第1章「前夜――1」

 とある高層ビルの屋上に、一人の女性がいた。

「現着しました。侵入経路の指示を」

 鈴のように澄んだ声が告げる。

 彼女が話しかけている相手、その姿はそこになかった。彼女が見下ろすその視線の先には、煌々と光り輝く摩天楼が―—眠らぬ街、東京の夜景が広がっていた。

『その屋上の南の角に、緊急用の排気ダクトがあります。そこが唯一、目標に直通しているようですね』

 耳につけた通信機から発せられる声―—まだどこか少年らしさを残した、爽やかな声の青年に従い、彼女は屋上の一角へと足を進める。

 ビル街の中心近くに佇む建物とはいえ、屋上はいやな静けさに包まれていた。

 風が空を切る音。そして、彼女が纏っている衣服の翻りのみが、そこに響いていた。

「見つけました」

 大型の室外機や排気管が乱立する中で彼女が発見したのは、マンホールほどの大きさの、床に埋め込まれた金属の枠だった。金属枠の内側、ダクトの開口部は、両開きの扉のような二枚の金属板で、隙間無く塞がれている。

『排気管内に複数のハッチがあるようですね。こちらの操作で開放します。ですが、管理システムに長く接続していられません。セキュリティの巡回に探知されるまでの時間から考えて、開放は数秒間が限界です』

「つまり?」

『降下中に再閉鎖された場合、下半身だけ部屋にお届けすることになります。』

 光景を想像し、苦虫を噛み潰したような顔をする彼女。その表情を、夜の帳が隠していた。

「……了解しました。注意します」

『それじゃあ、システムに侵入します。……と、その前に、一つ聞きたい事があったのですが』

 唐突な会話の転換だったが、青年の声の裏では、何かの機器を操作するノイズが、途切れることなく鳴り続けていた。

「なんでしょうか?」

『いつも通りのメンバーなら、つまり、スティーブさんやシノ先輩も招集すれば、ビルの正面からでも制圧できたのでは? なぜわざわざ、手間のかかる方法にしたのかな? と』

 先程までの雰囲気と打って変わり、まるで世間話をするような調子で疑問をぶつけた青年。

 その問いに、微笑を含んだ吐息を漏らした後、

「今日は二人とも非番の予定です。今回は、先輩方の大切な予定を潰してしまうほどの仕事ではないでしょう?」

『……ええ。6人くらいなら、ですよね?』

 呆れの色混じりに、青年が応えた。

 次の瞬間、足下から放たれた光が、夜闇に彼女の姿を映し出した。

 ダクトの入り口から発せられる電灯の光に暴かれた彼女は、妙齢の女性だった。

 ビル風にたなびく、やや癖のついたボブカットの黒髪。くっきりとした顔立ちだが、そこに並ぶ丸みを帯びた目には、どこか幼さが感じられる。

 そして、すらりと伸びる体躯を包む、夜空を落とし込んだような濃紺のパンツスーツ。そのジャケットが風で翻る度に、肩から吊された黒いホルスターが、そして脇下でその中に納められた、左右二挺の黒い拳銃が見え隠れしていた。

