千切れそうな枯れ葉をつけた冬の枝にも
春のつぼみが芽吹いて
懐かしいバーのテラスで
思わず
私が向けたレンズから
あなたが逃げた昼下がり
『海色の記憶』
私の恋人は写真を撮らない
私は写真を撮る習慣を持つが
縁起が悪い
という迷信を
にわかに気にしたわけではないが
初めての旅行で二人を包み込んだ
海の青い煌めきも
江ノ島の町並みも
龍恋の鐘がある丘も
想い出の白い部屋も
愛を誓ったしるしにつけた錠前の
合鍵を握りしめた
感触の中にだけ
ある時は
部屋のテラスから眺めた夜の海も
遠雷も
中庭の白いアーチや
色とりどりに咲き乱れていた鶏頭花も
彼が気紛れに
たった一枚撮ってくれた
テラスに咲くランタナの写真にだけ
私の恋人は
写真に写ることを好まない
私は写真を撮ることに
あまりこだわらなくなっていたが
海をイメージしたテーマパークでは
自撮り機能を使いこなせず
二十年ぶりに訪れたバーで
レンズの外へと彼は逃げて
私の恋人は
写真に写ってくれる
眼前に海の広がる部屋
青と白の室内に
海底や航海をイメージした装飾や絵画
トランク型のテーブルを前に
彼はソファーでくつろいで
存分に撮ることができた
海の部屋
と
恋人の姿
千切れた記憶のように
半分だけぶれて写った彼の写真
テラスに咲いていたランタナの花と
合鍵の
ひんやりと涼しい感触
に
勢いよく
遡っては吸い込まれていく
海色
『夕日の雫が』
濃い薔薇色をした空が
私を送り出す
今日
という日から送り出す
彼方の山に
煌めいたまま沈んでゆく一日
数時間前
明るすぎる空の下
ひそかに仕舞いこんだ胸の痛み
見送りたい気持ちを抑え
藤色の雲を浮かべて光る方向に背を向けた
ひそかに仕舞いこんだ胸の痛みの
そのままの寂しさで
買い物の帰り道
ほかの日と変わらぬ道
上り坂の向こう側には
星がうっすらと浮かび
紫から群青へ沈む
「昨日今日楽しかった。ありがとう。」
「じゃあね。バイバイ。」
いつもの会話を交わし
彼の持ってくれた荷物を受け取り
彼の貸してくれたマフラーを返し
巻いてあげる
巻いてあげる
と
言い訳をしながら
あたりに人がいないことを確かめて
もう一度だけ抱きついた昼下がり
振り向くと
彼は手を振っていて
振り向くと
角を曲がっていて
しばらく後に
別れ際の想いが押し寄せるのは
あなたも同じはずなのに
濃い薔薇色をした空が
私を送り出す
今日
という日から送り出す
彼方の山に
煌めいたまま沈んでゆく一日
数時間前
明るすぎる空の下
ひそかに仕舞いこんだ胸の痛み
見送りたい気持ちを抑え
藤色の雲を浮かべて光る方向に背を向けた
ひそかに仕舞いこんだ胸の痛みの
そのままの寂しさで
買い物の帰り道
ほかの日と変わらぬ道
どこかで
夕日の雫が
ぽとり
と
落ちる
『在り続けて』
目覚めた時
私の手を握っていた
彼の手を握り返す
それだけでは足りず
抱きつく
というより
抱きしめてしまう
夢の中でも
私は彼の手を握っていた
螺旋状の外階段には
風が強く吹きつけ
飛ばされそうになる
雷鳴がとどろき
しがみついた私を
彼は優しく抱きしめた
決して
からかったりしない
いつものように指を絡め合い
金色に輝くイルミネーションの中を歩いた
まだ薄明るい並木道
「綺麗だね。」
「綺麗だね。」
言葉にすると
たった一言で言い表されてしまう
一年のうちで
一定の期間見られる
美しく華やかな人工物で
けれど
並木道は
灯りを点される前も
灯りを外された後も
そこに在り続けて
「Rちゃんは、この本を読んでみるのもいいかもしれないね。昔読んだ本だから、内容をあまり覚えてないけど。」
「どんな本なの」
「だから詳しい内容を覚えてないけど、相手のありのままの存在を愛する、とかそんな感じで、自分の都合のいいように愛するとか、そんな愛しかたではなくて、相手の個性を尊重するとか、そんな事が書いてあるはず。まあ、相手の個性を尊重する、というのは、シニカルに打算的に考えても、合理的な事で、なんでも自分の思い通りに他人を従わせると、常に他人の中に自分を見る事になるから、そうなると世界がつまらなくなるでしょう。だから自分の興味関心を維持させるためにも相手の個性は尊重しないといけない。打算的に考えてもこういう結論になる。」
