終章

平成二十七年八月七日


 私はパソコンのスピーカーから流れる声を聞いています。

『なんで制服なの? 今日は登校日?』

『登校日じゃないけど、学校で模試だったから』

『そう、どうだった?』

一度だけ録音された、病室での母との会話。この三十分足らずの会話が、私にとっては母との最後の会話。もう何回聞いたか分かりません。全ての言葉を覚えてしまっているくらい。いつからか、この母の声を聞いても涙は出なくなりました。私は母の声を聞きながら、天井近くに掲げた母の遺影を見ます。母らしく、明るく元気な笑顔です。この写真は母が亡くなる二か月ほど前に、正善さんが天橋立で撮ったもの。二人で出掛けたこの日、母はやたらと写真を撮ってと言ったそうです。当時、最近の写真がなかった母が、遺影用に撮ってもらったのだろうと思います。写真は他に三枚並んでいます。二枚は祖父母の遺影。そして母の写真の横にもう一枚。聡子さんの遺影。私が聡子さんの遺影を持っていることはないのですが、隣に聡子さんを並べておかないと、母が怒りそうだから。母が亡くなって十回目の夏です。そして明日は命日。

「綾、そろそろ出るよ」

と、下から呼ばれました。あ、話が飛びすぎですよね。しばらく時間を頂いて、この十年を簡単にお話しします。


 母が亡くなった日、色々とバタバタでした。私は半日分くらい、その日の記憶がありません。覚えているのは、安置室で彩子さんに肩を抱かれて長椅子に座っているところから。夕方、葬儀屋さんに運ばれて母は帰宅。私は彩子さん、優子さんとタクシーで続きました。まな姉と純子さんはいつ帰ったのか知りませんが、先に家にいました。家に帰って見ると驚き。居間のソファーセットも、台所のテーブルセットもありません。何もない広間になっていました。あとから知ったのですが、向かいの純子さんの家の駐車スペースに運び出されていました。居間だった広間には簡単な祭壇が作られていて、母の棺はそこに置かれます。カーペットが敷かれ、折り畳み椅子が並べられます。そして慌ただしく通夜法要が行われました。これも後から聞いた話ですが、せっかく彩子さん、優子さんが遠くから来てくれていたので、まな姉がそうしたようです。正善さんは通夜ギリギリに来ました。みんな悲しみの最中にバタバタとことが進み、連絡するのを忘れていました。阿部のおばさんはいつものようにお昼過ぎに病院に来て知りました。正善さんに連絡したのはおばさんでした。

 通夜の参列はその時にいた方々と近所の方が何人か。優美の一家も来てくれました。びっくりしたのは、日付が変わるころに安部のおばさん、聡子さんのお母さんが来たことでした。正善さんが知らせたそうです。通夜法要が終り、振る舞いの席の人影が少なくなった頃、まな姉は壊れました。母が亡くなった後、私と同じように涙の海にいたまな姉。でも、葬儀社の方が来て、しなければならないことが出来ると立ち直りました。そこからは平静を保って喪主を務めていました。法要が終わってから棺の周りでは、私と純子さんが泣き続けていました。そのうちに、彩子さん達もそこに加わります。そこにやって来たまな姉。開けられていた棺の顔の部分の扉。そこから姉の顔を覗き込んでしばらくしたら、崩れ落ちました。棺に寄りかかるようにして泣いていました、大きな声で。そんなところへ到着した聡子さんのお母さん。しばらくは誰も気付きませんでした。玄関の祭壇が見える位置に移されていた焼香台。そこで焼香をすませたまま、そのあたりに立ちつくしていました。最初に気付いたのは、私の傍にずっとついて、居残ってくれていた優美でした。優美に促されて上がって来て、棺の中の母の顔を見た聡子さんのお母さん。棺に伏せて泣きました。そして、翌日の葬儀。彩子さん達へのまな姉の配慮もあり、午前の早い時間から始まりました。にも拘わらず、二十人以上の母の友人たちが集まりました。おそらく、小学校から短大までの母の人脈を知る、優子さんが連絡したのでしょう。母が勤めていた会社の方々や、美穂さんも駆けつけてくれました。聡子さんも母親の膝の上で参列しました。出棺の直前、棺の中の母に参列者がお花を添えて、最後のお別れをします。その時に正善さんは母の頬に手を添えて、動かなくなりました。じっと母の顔を見ながら、無言で涙だけを流していました。動かない正善さんを見かねて、純子さんが寄り添います。そして何かを囁きました。正善さんは頷くと、