『侵入に成功。ライトも点灯していますね? これからダクトを開放します。緊急排気の突風に注意してください。……それと、春日井カスガイさん』

「どうしました?」

 春日井と呼ばれた彼女が聞き返すと、青年は少し意地悪そうに続けた。

『奴らに、バレットアーツを見せてやって下さい!』

 通信越しの彼に、ニッと笑って見せた春日井は、

「そのつもりです」

 空気を吐き出す音と共に開放されたダクトへ飛び込み、吹き上げる強風の中に姿を消した。

 そしてその直後、咆哮するダクトの口は再び閉じられ、明かりの消えた屋上は、再び静寂に包まれた。



 どこかの建物の、広々とした一室。壁掛けの絵画や装飾の施された照明は、まるで高級ホテルの一室のようにも感じられるが、今は非常灯の青い光が、部屋を薄暗く包んでいた。

 その空間は、場末の酒場でも聞こえない喧騒で満ちていた。

「クソッ! 約束の時間まであと1時間もねえぞ……。さてはお得意の時間稼ぎか⁉」

「おい、約束のカネはどうなる? まさかここまで来て『タダ働きでした』で済むと思ってんのか!」

「お前には金しか頭の使いどころが無いのか! そもそも、ここから無事に出られるかも分からないんだ。良くて外で機動隊に逮捕、最悪その場で蜂の巣だ!」

「……いや、たとえ外に出られても、仕事の失敗を奴らが知ったら……」

「じゃあどうするってんだ!」

 装飾品をなぎ倒し、そこらにあるものを投げ飛ばしながら喚く男達。壁に当たったグラスが、音を立てて弾け飛んだ。

 その部屋にいた7人の男のうち、沈黙を貫いていたのは2人のみだった。

 1人は、苛立つ5人と同じ服装―—ダークグレーをしたつなぎの戦闘服に、防弾プレートが入った装備ベストを着た、壮年の白人男性。剃り上げた頭に刻み込まれた一文字の傷跡と、猛禽類のように鋭い眼光を持つ男だった。

 彼は部屋の一番奥、シャッターが閉められた大窓の近くに置かれた、革張りの椅子に腰を下ろし、これまた一等豪華な木製の机の上に、両足を放り出している。

 もう1人は、その机の横に座り込んでいる男性。目元と両手両足に巻かれた布帯と猿轡によって、視界と言動の自由を奪われた格好で、そこに放られていた。

 目隠しで覆われていても分かるしわの深い顔に、大分後退した白髪の、スーツを着た男性だった。そして彼こそ、傷の男が座っている机と椅子の、そしてこの部屋の本来の主であった。

 その他には、ブーツでタカタカと苛立ちを表現しながらも、まだ比較的冷静な男が三人、壁にもたれて傷の男の近くに控え、先程から喚き声をあげている二人が、部屋の中央と入り口付近にそれぞれ立っていた。

「……それで隊長、これからどうします?」

 苛立ちを抑える男の一人が尋ねると、一同の視線が傷の男へ集中する。

 充満する緊張。傷の男は深いため息と共に天を仰ぎ、椅子に一層体を沈めた。

「ここまでか……。だが、今の俺たちが頼れるのは、奴らだけだ」

 椅子から跳ね起き、部屋を見渡して続ける。

「各員、撤退用意。下水道を使いこの建物と敷地から脱出する。下水道にて散開、合流地点はポイント2Aに変更。〇二〇〇マルフタマルマルまでに合流できなかった者は、死亡したものとする」

 小さくうなずくと、先程の無秩序が嘘のように、黙々と装備を確認し始める男達。

 何人かは胸のポーチから箱型のマガジンを引っ張り出すと、ストラップで肩から掛けた銃―—ごつごつと角張ったシルエットに、ブーツのような形のストックが付いたアサルトライフルに差されたものと交換した。ガシャッと金属の擦れる音が、部屋に響く。

 傷の男以外の男達が頭を収めているのは、格闘技に用いるヘッドギアのようにも見える、頭部から頬あたりまでを覆う黒い防具であった。そして彼らは、防具の奥の素顔を目出し帽で隠していた。

 各々が小銃を手にする中、傷の男だけが再びの深いため息とともに、拘束された老人に歩み寄る。

 老人に向かって差し出された手、そこには、砂色をした軍用の大型拳銃が握られていた。

「恨むなよ、武器屋のジジイ。お互い仕事だ。分かるだろう?」

 白髪の側頭にピタリと向けられた銃口。拳銃の引き金がぎりぎりと絞られていく。

 傷の男がぼそりと、呪文のように唱える。

「我等主より離れ、地を放浪する者と成るべし」

 その瞬間であった。

 撃鉄が落ちる寸前、突然の旋風と共に、部屋の中央──天井に口を開けるダクトの金網が崩落する。

 そこから吐き出されたのは、2メートルに満たないほどの真っ暗な影だった。

 影は床に落ちるとそのままごろりと転がって、最も近くに居た男の手前で人の型に展開する。夜色のスーツを纏った彼女、春日井であった。

 中腰の彼女から爆裂する破裂音と閃光。そこから放たれた小さな金属塊は、その瞬間彼女へ向けられた男の左目を突き抜け、後頭部のヘルメットへめり込む。

 男の命が途絶えるのが早いか遅いか、傷の男も銃を白髪から彼女へ向け直す。文字通り瞬間に起こった出来事に、彼らの思考は追い着いていなかったが、耳をつんざく銃声が脳を早回しさせた。

 人間であると―—敵であると認識したに向かい、男達は一斉に引き金を絞る。

 ドダダダダッ!