「そういう事が書いてある本なの。」
「いや、これは私がいま考えた事。」
「私は正しく愛せていると思う?」
「まあ、読んでみて。」
書店の棚に配置された
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」
この本を
恋人から贈られたい
と
ひそかに思いながら
彼の解釈を聞いて
クリスマスに
彼から贈られたことが嬉しくて
「また『愛するということ』があるね。」
「まあ、ベストセラーだからね。」
こんな会話を交わし
ひとりの時に
書店で再び
この本を見つけると感動して
恋人に家の近くまで送ってもらった別れ際
を思い出す
買い物の帰り道
薔薇色の夕日に満ちた空に背を向けても
輝きはそこにあって
夢の中で
私は彼に抱きつく
いたずら心を起こし
首筋をきつく吸って
噛み痕をつけてしまう
彼は静かに目を閉じたまま
困ったように頬笑むと
優しく私を抱きしめた
決して
からかったりしない
並木道は続き
『愛するということ』は積み重ねられ
夕焼けは輝いて
だから
目覚めた時
私の手を握っていた
彼の手を握り返す
それだけでは足りず
抱きつく
というより
抱きしめてしまう
『降りしきる花々を』
夜を雪が染めてゆく
街灯のあたりに目を遣ると
ものすごい速度で
白く軽い
ひとひら
ひとひらが
目をあざむいて
重力と
スピードを感じさせながら
私は風邪をひいている
昼間寝ていたせいか
目が冴えているので
ベッドに腰かけ
贈られた本を読む
冬
という単語をタイトルに入れてある小説を
贈ってくれた人はこの瞬間も
私のことを想っているだろう
雪がやまないうちに
読み終えられるだろうか
一年分の
記憶が降り積もる
雪が
桜の花びらが
風に舞うような
ゆったりとした感覚で
虹色に瞬きながら
薔薇
山吹
小手毬
紫蘭
京鹿子
紫陽花
グラジオラス
秋桜
鶏頭花
藪蘭
彼岸花
金木犀
南天
万両
の色なのか
それに混じって
久々に再会した日
近くの店でパンを買い
公園のベンチに座って食べた
その時
あたりに満ちていた
秋の光の色
初めてキスをした日
手を繋いで踏みしめた
足下の枯葉や
芽吹きはじめた若草の色
私を愛撫したあと
からかおうとする彼から
思わず顔をそむけ
見上げた先に咲いていた
桜や紫陽花の色
指輪を買ってもらった日
恋人の書いた詩と
表現力は豊かさに感心して
そのことを話した時の
少しばかり得意気な彼の声色
暑い日に
彼が買っておいてくれた
冷タオルで涼んでいたが
うっかり
なくしてしまい
また
水溜まりに落としてしまい
気落ちした
その時
公園の階段に映っていた二人の影
母校のキャンパスを歩きながら踏みしめた
木の根のごつごつとした感触や
様変わりした駅のホーム
初めて
花束を届けてもらった朝にも
メリーゴーランドに乗った日にも
結ばれた夜にも
静かに
また激しく降りしきっていた雨粒の銀色
一夜を明かしたあくる朝
打ち寄せていた波の光や砂のざらつき
帰り道に見上げた
椰子の樹の影
見えない花が
次々と降りしきり
咲き誇り
次逢うまでに
束ねきれるだろうか
『雪がバレンタイン当日に』
風邪をひいて
床についている間
降りしきり
積もり
煌めきながら溶けていった
雪
が
バレンタイン当日に
再び降るらしい
「風邪が良くなってきました。14日、家事に時間がかかるので少しの間ですが、良かったら逢いませんか?」
と
メールを打とうとするが
その数日後に逢う約束をしているのだから
治りかけだったら移さないだろうか
早起きしてお弁当を作り
遅刻で時間を無駄にせず
待ち合わせ場所へたどり着けるだろうか
長い時間をかけて
長い距離を乗り継いでくる苦労を