「かおり、ありがとう。またな」

そう言って、やっと離れました。そしていよいよ出棺というとき。火葬場に行くと聞いて、私は駄々をこねて周りを困らせました。火葬にすると言うことを分かっていなかった私。昨日の今日で母を焼いてしまうことが許せませんでした。まだ丸一日ほどしか経っていないのに、母の体がなくなってしまうことが受け入れられませんでした。結局は抵抗虚しく説得されてしまいます。優美がずっと抱きついてくれていたのが救いでした。真夏の暑い日でしたが、優美の体温が心地よかったのは覚えています。火葬の後も驚きがありました。骨壺が三つも。一つは普通の物。二つは小さいものでした。分骨するとのことでしたが、その時は意味が分かりませんでした。と、ここまでのことは正直に言うと、ほとんどが後から聞いたことです。私自身は一部を除いて、ほとんど泣いていた記憶しかありません。

 葬儀が終わった後はほぼ元通りの日常に戻りました。母がいないと言う大きな変化は別にすると、居間に骨壺が並ぶ小さな祭壇が置かれただけ。その週は、さらに十数人の母の友人が焼香に来てくれました。私の知らない方がほとんど。その度に、私の知らない母の思い出を聞かせて頂きました。週末の土曜日に祖母方の親戚、まな姉の従妹になる方が焼香に来ました。祖父の山中家と祖母の石井家は、どちらも高知県です。関西には親戚がいません。そんなことがずっと疎遠になっていた原因のようです。葬儀の時も祖母の家からは弔電が来ましたが、祖父側からは何も接触がありませんでした。焼香に来てくれた方が言うには、曾祖母が自分で行くと言い張ったそうですが、高齢のためその方が代理で行くと言ってなだめたとのことでした。

 まな姉の渡英は予定通り九月二十六日でした。それまでにやることが沢山ありました。相続を含めた家の事とかいろいろ。いろいろの中には私の事も。保護者の問題等。でも、阿部のおじさんが頼んでくれた弁護士の方が、一つずつ全て片付けていってくれました。そしてまな姉の出国直前の九月二十三日に、少し早いのですが四十九日の法要と、納骨の法要を行いました。驚いたことにまな姉の上司である、浅井さんが帰国して参列してくれました。うちのお墓は、歩いて十数分の所にあるお寺の墓地の中。祖母が亡くなったときに祖父が建てたとのことです。そこに一番大きな骨壺が納められました。ここが今日から母の居場所なのだと私は感じました。家に戻ると、小さな骨壺を一つ、純子さんが持ち帰りました。理由は誰も知りません。正善さんは純子さんが傍に置きたいんじゃないかと言います。もう一つについてはその時、まな姉から説明されました。山口にある、聡子さんと同じお墓に納めるのだと。母の希望だったと。

 まな姉が出国した週末の十月一日。私とマー兄、純子さんの三人は再び山口へ。聡子さんの命日、十月七日には早いのですが、お墓参りです。安部さんの家に着くと、もうお坊さんも来られていました。母の遺骨の納骨式をしていただくためでした。歩いてお墓まで行き、すぐに終わりました。お坊さんやお墓の業者の方がいなくなっても、私たちはしばらくそこを離れず、墓石を見つめていました。純子さんは墓石に背を向けて、海を眺めたりもしていました。それは墓石が向いている方向。母たちが見ている景色を見ていたのかも。母と聡子さん、海が見えるここで、楽しく過ごしてくれたらいいと思います。お坊さんたちを送って行ったおばさんが戻って来て、しばらくしてからおばさんの家に。そして、以前私達がお邪魔した数日後に、おばあさんが亡くなっていたことを知りました。仏壇にお参り。その日はまた泊めていただき、翌日帰って来ました。これで母の死からの行事は、とりあえず終わりました。