 爆音がドラムロールを奏でる。春日井は目の前で倒れゆく亡骸を、傷の男へ強く蹴り飛ばした。小銃弾が死体へ吸い込まれていく。

 死体が銃弾の盾となっている間に、部屋の入り口の男に一発、壁際へ三発、手だけを動かし拳銃を放つ。超音速の弾丸がボディアーマーを殴り付け、男達の顔が歪む。

 入り口の男へ距離を詰める春日井。彼女は一挺の角張った拳銃を、眼前で斜めに握り込んでいた。

 タンッ! 

 甲高く鋭い発砲音。防護のない顔面めがけ発砲された弾丸が、男の命を刈り取る。

 くるりと彼女が向き直ると、残る男達は今にも引き金を絞らんとしていた。

 春日井はすっと横に身をかわすと同時に、3発を胸元から撃ち出す。アーマーを貫きこそしなかった弾丸は彼らの照準を逸らし、ライフル弾が春日井の横数センチをかすめる。

 すっと気配を感じ、視線だけを横に流す春日井。直後にばっと身を翻した彼女の鼻先を、

「はあっ!」

 細身の刃が一閃する。視線に捉えたのは、銃剣を装着した小銃を突き上げる男の姿だった。

 瞬時に男へ拳銃を向けるが、

 ガチッ!

 その手を小銃のマズルが弾く。がら空きとなった春日井の胸に、男の銃剣が迫る。

 にやりと猟奇的な笑みを浮かべる春日井。待っていたと言わんばかりに半身に銃剣を躱し、同時に拳銃と反対の手で、突き出された小銃をぐいっと引く。

「うっ⁈」

 間抜けな声と共に、思わず二三足たたらを踏む男。

 春日井は蛇のごとくするりと男の背後に回ると、拳銃を男の首に引っ掛け、小銃を引き寄せた左手はそのままクロスするように相手の腕を掴む。

 仰け反るような姿勢となった仲間を盾に取られた男達。

 混沌としていた空間が、氷結したように静止した。

 銃口をぴたりと彼女へ向ける男達は、標的を取り囲もうと一歩、また一歩と静かに足を進める。さながら獲物を追い込む狼の群れだった。

 対して春日井は、盾の男を両手で固めたまま、自身より大きなその背中に隠れるように、体を縮める。

 春日井と三人の距離は三メートルもない。盾の男にとどめを刺して三人を相手取っても、一人を狙う間に二人分の弾丸を浴びることになる。

 沈黙と緊張で、室内が飽和する。

 男達の両端二人が、春日井のその小さな肩を視界に捉えようとした瞬間であった。

 盾の男が大きく仰け反ると、彼の喉元にあてがわれた拳銃が二度火を噴いた。春日井は銃を男の喉に掛けたまま強く引き、右端の男めがけ発砲したのだ。

 首の拘束を解かれたかと思うと、そのままうなじに弾を撃ち込まれる盾の男。

 そのまま押し飛ばされた死体が、中央の傷の男へ倒れ掛かる。

 そして、春日井が死体を押し飛ばした左腕、その脇の下へ回された拳銃が、

 バンバンバンッ!

 左端の男へ弾をばら撒いた。

「ぐっ……!」

 胴体への衝撃に体を丸める左の男。その前に突き出してしまった顔面に、拳銃を構え直した春日井の追撃が的中する。

 男の頭ががくんと上へ仰け反り、その衝撃で人形の糸が切れたように、前へばたりと倒れる。

 春日井が拳銃を構えたまま後ろを振り返ると、先ほど弾を食らい怯んでいた男は、今にも銃口を彼女へ狙い直そうとしていた。しかし、既に構えている春日井が間一髪速かった。

 彼女の顔から三十センチほどで火を噴く銃口。自動拳銃のスライドが、彼女の顔を叩かんばかりに後退する。

 放たれた二発の弾丸は、ヘッドギアに包まれていない男の顔、その鼻筋と眉間に小さな風穴を開け、続いて穴から血と脳漿が吹き出す。小銃のトリガーに掛けられた男の指は、撃鉄が落ちる寸前で力を失った。

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