彼は先日こぼしたばかりではなかったか
と
いささかのためらいが
ふつふつとはじける
あたかも雪の結晶が
地面に触れ
内部の張力が
外界へと破裂していくように
東京に雪が降った日
彼の手を握り
背中に腕を回して抱きしめ
首筋に口づけた
目の前の闇が揺らぎ
私は一人で横になっている
見慣れた白い天井
ざらざらした感触を見てとることができる
これを
雪と見間違えることはないが
雪の予感を重ねるのは楽しい
身体は火照り
思わず布団を除ける
敷き毛布の温度を上げていたからか
微熱があるのかと体温を計り
病院へ行くほどのことはあるまい
と安堵しながら
何とも
夢の中に留まり
先程握っていた手を
手繰り寄せたい気持ちになる
今朝と
今しがたと
よく
こんな夢を見る
窓の外はすでに暗く
街灯に照らされた雪が
地面へと急ぐ
彼が送ってくれた詩のファイルが
スマートフォンに届いているだろう
今朝がた送られた
シニカルな詩を読んで
私が拗ねたので
他の詩を書いたはずだ
鋭い分析はそのままで
入れ子構造にラッピングされたロマンティシズム
彼らしい
返事のメールを打ち
送信ボタンを押し
彼から贈られた本を読みながら
降り積もる雪を眺める
次に目が覚めると
外には白い光
家の前に積もり
なかば溶け出した雪
息子と雪合戦をしてやれなかったことに
何とも言えない申し訳なさを感じ
しかしながら
体力が戻りつつあることに安心する
夢の中で彼と愛し合い
目覚め
送られた詩に拗ねて
また
夢の中で彼と愛し合い
目覚め
送ってくれた詩に
彼らしい
と思いながら
やはり嬉しくて
雪を眺めながら
贈られた本を読んで
そんな時間を
白く彩った
雪
が
バレンタイン当日に
再び降るらしい
多くの恋人たちが腕を組んで
華やかに彩られた街中を歩く日で
手袋をしても冷えるだろう指先は
温かい手を求めていて
時間をかけずに作ることのできる
お弁当の発想が浮かんでいて
一緒に眺めたい風景が
足音を忍ばせていて
と
いささかの誘惑が
ふつふつとはじける
あたかも雪の結晶が
地面に触れ
内部の張力が
外界へと破裂していくように
風邪をひいて
床についている間
降りしきり
積もり
煌めきながら溶けていった
雪
が
バレンタイン当日に
再び降るらしい
『今日が灯りはじめる』
彼と逢う
ことのできた
今日
が
暮れてゆく
私が贈ったマフラー
を
とうに外しているけれど
ポケットに入れた手は
少しずつ温まっていく
「今日はマフラーをしてきたから借りなくて大丈夫。ありがとう。Kさんが風邪をひいちゃうよ。」
「いいよ、貸すよ。」
「あと、このホッカイロ、一時間ぐらいたたないと温かくならないから封を切って持ってきた。Rちゃん、病み上がりだから気になって。これ使って。」
別れ際には
彼に返すマフラー
数時間後には
ざらざらした感触だけを残していく
使い捨てのホッカイロ
だけど
「お洒落な本屋さんね。」
「この本に載っている料理、Kさんに作ってあげたいの。けど、一緒にいる時作るには時間がかかりそう。」
「面倒くさいってことね。」
「Rちゃん、この作者のかこの作者の本、どれか買ってあげよう。」
「嬉しい。気になっていた本なの。これかこれかこれの中で。」
「全部買えってこと?」
「違う違う。迷っているの。じゃ、これがいいな。」
「おー、これか。頭を使う本だよ。」
日差しは温かくて
マフラーは
私の長い髪を
風に逆らって押さえ
ホッカイロは
ポケットの中で
主張すべき想い出を飲み込んで
黙ったままで
「お弁当美味しい。」
「良かった。ガパオライスっていうの。」
「お客さん、すみません。そこは飲食禁止なんですよ。」
「すみません。じゃ、外に出ましょ。」
ベンチには
ビル風が吹き荒れて
コートの下に敷いたホッカイロの存在が
ほのかに立ち上ぼり
「寒くない?」
「少し。」
マフラーに包まれた首ごと
彼の胸に顔を埋め
コートにくるまれる
マフラーの上で交錯する
私
と
彼
の
存在
「チョコレートパンケーキ、美味しいね。」