 では、みんなのその後のお話を簡単に。

 渡英したまな姉。かなり活躍したようです。元々の会社からも正当な評価を受けた様子。5年目には上司の浅井さん共々、元の会社に復帰し、出向扱いでの勤務となりました。そしてその翌年、向こうで知り合った日系ドイツ人と結婚しました。2年前からはニューヨーク暮らし。もうどこの国の人なのかよく分かりません。日本にはほとんど帰って来ませんが、メールでのやり取りでは幸せそうです。

 優美は母が亡くなった夏休みにノブと付き合い始めました。ノブが夏休み中にフラれた直後から。同じ大学に行き、楽しく過ごしていました。その楽しさにやたらと私を巻き込もうとしてくるのは、鬱陶しい時もありました。でもそれは、例の会としての行動だったようです。ありがとう。そして現在は2歳児の母。忙しく子育てしているようです。残念ながら、名字はノブのものではありません。

 純子さんは退職後、正善さんの仕事のお手伝い。CADの使い方や建築の図面のことを正善さんから習い、作図の外注として図面を作る仕事を始めました、自宅で。3年それを続けて4年目、名古屋へ移住。ご両親が駅前のマンションから戻る気がなかったようで、家も売却して名古屋へ行きました。正善さんの会社の近くのマンションへ。正善さんの会社に勤めることにしたようです。その正善さん、3年後に家を建てました。名古屋市内の住宅地に。純子さんと住むのか、と思いましたがそうはならず。この話はとりあえずここまで。


 え~私ですが、受験は失敗とは言えませんが成績は維持出来ず、当初の志望校は全く望めないことになりました。しょうがないとは言いたくないので言いません。最終的に西宮にある私立大学に入りました。神戸に住むマー兄の妹の淑恵さんが、部屋が空いてるからと言ってくれましたが、結局は家から通いました。3年生の一年間をイギリスに留学。留学先がまな姉の住んでいるところからはちょっと遠いのと、基本はホームステイなので一緒には住まず。ホストファミリーは子供のいない初老の夫婦でした。音楽好きな楽しい方々。時々遊びに来てくれたまな姉と話が弾んでいました。そして4年生の一年間はアメリカの西海岸の大学へ留学。この時は英語を専攻する留学だったので、ホームステイではなく寮へ入れてもらいました。純子さんが名古屋へ移ったのは、私が留学ばかりで傍にいる必要がなくなったから。帰国後は少しショックなことが。就職活動なんてしていなかったので行き場がない。でも残念なのか幸いなのかわからない形で解決。4年生での留学は専攻科目でのもの。二月初めに帰国した私は、母校での判定では学期を終了していませんでした。向こうでは課題の提出で修了認定をもらっていましたがそれはそれ。故に単位は認定されず、留年。4年生をもう一度やることに。2年通っていなかった大学に友達はおらず、寂しい一年でした。ま、週に二、三日しか行かなかったので、大したことはないですが。留年したおかげで、教職課程が修了できることになり、これは幸運。母校の高校での教育実習は楽しかったのですが、感慨深いもの。なにしろこの学校に通った三年間のうちの二年間ほどには、母がいた時間が染みついているから。そして最後の半年ほどには母がいない時間が。文化祭に来た母と一緒に座った中庭のベンチ。その時に交わした、母との会話が思い出されます。思わず腰掛け、母が座っていた辺りを手で触っていました。そして悲しみと無気力の中、ただ座っていた三年生の時の教室。近寄るのを躊躇いつつも、何度も覗きに行ってしまいます。


 二回目の四年生の夏。それはあの夏から五回目の夏と言う事。聡子さんのお母さん、洋子さんがお墓参りに来たいと電話をくれました。私は学生のうちに、母の遺品を整理しようと思っていました。洋子さんが来ると聞くと、洋子さんが手元に置きたい何かがあるかもと思いつきました。なのでその電話で、そのことを告げます。すると何日かうちに泊って、整理を手伝いたいと言ってくれます。そして、洋子さんと遺品整理。全然はかどりません。母の持っていた何を見ても、お互いに思い出話をしてしまうから。そんな中で、化粧台代わりに母が使っていた机の引き出しから、ノートを見つけました。内容は私の事で、幼稚園から中学校に入ったころまで。それでも十数ページのみ。私が印象的な何かをしたときのことが簡単に書いてあるだけ。怪我や病気したときのことが多いので、私の傷病記録みたい。でも、後ろから前のページに向って書き進めていたものも見つけました。最後のページから三枚前のところ。そこから書き始められたそれは日記の様なもの。全部で七日分。書き始めは平成十七年五月十四日。最後の日付は六月二十四日。癌だと告げられた数日あとから、一階のまな姉の部屋に移る数日前まで。内容はショックでした。母は死にたくなかったのです。余命がわずかだと言うことを、全く受け入れていませんでした。当然のことですが、母の言葉でそれを知ってしまうと辛かったです。私も洋子さんも、それを読みながら涙を流しました。でも、最後の二日分の内容は、私にとってはもっと辛かったです。そこにはもう、ほとんど私の事しか書かれていません。私の将来を案じることや、死ぬまでにしてやりたいこと。何が出来るまで生きていられるかなど。辛すぎます。死んでしまう自分のことにはもう触れていません。ただ私を思う気持ちだけが書かれています。私は本当に愛されていました。そのことが、辛く悲しく私を包みました。

