第八章

平成十七年七月二十九日


 私は目を覚ましました。辺りは暗いです。頭の右上の方で小さな明かりが付いているだけ。その明かりでは、壁の時計の針は読めません。いや、目が完全に覚めていないだけかも。ぼやけています。さっき起きたのは、確かお昼前。まなみがそう言っていたはず。トイレに行きたい。でも、何日か前から一人では行けません。体を起こすくらいは問題ないのですが、立つとなるとフラフラ。一人で歩くなんて無理。体がうまく動きません。看護師さんを呼ぼう。美優希さんがいてくれたらいいな。私は頭の右側に置いてあるナースコールを取ろうと、顔を右に向けました。ベッド右側の椅子に誰か座っています。驚きながらも確認すると、腕を組んで頭を垂れた姿勢で寝ているマー坊でした。ここで寝なくても、と思いながらもなんだか、嬉しかったです。起こすと悪いとは思いました。でも、トイレはいかなければ。少し慌てた私はナースコールを取り損なって、ベッド横に落としてしまいました。コードを手繰って拾おうとすると手が伸びてきます。マー坊が気付いて起きた様子。

「どうした? どっか痛いんか?」

ナースコールを見てそう思ったのでしょう。

「ごめん、起こしちゃった」

「ええよ、それより、看護師さん呼ぶんか?」

「うん、ちょっとトイレ行きたいから」

私は一応恥じらいながらそう言います。

「トイレまで連れて行くだけでええんか?」

「えっ、いいの?」

私はどうしようか迷い中。さすがに恥ずかしい。でもマー坊はすでに点滴スタンドのある左側に回り込んできました。そして私の体の下に手を入れて、抱え上げようとします。

「違うよ、歩いて行くのを支えてくれたらいいから」

一瞬手を止めるマー坊。でも、

「もうついでや」

と言って、そのまま私を抱え上げます。抱え上げた手で器用に点滴スタンドもつかんで引きずって行きます。嫌ってわけではないですが、本当に恥ずかしい。そこに美優希さんが来てくれました。

「あら、お邪魔でした?」

と微笑みます。定期的な様子見に来てくれたのかな?。

「いえ、助かります。トイレしたいみたいなんですけど、お願いできますか?」

とマー坊。だから最初から頼んでくれればよかったのに。美優希さんは先に便座の所へ行き、ここに立たせてくれれば後はお任せくださいと、マー坊に言います。マー坊はそこで美優希さんに私を引き渡すと、病室を出て行きました。トイレを済ませ、ベッドまで私を支えて来て寝かせてくれた後、美優希さんが言います。

「すごいところですね。私もこんな景色見てみたいです」

私は何のことかわからず、美優希さんの顔を見上げます。

「あ、まだ見てなかったですか? 阿部さんが持って来られて貼ったんですよ」

と、目線で私の右側の壁を示します。そちらを見ると白い壁だったところに、大きな横長のポスターのようなものが貼ってあります。雪の景色のようですが、暗いのでよくわかりません。

「本当は時間的にダメなんですが、せっかくかおりさんが目を覚ましているのでお部屋の電気付けましょうか」

「お願いします」

私がそう言うと、窓のカーテンをしっかり閉ざしてから照明をつけてくれました。明るくなった部屋でそれを見て、私は言葉が出ませんでした。思わず起き上がろうとすると、美優希さんがベッドの背を起こしてくれます。野沢温泉スキー場のスカイラインコースで撮った写真。澄み渡った晴天のもと、はるか下に雪化粧の町とその向こうの千曲川。そして手前に浮かび上がってきたような尾根。そこから私とマー坊が笑顔でこっちを見ています。あの日のこの場所へ戻ったような感覚。しばらく見入っていると、

「これはどこですか?」

と美優希さんの声。私が答えるより早く、

「野沢温泉です」

マー坊が答えます。病室に戻ってきていました。

「私、スキー行ったことないので、こういう景色見たことないんです」

美優希さんはそう言いながら出て行こうとします。そして戸口と部屋の間にあるカーテンを閉めながら、

「一応消灯中の時間なので、ここのカーテンは閉めますね」

と言って出て行きました。消灯中の時間と聞いて、私は壁の時計を見ます。十二時二十分過ぎでした。私は壁の写真にまた顔を向けて、

「ありがと、これすごくいい」

と言いました。マー坊は右側に来て床頭台の上の青いクリアファイルを差し出します。

「しばらく野沢には行けそうにないから、前の写真を大きくして持って来た」

しばらく行けそうにないって、そんなに気を遣った言い方しなくてもええのに。私は受け取ってファイルを開きます。A4サイズの写真が入っていました。聡子のお母さんが作っていたのと同じです。中は野沢温泉に行った時の写真ばかり。小学生の綾も写っています。私も持っている写真ばかりですが、改めてこうやって見ると、懐かしい限りです。中ほどに壁のポスターサイズの写真と同じものがありました。それと見開きで続く同じような次の写真。私はそれをマー坊の方に見せて、