「あ、寒いから禁止していたのに、Rちゃん、アイス食べちゃったね。」
「手がすべすべだ。」
「そう、寝込んでいる間、家事ができなくて。」
「ハンドクリーム贈っても意味ないってことね。」
「電車が来る。」
抱き合って
彼の温もりが
ポケットの中に入れてあるホッカイロに
移り
ほのかに灯りはじめて
彼と逢う
ことのできた
今日
が
暮れてゆく
ポケットに入れた手は
少しずつ温まっていくけれど
近くて遠い
この温もりに
問いかけたくなる
私が贈ったマフラー
は
今ごろ
温まっているだろうか
今日
が
灯りはじめる
この時に
『マフラーに隠れた彼を』
苛々と
玄関の鍵穴に鍵を差しこみ
今日のために履いていた
白いブーツのファスナーを
もどかしく下ろして
愁然と
首元からほどくと
それが
棚の上にすべり落ちる
マフラーに
隠れた彼が
クリスマスプレゼントとして初めて
私の贈ったマフラー
密かに気に入っている店で
一目惚れして買った
青系のタータンチェックが
ひときわ鮮やかなウール
に
隠れてついてきてしまった彼が
サンダルを突っ掛け
恋人の手を引くようにして
玄関を出る
呼び出し音のあと
魂の抜けた彼の声
「ごめん。忘れ物。」
意地を張ってはいないけれど
言葉が見つからず
鍵を閉めそびれた
深夜のドアに目を配りながら
マフラーに
隠れた彼を
恋人を差し置いて
贈り主を
今日一日温めてくれたマフラーに
怒っている私と
拗ねた私にかける言葉を
見つけられないままの恋人から
忘れられてしまったマフラーに
隠れたままの彼を感じる
まだ
温かい
坂を
急ぎ足で上ってくる人影
数分前に
別れたばかりの人影
に
駆け寄り
マフラーに
隠れた彼を
解き放ち
持ち主に巻きつけ
そして
抱き締める
『不在の豹』
膝からすべり落ちたのだろうか
烏にさらわれたのだろうか
それは
もう
ない
彼にとって
見知らぬ少女
だった頃から
左手を覆っていた
豹柄の縁取り
を持つ
黒い手袋
「仕方ないよ。もう諦める。ありがとう。」
ベンチの下や
石段のあたりをのぞき込み
あちらこちらと走り回っていた
彼のそばに駆け寄り
笑顔を作って告げる
豹は猫の仲間だから
烏を返り討ちにして
また
戻ってくるだろう
数日前
手袋を忘れた日
「痛いほうの肩に鞄かけたりして大丈夫なの?うーん、申し訳ないけど、ありがとう。」
裸の手を温めようとして
私の
右に
左に
彼が移動しては
交互に指先をさすってくれた時
自宅で息を潜めていた
豹柄のモノトーン
膝からすべり落ちたのだろうか
烏にさらわれたのだろうか
それは
もう
ない
「これなら温かい。うん、温かいよ。」
昔馴染みの手袋から
置き去りにされてしまった
左手の指先を
彼が握り
時々さすって
私は
残された右の手袋を
彼の右手に重ねて
絡み合う
右手
と
右手
縁取っている
豹の毛並みが揺れて
弾んで
自分をさらった烏
を食べて
帰ってきた
しなやかに
熱を帯びた
モノトーンの
豹
『不在の掌』
部屋を出て
エレベーターホールへと向かう
贈られた手袋をしたままで
指と指とを絡み合わせ
重なりあった掌が
あと一時間ほどで離れる
準備を始めようとしている
また
逢えるのに
まだ
時間はあるのに
朝から昼へと移る
オフィス街に
駅のホームに
住宅街に
光が揺らめきはじめる
ゆらゆらと
近くの人や花がぼやけ
彼方の植え込みや店のひさしが
急に
視界をおびやかす
一人で
買い物袋を提げ
坂を上ってゆく
数時間前に見送った
彼の幻影を見いだそうと
振り返ってみる
星は刺さるように身近だ
もう
帰ってきたのに
数日
逢わないのに
出迎えた
玄関が
コート掛けが
飾り棚が
電球に照らされ
ここにあるものと
ここにないものとが
残酷に分けられた空間で
指先をつまんで
そっと引き
コートに仕舞った手袋から
遠い掌を
いとも簡単に探し出し
自分の掌を重ねてみる
『少し綺麗に』
スイッチを入れると
部屋が
すいっ
と
浮かぶ
