第1章「前夜――2」

「止まれ」

 銃声の余韻を掻き消すように、男の声が部屋に響く。

 春日井は腰へ回していた手をぴたりと止め、声へ銃を向けることはせず、視線だけをそちらへ送った。

「そのまま銃を捨てて、手を頭の上に。変な気は起こすなよ」

 傷の男だった。その手には、砂色の拳銃。春日井と同じような、顔の寸前に銃を保持する構えで、その照準を彼女へ定めていた。

 まるで翼を広げるように両手を横へ伸ばしながら、ゆっくりと男へ向き直る春日井。

 右手に握られていた黒い拳銃と、左手に握られた角ばった筒―—拳銃のマガジンを放る。からからと乾いた音をたてて、床を滑っていった。

 そしてそのまま、行き場のなくなった両手を頭の上に置いた。

「マグチェンジのタイミングを計算に入れるべきだったな。素人ルーキーが」

 傷の男が言う通り、先ほど春日井が手放した銃は、スライドが後退したまま遠くの床に転がっていた。

 彼女の右脇にはもう一挺が、しかし持ち出される余裕もなくそこに収まっていた。

 春日井は男の目をまっすぐ見据えていた。そして男の視線も、銃のサイトを挟んで彼女に重なっていた。鍔迫り合いのような交錯の中、男が続けて口を開く。

「軍人ではないな。Ripperリッパーか?」

 傷の男も、そしてつい先刻まで生きていた彼の仲間も、操る言語は英語であった。そして屋上での通信から一変して、春日井も流暢な英語で言葉を返す。

「その呼び方、あまり気持ちの良いものではありませんね」

「何が目的だ?」

「答えたところで、私の生死に関係ないでしょう?」

 男の拳銃にちらりと視線を向ける。

 春日井から男の拳銃までは、手を伸ばしても指先が触れない、ぎりぎりの間合いであった。銃を抑えることも、まして格闘に持ち込むことも出来ない。

「なぜすぐに引き金を引かなかったんですか?」

 男は答えない。

「お仲間に関心がないように見えますが、なぜ?」

 男の目がわずかに動く。しかし、

「黙れ。リッパーなら人質としての利用価値もないな」

「ええ、そうですね。ですが―—」

 男が僅かに眉を釣り上げる。

 春日井は一呼吸置くと、口の端をにっと上げ、

「あなたの弾は、私を殺せません」

 釣り上げていた眉を、今度はくっとひそめる男。銃を握る手と、食いしばった歯、そして全身の筋肉に力が入る。

 顎を小さく引き、険しくしわを寄せた左目が、少し傾いた拳銃のサイトと一直線に並んだ。

 対して春日井は、まるで全身が緊張を忘れたように、ただすっとそこに立っていた。

「死ね」

 男が引き金を引き切り、撃針が弾丸を叩くのと、男の視界から霧のように春日井が消えるのは、殆ど同時であった。

 それは、ゼロコンマもない時の流れであった。

 春日井が力なく倒れていく。

 しかしそれは絶命したからではない。銃弾はまだ、拳銃から飛び出してすらいなかった。

 銃のマズルから炎が吹き出す。弾丸が彼女の頬を、耳をかすめる。

 すると倒れゆく彼女の足が、たんっと地を踏みしめる。体の慣性を殺し、運動の方向を前方へぐるりと変えた。

 狙うは男の視界の斜め下。銃とそれを保持する腕で生まれた死角。

 彼女は低い姿勢から左手をジャケットの右脇に突っ込み、もう一挺の拳銃の引き抜きざまに、その手で男の両腕をかち上げた。

 居合切りのような一撃に、銃を握ったまま両腕を天高く掲げる男。その防御のない腰に、春日井の鋭い蹴りがめり込む。

「がっ……!」

 男の視界が白黒と点滅する。たたんと二足後ずさりする男。

 蹴りの勢いそのままに、銃を両手で握り込み、胸元へ引き寄せる春日井。

 何かを抱え込むような、何かを大事に持つような構えから、かちんっと引き金を引き絞る。

 先ほどまでの銃声と異なる、ばすんっという空気量の多い音が響いた。

 爆炎の中から飛び出した弾丸は二つに割れ、その中からワイヤーで繋がれた二本の針が飛び出した。

 男の脇腹、防弾プレートの隙間に深く刺さり込んだ二本の針は、男へ強力な電撃を浴びせる。

 全身の筋肉が収縮したように硬直した男は、叫び声を肺から絞り出すと、その激痛と衝撃から拳銃を取り落とし、地面へと倒れ込んでしまった。

 春日井は照準を固定させたまま、さっと男へ歩み寄る。咄嗟の反撃を警戒し、男のリーチの僅か外より、落とされた拳銃を遠くへ蹴り飛ばした。

 男はばたりと倒れたまま、流れ続ける電撃と硬直への無意味な抵抗で、陸に上がった魚のように体を痙攣させる。

 ばしゅんっ!

