あいのあいさつ
鵜川 龍史
あいのあいさつ
「ありがとう」
わたしの心は、鎖と錠前で閉ざされてきた。そんな心の奥深くまで響き渡る声は、これまで生きてきた七十年分の記憶を一度に蘇らせた。意識を周囲に巡らせると、美術館に飾られた絵画のように記憶が並んでいる。コスモスのほのかな香りに誘われて視線を向けた先には、秋の風に吹かれたわたしの姿が、年ごとに一枚の絵となって飾られていた。
その中に、紺青のワンピースを着て踊る、二十二歳のわたしの姿があった。故郷を見下ろす丘の上にあるコスモスの花畑。くるくる回るのに合わせて、二段フリルの裾がふわりと広がった。バランスを崩したわたしはそのまま花畑に倒れ込み、桃色の花びらが空に舞った。
痛い。
見る間に、フリルに血が広がっていく。ワンピースに紛れ込んでいた針が、白い腿に刺さっていた。義母から贈られた物だった。
隣の絵は、初めての恋人が去った時のもの。ブラウスのボタンがちぎれてはだけ、胸元に血が滲んでいる。その後、繰り返し経験する失恋の中で、この時抱いた感情は何度でも戻ってきた。
秋はつらい季節だった。一枚、また一枚と、時間を遡ると、どの風景の中でも涙をこらえていた。やがてたどり着いたのは展示室の隅――記憶の終着点だ。
飾り気のない黒いワンピースを着たわたしは、十歳だった。
涙の止まらないわたしの手を握っているのは、父だ。その手も震えている。母の棺を前にして、参列者たちの祈りの言葉が花びらのように舞っていた。ふと見上げた父の顔は、母の方ではなく、正面に立っている女の方を向いていた。女は冷たい笑みを浮かべて父を見つめ返している。父の手は汗ばんでいた。女の手の先には、暗い影が漂っていた。
やがて棺は土の中へ消えていった。
「ずっと、一緒にいて」
悲痛な叫びが、今のわたしを貫いた。
思わず通路を見回す。母の姿を求めて。どこかに、母との記憶は残っていないのか。別の部屋に紛れ込んでしまったのだろうか。
秋の風景を去り、別の展示室に足を踏み入れた。父の再婚から三か月に及んだ家出、恩師と二人きりの教室で行われた卒業式、大学で経験した友人の喪失――いくつかの記憶が重なる時、不思議な暗がりが生まれる。それだけでは決して気づくことのない盲点のような。大切な何かがそこにあった気がする。
ひときわ大きな絵の前で足を止めると、父の亡骸に縋り付いているわたしが、横目で義母を睨みつけていた。義母は、母の葬儀の時に見せた冷たい笑みを浮かべて、庭にいる犬に骨を投げていた。その脇から延びる通路に足を踏み入れると、両側の壁に飾られた絵から、わたしが微笑みかけてきた。ひどくさみしい笑顔だった。通路の終わりには、冬の海を描いた絵があった。ようやく死んだ義母と犬を焼いたわたしは、その遺骨を崖の上から撒いていた。
暗い通路を抜けると、天井の高い部屋に出た。光の溢れるその部屋の中で、わたしは夫と誓いのキスを交わしていた。隣では、産まれたばかりの子どもに頬を寄せていた。子どもの成長はどれも美しかったが、やはり小さな暗がりはどこかに潜んでいた。
孫が産まれた時、革命が起きた。家を焼き出され、人々と共に丘を目指した。最後にたどり着いたのは故郷のコスモス畑だった。
老いたわたしは、夫の車椅子にすがりついて、丘の頂上に向かう緩やかな坂を登っていた。傷だらけの体と、油の切れたような関節は、自由とは程遠かったが、心は晴れやかだった。コスモスの花畑でたどたどしく躍る孫の姿は、夢の中の風景のようだった。
記憶の旅は終わろうとしていた。最後の展示室は小さく、どの絵にも老いたわたしの顔が大きく描かれていた。刻まれた皺の一つひとつ、染みの一つひとつに、苦しみも幸せも、何もかもが織り込まれている。何より印象的なのは、その目だ。曇り一つない瞳は、涙を湛えた十歳のわたしの瞳と同じだ。
初めて会ったあの日の瞳と……。
「ずっと、一緒にいて」
記憶が乱れる。目の前に暗い霧がかかる。
あの日のわたしは、自分の手を掴む母の手を振りほどけなかった。わたしには、その力も、意志も、存在しなかった。わたしの頭の中は、暗闇そのものだった。そして、その闇に差した光が、あなたの瞳だった。
「ずっと、一緒にいてくれて、ありがとう」
その声が、鎖で閉ざされた心の奥に響き続けていた声と重なり、鍵穴の中に滑り込んだ。鎖が、塵となって消えた。
「ずっと、一緒にいてくれて、ありがとう」
その言葉が、オセロの最後の一手のように、全ての絵画の意味を反転させた。描かれていたのはわたしではなかった。わたしの目が捉えた、義理の姉さんの記憶だった。
一人ではなかった。わたしたちは。
弱いわたしを守ってくれた姉さん。何もできないわたしを世話してくれた姉さん。母から守ってくれた姉さん。新しい家族の中にも居場所をくれた姉さん。
姉さん、姉さん、姉さん。
「あなたを残していくのだけが気がかり」
わたしは、自由の利かない体を引きずり、姉さんの棺に忍び込んだ。祈りの声が降り注ぎ、土がかぶせられる音に重なる。鼻をくすぐるのはコスモスの香り。記憶の中で語り掛けてくれた姉さんは、今、わたしと一緒にいる。姉さんの意識が終わっても、わたしの意識が続く限り、姉さんはわたしの中で生き続ける。
そうすれば、この棺の中に流れる時間は、永遠になるだろう。
あいのあいさつ 鵜川 龍史 @julie_hanekawa
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