住み慣れた町の
夜を昇るエレベーター
温めておいたベッド
マットを押して
僅かにできた木枠のスペースに
薄緑色のチューブを
一旦置き
手に取って眺めてから
蓋を回し
中身をほんの少し
指の赤い部分
皹の切れたところに
絞り出し
なじませる
ほのかに漂うハーブの香り
ゆったりと豊かな
チューブのふくらみと重みは
綺麗になりたい
私自身の気持ちのようで
少し綺麗になれる
かもしれない
明日のようで
これを贈ってくれた人に逢う
明日のようで
私の手を
その人の
大きな手が包み込む
長い指を持つ
すべすべした温かい手が
しっかりと包み込む
夕べ
少しだけすべすべになって
今朝も
少しだけ
すべすべした名残があって
そのあと
熱いお湯に触れて
みるみるうちに赤くなって
温まったのが
冷めて
温かさと一緒に
すべすべした手触りも
どこかへ行ってしまって
ついさっき
あのチューブの蓋を回し
中身をほんの少し
指の赤い部分
皹の切れたところに
絞り出し
なじませた
けれど
こんな時は
手袋などないほうが
十分温かい
けれど
スイッチを入れると
部屋が
すいっ
と
浮かぶ
住み慣れた町の
夜を昇るエレベーター
温めておいたベッド
マットを押して
僅かにできた木枠のスペースに
薄緑色のチューブを
一旦置き
手に取って眺めてから
蓋を回し
中身をほんの少し
指の赤い部分
皹の切れたところに
絞り出し
なじませる
ほのかに漂うハーブの香り
ゆったりと豊かな
チューブのふくらみと重みは
綺麗でいたかった
私自身の気持ちのようで
少し綺麗になれた
かもしれない
今日のようで
これを贈ってくれた人に逢った
今日のようで
今日伝えそびれた
たくさんの言葉のようで
『航跡』
乱れたシーツに乱反射する
朝の白い光の中で
ぴったりと
ひとつになっていった
あの時
私の中に
海が見いだされる
深くうねり
燃えさかりながら
密やかに煌めき
そして
透明に鎮まりながら
嵐を待ち望んで
船が
嵐を呼び起こす
猛々しく
波に自らを打ちつけながら
海に身をまかせ
そして
水面の揺らめきを仰いでは
再び闇に沈んで
春のはじめの朝
都会の一部屋に
くっきりと記された
航跡
『薔薇色の町』
歩道橋の上から
見下ろした
赤々と輝く町
住み慣れた町
富士山の見える町
息子の通う小学校も
さっき彼と別れた四ツ辻も
解き放たれたような
薔薇色の町
そんな
薔薇色の光が
少しずつ
山の端へ
一点の
真紅の雫となって
抱きしめたかった
薔薇色の町
『灯りはじめて』
ビジネスホテルの
四角い白い玄関から
薄闇に足を踏み出す
明るく白い空間
から
夕闇に沈みつつある街へ
前に
このあたりで過ごした時間
まだ
ぎこちなかった二人の時間を
女は思い出し
いつの間にか
笑みが浮かぶのを感じる
テラス席に向き合って座り
ビールのグラスを傾ける
想い出のように
アルコール分が
身体を駈け巡る
のだろうか
自分と
冬の空気と
訪れつつある闇と
沈みつつある光との
境がぼやけて
ぽつりぽつり
と
虹の雫が
灯りはじめた
『海は掌に還って』
白い
さらさらとした感触を辿り
昆布や若布のこびりついた石段の
丸みを帯びた縁で
足をすべらせないように
ゆっくりと降りれば
靴の裏が重くなる
岩場の円い小さな
数知れぬくぼみや
崩れそうに濡れた砂
を
注意深く踏みしめ
透明
碧
白
白い縁取りのついた青
さざえの蓋
さらわれ
洗われ
戻ってきた
海色のかけらたち
指でつまんで拾い上げても
手を傷つけることはなく
もとの感触に
もしかしたら遠い
海の気配を纏って
仲間たちと待ち合わせた駅
長谷寺
小町通り
天むす屋
紫芋ソフトクリームの看板
陽の落ちきった由比ヶ浜
帰りに二人きりで
揺られていたJR横須賀線
机の引き出しに仕舞われていた
遠い日の断片
写真の記憶なのか
あの時の記憶なのか
揺り起こしながら
砂浜を掘り起こしながら
あの日のように
二人で並んで
ただ
今は
指を絡ませて
宿の階段へ