「がぁっ!」

 二発目の電撃に、男の顔が一層歪む。

 春日井は男の手を捻り上げると、彼の背中へ抑え付け、その上から片膝で体重をかける。

 男も必死に抵抗を試みているのだろうが、その筋肉は彼の指示に従わない。

 もう片腕を一まとめに、後ろ手に取り出したワイヤーで巻き上げる。

 足もぐるぐると拘束すると、銃を彼に向けたまま、すぐさま男から距離をとる春日井。

 しばらく男もバタバタとしていたが、先程までぐねぐねと曲がり手足に巻かれたワイヤーは、今や元からその形に鋳造された鋼のようにびくともしない。

 やがて諦めたのか、男は一息に悪態を吐き、そのまま静かになった。

 拳銃を視線から僅かに下ろすと、春日井は部屋をぐるりと見回す。立ち上がる者はいない。

 ビルの一室は、緊張の息遣いを持たない静寂を取り戻した。



 部屋の隅へ転がっていた黒い拳銃を拾い上げる春日井。拾い上げた拳銃と入れ換えで、電撃を放つ拳銃をホルスターへ収める。

 腰のポーチからマガジンを取り出し、空マガジンと入れ換えで押し込む。スライドを一杯に引いて放すと、かしゃっと小気味良い音とともに、一発目の弾丸が装填された。さらに春日井は半分ほどスライドを引き、再び手を放す。弾は正しく装填されていた。