 洋子さんは五日間いてくれました。おかげで大体の整理は終わります。洋子さんのいてくれた五日間。色んな意味で助かりました。そして楽しかったです。洋子さんは何品か母の物を持って帰って行きました。その夜、整理された母の部屋を見て、私はまた泣きました。母と二度目のお別れをした気分でした。


 就職は、活動する前に決めました。なんと彩子さんの勤める会社です。彩子さんはずっと私と連絡を取り合ってくれていました。そして会社に誘ってくれました。彩子さんの会社は、外国人を日本の会社に就職させたり、派遣したりしている会社です。でも一番の仕事はその後のケア。語学堪能な人が必要だと。何か目的があって英語を勉強していたわけではない私は、そんなに考えることもなくそのお誘いを受けることにしました。そして、卒業後2年間東京で勤めました。関わることになる企業の、業界用語や業界の常識等も覚えなくてはなりません。また、英語以外に韓国語も求められました。ずっと勉強は続きます。

 3年目、彩子さんの計らいなのかどうかは知れませんが、名古屋の系列会社に転籍。その時に正善さんから、一緒に住もうと誘われました。なぜだか純子さんも誘われていました。またまた大して考えもせず、誘いに甘えました。初めて見た正善さんが建てた家。大阪の家に似ています。少し広いのと、二階の部屋の配置が違いますが、一階は全くと言っていいくらい同じです。

「大阪の家みたい」

中に入ってからそう言った私に、

「ほぼ同じ間取りで設計したんやから当然」

正善さんはそう言いました。それから純子さんも含めた三人暮らしが始まりました。それが三年前。そして今に至ります。

 ひと月ほど前に、正善さんと純子さんは結婚しました。と言っても籍を入れただけ。式は挙げず、友人数人とだけ食事会的な披露宴をしました。この話は結構急でした。そのことを聞くと、十年の区切りで母に報告するためだと。

「その気があったのならもっと早くすればよかったのに」

と、私が言うと。

「単に、老後はお互いに介護し合うと言う契約なだけ」

と、純子さん。相変わらず言う事は素直じゃありません。でも最近は分かってきています。純子さんが素っ気ない言い方をする時ほど、嬉しいとか楽しいと思っているのだと。この家の居間のサイドボードの上には、何枚か写真が並んでいます。その中の一つは母の遺影の加工前の物。その写真立ての後ろには、かわいい巾着袋が一つ置いてあります。中身は純子さんが持ち帰った骨壺。純子さんは二人が入籍した後、その骨壺の意味を私と正善さんに話してくれました。それも母の遺言だと。純子さんは母から、自分の骨を正善さんと同じお墓にも入れて欲しいと言われたそうです。あの彦島の山の上のお墓に。母は結構欲張りで、無茶を言ったものです。そして、そのためには純子さんはずっと正善さんの傍にいないといけない。なので正善さんと結婚しろと。そうすれば純子さんとも同じお墓でまた会えると。あの病床でとんでもないことを思いついていた母です。やっと母の願いがかなえられそうだと、純子さんは話してくれました。