『遠い江ノ島』
髪を直す
乱れた髪を直す
エプロンの紐を
しっかりと結び
キッチンに立つ
窓の外には
江ノ島
夕陽が沈んだあと
闇に沈み
灯りだけを
ぽつりぽつり
と浮かばせた
遠い江ノ島
「あの日は寝不足だったの。」
「空と海が眩しすぎて、目が痛くなった。」
「波が白く光っていたね。」
そんな想いの数々を
料理用に購入した
缶入りの赤ワインと一緒に飲み込み
まな板と包丁を取り出す
彼は
もう
キッチンカウンターで
手持ち無沙汰のようで
シュッシュッシュ
人参の皮が剥ける
パリパリパリ
玉葱の皮が落ちる
トントントン
人参も
玉葱も
みじん切りに切られて
「恋人の丘で、錠前の上と下を間違えたまま、名前を書いたね。」
「緊張して、鐘の手応えを感じそびれてしまった。」
「特別な日のために、特別なウイスキーとチーズを用意してくれていたね。」
そんな想いの数々を
みじん切りにされた野菜と
レンズ豆と一緒に
鍋へと放り込む
彼は
もう
野菜とチーズとオリーブをつまみながら
くつろいでいて
コトコトコト
スープが煮える
ドキドキドキ
はじめて作るギリシャ料理
「白い部屋が綺麗だった。」
「朝までの時間、今でも忘れられないよ。」
「朝焼けが眩しかったね。」
そんな想いの数々を
鍋の中身と一緒に
さっとかき混ぜ
スープ皿に入れる
彼は
再び
ベッドから起きて
キッチンカウンターに座り
遠い江ノ島の灯りが
二人の目線の彼方に
『umigasuki』
「すみません。この鯵生食で大丈夫ですか?」
「へい、いらっしゃい。大丈夫だよ。」
海沿いの小さな駅
この駅前にある
昔ながらの鮮魚店
生食が可能な鯵と
サガナキ
という
ギリシャ料理を作るために
あれこれ迷って選んだイカ
私は買い戻す
海沿いの小さな駅
いつの間にか
相模湾に流され
この駅前にある
昔ながらの鮮魚店に
長年預けられていた夢を
受け取り用のパスワードは
umigasuki
喉をカラカラにさせたまま
海沿いの小さな駅に
降り立ち
一歩を踏み出した
遠い日
かばんの中には
古典の教科書
高校生が
文法も含めて学ばねばならぬ
日本の古い恋物語
春の海風が
ゆったりと吹き抜けていた
バスのロータリー
はじめての日と
最後の日と
寄せ書きに残る
少女たちの筆跡と
写真に残る
幼いままの笑顔と
自らを叩きつけては躍り
瑠璃色に碧に光を取り込む
そんな波を胸に秘めていた
あの日の私
字面を追い
写真を一瞥するより
素早く
名前を確かめ
顔と
成績と
好きなの
と
語ってくれた
何か
と
照合するより
じっくりと
十年以上が経ち
あの子たちの質問に答えたか
とうに忘れてしまった
先生は海が好き
と
文法の学習には
到底収まりきれるはずもない
恋物語は
あの子たちを
どのように通り抜けているだろうか
私は
海沿いの小さな駅に
今日
降り立ち
歩いている
かばんの中には
付箋をつけた
ギリシャ料理の本
絡み合わせた指には
光るペアリング
ロータリーを吹き抜ける風には
まだ
冷たさが残るが
指先が温まってゆく
「すみません。保冷剤あります?」
「お客さん、二日も持ち歩くの?そんなのいらないよ。」
海沿いの小さな駅
この駅前にある
昔ながらの鮮魚店
生食が可能な鯵と
サガナキ
という
ギリシャ料理を作るために
あれこれ迷って選んだイカ
私は買い戻す
海沿いの小さな駅
いつの間にか
相模湾に流され
この駅前にある
昔ながらの鮮魚店に
長年預けられていた夢を
(撮れたてなのだから大丈夫だろう。)
受け取り用のパスワードは
umigasuki
(やはりあの子たちに教えていなかったのか、あの子たちは夢を預けていないのか。)
『町には海が』
砂のついた服を玄関で払ったり
鞄のポケットから
貝殻やシーグラスを取り出して
引き出しに仕舞ったり
慌ただしく動き回る
先ほど
洗濯かごに入れたネグリジェは
寝汗を吸っていて
あの町には
海
が
満ちていた
白く
さらさらと
置き去りにされて
気まぐれに伸ばされた