 拳銃をそのまま両手で握り、春日井はそのまま窓際の机へ、そしてそこに転がっている白髪の男へ歩み寄っていった。

 片膝をつき、男の傍らに屈みこむ。

「コンプトン・テクノロジー社、ロバート・コンプトン社長ですね」

 動かしますよ。と一言断ると、春日井は彼を机へと寄り掛からせた。

 彼女が目隠しと猿轡を断ち切ると、コンプトンと呼ばれた白髪の老人は、暫くぶりに開かれた視界にしぱしぱと目を瞬かせ、訝しげに春日井へ目を合わせた。

「警察です。貴方を助けに──」

「警察? お前はリッパーではないのか? 私を殺しに来たんだろう?」

 春日井を遮り、彼女を顎で差す老人。

 むっとしかめそうになった顔を、春日井はあくまで何もなかったような表情で隠した。

「私の任務はテロリストの制圧と、貴方の安全確保です。間もなく別の部隊が到着したら、そちらへ貴方を引き継ぎます」

「……まあいい、わかった。悪いが、手と足の硬化ワイヤーも切ってもらえるかね?」

「申し訳ありません。今の私の装備ではどうにも……。後続の部隊なら、切断用の装備を持っているはずです。あと数分です。どうかご辛抱下さい」

 春日井が真っ直ぐそう言うと、老人はふんっと鼻を鳴らしそっぽを向いてしまった。

 感謝も労いもなかったが、春日井は気にする素振りもなく耳の通信機に軽く触れると、

「終わりました」

 一言だけ発して、その指を離した。

 しばらくすると、部屋の扉が勢いよく開かれた。そしてそこからは、黒ずくめの集団が音もない波のように押し寄せてきた。

 全身を黒い防弾プレートとヘルメットで固めた、まるで甲冑かロボットのような見た目の集団。その背中や肩には、POLICEの白字がコントラストとなって際立っていた。

 すくっと立ち上がり部屋の出口へ向かう春日井と入れ替わりに、隊員達が傷の男へ殺到する。

 同時に、右肩に赤いラインの入った隊員が、コンプトンへ駆け寄っていた。その後ろを、小さめのキャリーケースのような、車輪のついた直方体の箱が

 きゃらきゃら──

 ネズミの鳴き声のようなタイヤ音と共に付き従っていた。

 赤ラインの隊員は、社長に大きな出血等が無いことを確認すると、ベルトのポーチから大型のニッパーのような工具を取り出した。

 工具は社長のワイヤーにあてがわれ軽く握り込まれると、

 キィーン……

 甲高い金属音とともに、ワイヤーをまるでバターを切るように切断してしまった。

 彼は社長に二三質問すると、傍らに付き従う箱にべたりと手を触れる。すると、箱の姿かたちはパズルのように目まぐるしく変化していった。

 箱の底に付いた四つの車輪がそれぞれ四方へ伸びて、同時に箱型だった本体がぱたぱたと展開し、大人一人が寝そべる事ができるほどの天板となった。

 箱の中に収められていたパイプが伸び、天板とそれぞれの車輪をしっかりと固定している。その様子はまるで、完成したあやとりの糸をぱっと広げた瞬間のようだった。

 それはストレッチャーと呼ばれる、タイヤで移動させることができる担架だった。

 隊員が社長を担架へ横たえさせているのを一瞥すると、春日井は部屋を出た。

 非常灯の薄暗い廊下で、部屋の入口に佇む隊員に敬礼を送る春日井。彼も敬礼で返事をした。

 引き継ぎます、と一言残し、春日井はそのまま彼の横を通り過ぎ、暗い廊下を去っていった。

 幸いなことに、エレベーターは非常電力で稼働していた。高層ビルの一階まで降り、これまた薄暗く人の気配のないロビーを通り抜け、小さな裏口から建物の外へと出る。

 その建物は樹々に囲まれる形となっていた。

 等間隔に植林された景観と、整備の行き届いた舗装路は、まるで大きな公園を思わせるが、樹々の向こうに見えるフェンスと、そのさらに向こうに見える高い塀、そしてその両者のてっぺんで茨を張る有刺鉄線が、不釣り合いに重苦しい空気を放っていた。

 ビルの外周を暫く歩くと、建物の外壁を背にするようにして、一つのベンチが設置されていた。そしてそこには、春日井が見知った一人の男が座っていた。

 相変わらず美男と言える、育ちの良さそうな整った顔立ちだったが、その刃物のようにシャープな目つきは、どこか人を寄せ付け難い雰囲気を醸し出していた。

 細身の体に黒いスーツを纏い、その上から砂色のコートを羽織る彼は、長い足を組んでベンチに腰を下ろし、微かに湯気立つコーヒーの缶を手持無沙汰にゆらゆらと揺らしていた。

三船ミフネ課長」

「ああ、思ったより時間がかかったな、春日井」

 彼が視線を春日井に向ける。小さな子供ならたちまち大声で泣き出してしまうであろう、刺すような視線。しかし残念にも、これが彼にとって普段通りの顔なのだ。

 春日井の顔を一瞥すると、男は一枚のフェイスタオルを彼女へ放り投げた。

 どことなく正面へ視線を戻した男は、缶の底に残ったコーヒーをあおり、

「それを使え。むこうに水道があった」

 不愛想に続けた。

 彼女にはそれだけで伝わる話だった。ぺこりと軽く頭を下げると、春日井は近くにあった水飲み台で、その赤黒く斑になった手を洗い流した。

 絹のような白さを取り戻した手をタオルで乾かすと、春日井はジャケットから小さな鏡を取り出し、二つ折りのカバーを開く。貝殻のように開いた鏡を、水飲み台の上に置いた。

 タオルの端を水でしっかりと濡らし、頬を軽く拭う。真っ白だったタオルに、小さく錆色の染みがついた。

 衣服に血は目立たなかったが、それは色のおかげだろう。仕事服に返り血が付くことは、彼女にとって少なくない。特に気にする素振りもなく、春日井は水道を後にした。

「私はこのまま署に戻るが、君はこの後休みを?」

「ええ、仮眠を取らせて頂こうかと。出勤は17時でよろしいですか?」

「ああ、問題ない。その時間は全員揃っているな。丁度気になる報告も上がってきている。話はその時に」

 春日井が左手首の黒いバングルのような物に軽く触れると、彼女の手首に白い文字が小さく投影された。そこに映された時刻は、既に深夜1時をまわっていた。

「家まで送ろう。車をまわす」

「いつもありがとうございます」

「なに」

 気にするな、とでも続けたげにそう返すと、男はベンチからすっと立ち上がり、どこかへ歩いて行ってしまった。

 男の背中を見送り、ベンチへ腰を下ろす春日井。何気なしに顔をあげると、星の光を打ち消すように光り輝く電球色のビル群が、月明かりに代わって彼女を包んでいた。

 まるで空へ向かって無限に伸び続けているように感じられる街並みは、すっかり空の面積を削り取ってしまっている。夜空を見ようとすると、首が痛くなるほど上を見上げなければならないだろう。

 彼女の背後に背を伸ばすビルの屋上から、ヘリコプターの耳障りな羽音がこだまして、そのままどこかへ飛び去って行った。

 3月のまだ少し冷たい風が、彼女を撫でる。耳元の髪を掻き上げながらふうっと漏らした彼女の息は白く曇り、そのまま街の光へ呑まれて消えていった。

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閃影の摩天楼 鮭野沙花菜 @-amatori-

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