 今年の母の命日はその骨壺を持って、彦島にも行きます。納骨の為に。純子さんはどちらかが死ぬまで傍に置くと言いました。二人とも将来ボケて、このことを忘れたらどうするんやと正善さん。それで渋々納得の純子さん。でもこの二人に何かあった時、お墓が彦島にあると知ってる人が傍にいなかったら、なんて一瞬思いましたが、それは私の役目なのでしょう。それに、この二人と母が同じお墓にいると、怒りだしそうな人がいるので、それも私が何とかしないといけませんね。その相談が出来る人とも今回会えるので、二人に内緒で話さなければ。


 では、元の時間に戻ります⋯。

「綾、そろそろ出るよ」

と、下から呼ばれました。純子さんの声。

『頑張って』

ちょうどスピーカーから、母の最後の声が流れました。そう、これが私の聞いた母の最後の声。母は最期の最後にちゃんと、私にエールを送ってくれていました。パソコンの電源を切り、鞄を持って下におります。一旦居間に入ると台所の椅子に座る正善さんから、

「まなみから連絡来た?」

と、聞かれます。まな姉は昨日帰国しています。明日の十回目の命日の為に。昨日はそのまま東京の事務所で打ち合わせ。今日から休暇と言う段取り。新幹線で大阪に向かうことになっていました。

「ううん、お昼までには大阪の家まで来るって言ってるんだから、来るんじゃない?」

と、私。正善さんはのんびりとテレビを見ています。

「その大阪の家やけど、どうするんや?」

テレビを見ながら正善さんが聞いてきます。母やまな姉と暮らした大阪の家。結局まだそのままでした。

「うん、処分するつもりやけど⋯」

多分私もまな姉も、もう住むことはない家。阿部のおばさんが時々風を入れて掃除してくれています。でももう七十も半ばになったおばさんにはかなりの負担なはず。言葉の途切れた私に正善さんがこう言います。

「早く売れって言うてるわけやないぞ。ただ、置いとくだけでも結構かかってるやろ?。それでも置いときたいんかどうか、気持ちを決めてるんかって言いたいだけや」

正直なところ手放したくはありません。あの家の全てに母との思い出があります。でも、もう十年経った。母との思い出が途切れてから十年。空き家にしちゃってからも五年。いい区切り、いい機会なのでしょう。私はそう思い、答えます。

「今回まな姉と話して、処分する」

「そっか」

正善さんからはその一言のみ。目はテレビに向いたままです。

 外から純子さんが私を呼びました。玄関に行くと車の所から純子さんが、

「早く荷物積んじゃって。マーは?」

と、言います。

「テレビ見てるよ」

「もう、呼んで!」

私はそう言われて、靴を履きかけていた玄関から台所に向って声を掛けます。

「正善さん! 純子さん怒ってるよ」

返事はありませんがテレビが消えました。

「そんなに急がんでもええやんなぁ」

玄関に現れた正善さんが言います。

「二階の戸締りは大丈夫か?」

私に聞きます。

「大丈夫」

「今年こそはお前の彼氏をかおりに紹介できると思ったのになぁ」

靴を履きながら正善さんが言います。私は半月ほど前に彼と別れていました。どうも私の恋愛は長続きしません。長くて半年くらい? 恋愛向きの性格ではないようです。

「余計なお世話」

「綾は意外とキツイとこあるからなぁ、何とかせんとな」

私の分析をしないで。

「マー兄には関係ないでしょ」

たまにまだ、マー兄と言ってしまいます。ま、別にどっちでもいいんだけど。玄関を閉めて車へ。純子さんはすでに助手席でシートベルトを締めています。少し怖い顔。マー兄は私の手から鞄を取ると、そのまま後ろに乗り込みスライドドアを閉めます。

「私が運転するの?」

ガラス越しに親指を立てて見せるマー兄。今回は彦島のお墓を開けます。なので大阪で母のお墓参りを済ませた後、阿部のおじさん、おばさんも一緒に山口へ行きます。当然まな姉も大阪からは同行。今から五日間のその行程は、全て車での移動予定。この分だとほとんど運転させられそう。でも、久しぶりに家族が全員揃うような感覚になる今回。それが楽しみな私には、そんなに苦ではありません。私は運転席側に回ります。ドアを開けながら空を見上げました。今日は本当に快晴。この数日はずっといい天気のようです。朝からクラクラしそうなくらい、元気いっぱいの真夏の太陽。母が逝ったあの日と、おんなじ太陽です。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おんなじ太陽 ゆたかひろ @nmi1713

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