風
の
手
によって
あるいは
満ちた潮が引く時に
白く
さらさらと
置き去りにされて
道路にまではみ出したまま
町を彩っていた
海
ママ
は
エプロンの紐を結び
バンダナで髪を被う
黒く
さらさらと
バンダナからはみ出して
はいけない
「Rちゃん」
が
スマートフォンの
メールアプリを起動する
添付ファイル機能で選択した写真
白いレンタルハウスの内部
長い髪を肩に流したまま
上目遣いでベッドに腰かけている
あるいは
早朝の海に面した
窓の側
布団に顔を埋めている
ママ
と
背後から声をかけられる
慌ててアルバムの画面を閉じ
メールを保存して
リビングに向かい
ドリルに赤ペンを入れる
夕食にと
彼から贈られたステーキ肉に
二人で買った塩を馴染ませ
熱したフライパンに乗せ
料理の写真を撮るふりをして
スマートフォンのメールアプリを起動し
ママの中に
「Rちゃん」
が
今ごろ
きっと
あの町は
満ち潮
『小さな地中海』
高架下に新しくできた
ヨーロッパ風のカフェ
白いシンプルなテーブルの並ぶ
こぢんまりとしたテラス席
鉢植えのオリーブが作り出す木陰で
女は過ぎた日を想う
背伸びをして
少しばかり短くしていた
制服のスカート
学校の帰り道
駅の雑貨店で買い求めた
銀色に小さく光るペンダント
一つだけボタンを外した
ブラウスの襟からのぞかせて
当時住んでいたこの町で
下校途中に
母親と待ち合わせて
一緒に食事をしたり
お茶を飲んだりしていた
陽気の良い昼下り
学校の早く終わった昼下り
ようやく
校則から開放された少女の
彼女を
それまで縛っていた校則
に対する
遅まきながらの
ささやかな
反抗
そんな試みをする時
その場所は
必ず
側にあった
帰り道
レストランの店先に
カフェのテラス席に
隣の家の庭に
あるいは
古びたマンションのベランダから
綺麗な空気を
思い切り吸いこもうと
深呼吸をした時
想像の中に
現れていた
オリーブの木陰と
白い空間との織り成す
小さな地中海が
『黄昏』
いつの間にか
薄青い空が
さらさらと流れてくる
風が
ゆっくりと輝きながら
垂直に降りてくる
私の身体に沁み込んでいた
化粧品の香りが
暮れかけた空気の中に
ゆっくりと溶けてゆく
薄い空色をしたボディスクラブ
ジャスミンの香りが
黄昏時の
空
の色で表されている
オイルと塩の混じり合った液体
「ジャスミンの香りが好きなの。Kさんからの気持ちが嬉しくてつい使いすぎちゃう。」
彼に甘えてもたれ掛かりながら
今日も囁いただろうか
それとも
他の日だったろうか
そんな昼下りも過ぎ
私の我儘で
喧嘩になってしまった
察してほしい
希望を叶えてほしい
と
気持ちを押しつけてしまったことが
悔やまれる別れ際
声を聞きたい
けれど
黄昏時には
建物の
外
と
中
の
明るさが同じになるのだ
と
聞いた昔を思い出す
まだ
気まずいのではないだろうか
電車に乗っていて
出られないのではないだろうか
そんな空気の中に
白い
ハゴロモジャスミン
の
鉢植え
「一年前から」
「私の体調が良くなかった日に、どんな花が欲しいか聞かれて答えたのを覚えていて」
「品種や育て方やおそらく花言葉も調べて」
ひとつひとつ
言いたいことはある
けれど
「苦手なバスにわざわざ乗って」
「寒い日には家の中に入れて」
「肩を痛めているのにこれを持って
電車に乗って」
これだけの言葉を
詰め込んだら
とてつもなく長い
そんな
それだけの理由で
ありがとう
しか
受け取れなかった
愛
心なしか
受け取った今朝よりも花開いて
胸に沁み入り
ざわつかせる
そんな
愛
を見出したくて
顔を
植木鉢に近づけて目を閉じる
ほのかに甘く
しかし
混じりけすらなく
清らかに
一瞬だけ佇み
静かに消えて
また
一瞬だけ佇み
静かに消えて
私も
花の中に忍び込んで
一瞬だけ佇み
静かに消えて
また
一瞬だけ佇み
静かに消えて
まだ
気まずいかもしれない
から
電車に乗っていて
出られないかもしれない
から
暗く傾いた庭で
まだ
気まずいかもしれない
けれど
電車に乗っていて
出られないかもしれない
けれど
風に乗って
扉を通り抜け
明るく浮かんだ室内に
『美しい町角』
四ツ辻に置かれた
自動販売機の前で
足が止まる
一本のボトルコーヒーに
目が留まる
まばゆい朝
あの人が佇み
本を読み
行きつ戻りつ
私にプレゼントするための
花束を抱えている
あるいは
明るすぎる昼下り
デートの別れ際に
あの人が手を振り
家の敷地に入る
私の後ろ姿を見届け
角を曲がる
すぐそこの四ツ辻
手には
一本のボトルコーヒー
私の目が留まった
一本のボトルコーヒー
駅近くに置かれた
自動販売機の前で
佇み
ボトル入りのジャスミンティーに
目を留める
何の変哲もない
古びた商店の
シャッターは閉じたままで
赤やピンクの
小さなゼラニウムが
四六時中
横長のプランターの
乾いた土に植えられていて
小鳥の餌が
撒きっぱなしになっていて
ジャスミンの花を
届けてくれた朝
あの人が
自動販売機のボタンを
押して
一本のジャスミンティーを
私に差し出し
もう一度同じボタンを
コーヒーが
ジャスミンティーが
馥郁と香る
美しい町角
『シャーウッドの森で』
そこは
シャーウッドの森
というイメージに囲まれていたのだった
イギリス式の庭園を持つホテル
朝早く出かけ
帰るなり
彼が差し出したお菓子
可愛らしいキャラクターが描かれた箱
を囲んで
雨に濡れた窓辺から
二人で外を眺める
ヴィクトリア様式の小さなテーブル
灰色に烟る空間
植え込みの緑が
喩えようもなく瑞々しい
「嬉しい。ありがとう。」
公園の木陰で
激しく唇を奪われた時のこと
息がつけなくなるほど
腕に力を込め
抱きしめられた時のこと
一年前のことを
女は思い出し
恥ずかしそうに微笑む
男は
何を考えているのだろう
眠気が醒めないのだろうか
昨日歩き過ぎて
疲れが残っているのだろうか
密かに
一人で想い出を温めながら
二人で朝食の会場へと向かえば
そこは
シャーウッドの森
いう意味の名前を持つレストラン
柳や
未だ花を咲かせるには早い
薔薇のアーチや
点々と紅い山茶花
の庭に
ロビンとマリアンの姿が
『小雨の彼方に虹が』
人が
夢の国
と呼ぶテーマパーク
そこへと続く
灰色に乾いたプロムナードを
小雨が細々と湿らせてゆく
小雨が触れて
徐々に冷えてきた指先を
彼の手が包み込む
行き交う高校生のカップル
その姿が途切れた空間に
あの日の私が
忽然と姿を現す
からからと
乾いた音を立ててベビーカーを押し
一人で歩いていたのだろうか
雨は降っていただろうか
一人
と
雨
という不確かな記憶
の中の私は
走れない
人が
夢
を見る場所で
私には
虹が視えない
小雨の彼方に
虹が架からない
夢の国は
すぐ目の前にあって
そこに向かって歩いているのに
彼が隣にいた日々を
ただ走りたかった
親しい女性の先輩と彼と三人で
幾度となく
ここを訪れ
何も考えず
入園ゲートに向かって急ぎ
はしゃぎ回っていた日々を
再び走りたかった
乗り物や
上りと下りを
間違えたまま乗ってしまった
デパートのエスカレーター
遠ざかる景色には
追いつくことも
手を触れることもできない
どれほど近くに見えていても
そんな景色のような
還らぬ日々を
人が
夢の国
と呼ぶテーマパーク
そこへと続く
灰色に乾いたプロムナードを
小雨が細々と湿らせてゆく
小雨が触れて
徐々に冷えてきた
もう片方の手を
彼が引き寄せ
指先を
彼の手が包み込み
ふと過る
もう会えないのか
と
東京駅を
この駅に続く鉄道の乗り場近くを
一人で歩いていた彼の姿が
私も
温まったほうの手で
彼の指先を
行き交う高校生のカップル
その姿が再び現れ
あの日の私は
忽然と姿を消す
小雨の彼方に
虹が視える
虹の回廊 若菜紫 @violettarei
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