「大きくするの、こっちの写真の方が良かった」

と言いました。それは美穂も含めた三人が写る写真。マー坊はそれを見て、

「そのファイルの写真は普通サイズの写真から大きくした奴なんやけど、それより大きくすると不鮮明であまりきれいな写真にならへんのや」と言います。

「それは?」と、壁の特大写真を指さして私は言います。

「このA1サイズはネガから作ったんや。で、そのネガを美穂に探してもらったら、これしか見つからんかったって」

と、マー坊の説明。

「ならしょうがないか。でもすごいきれい。これだけ大きいと、本当にこの景色見てるみたい」

私は壁の写真を見つめます。ベッドから1メートルほどしか離れていないので、迫力があります。近すぎて全体が見えないくらい。本当に、あの尾根に戻ったような感覚が湧いてきます。

「ありがとう、約束守ってくれて」

知らぬ間に口からそんな言葉が出ました。

「⋯約束?」

「この景色を、もう一度見せてくれた」

私は壁の写真を見つめながらそう言います。

「⋯⋯」

マー坊は何も言わず、私の方を見ています。なんだか眠気がやってきます。私の視界を遮らないように、足元に下がっていたマー坊が私の様子に気付いて、

「そろそろ寝るか?」

と聞いてきます。私は頷きました。すると起こしていたベッドの背を下げてくれます。完全に横になっても、私は眠気に逆らって見続けていました。掛け布団を掛けてくれたマー坊は、私が眠ったと思ったのでしょう。やがて、部屋の照明が消されました。


 ここ最近の私の行動パターン。朝、綾を起こして朝食を食べさせた後、七時過ぎくらいには塾へ送り出す。お弁当を持たせてあげたいけど、私には無理。それから簡単に掃除と洗濯。八時くらいには家を出て姉のいる病院へ。朝の渋滞がなければ三十分かからないところを、小一時間掛けて到着。九時前後には病室に入っています。今日は病室のソファーでマー兄が寝ていました。昨日夕方に来たままのようです。来てから一度も姉が目を覚まさなかったので、面会時間終了を目安に帰宅する私や綾と別行動。姉が目を覚ましてから帰ると言っていました。こうしているところを見ると、姉はずっと寝たままなのかも。それも少し心配です。ソファーを占領されているので、いつものように仕事を始められない私。昨日マー兄が持って来て貼った、壁の写真を見ます。姉はまだこれを見てないんだろうなと思いながら、姉の顔に目を移します。普通の寝顔。それは安心。私は仕事道具を抱えてディルームへ行くことにします。ソファーテーブルにそのことを書いたメモを残して。ディルームの隅のテーブルを借用。ここが一番近くにコンセントがあるため。ノートパソコンを開くと電源が入ったまま。スリープ状態でした。昨日帰るときにシャットダウンし忘れたかと思ったら、メモ画面が開いていました。

そこにはこうあります。

『まなみへ。

かおり、深夜に起きてトイレ済ます。

その後二十分程で再び就寝。』

マー兄が残してくれたメモでした。そっか、姉さんと話せたんだと思いながら、マー兄がトイレの手伝いをしたのかと、少し複雑な思いも。とりあえず片付けて行かなければならないことは沢山あるので、仕事に取り掛かります。少し経った頃、

「おはようございます」

と、後ろから声を掛けられてびっくり。振り向くと美優希さんでした。

「おはようございます」

「お姉さん、夜中にトイレに起きられましたよ」

美優希さんがそう告げてくれます。

「あ、はい。そうみたいですね」

「そっか、阿部さんから先に聞いてました?」

「いえ、正善さんは寝てたので。でも、メモでそう書いてありましたから」

「そうですか。阿部さん、今朝先生が診に行かれた時も熟睡されてて、全然起きませんでしたよ」

「今も良く寝てました。あの、その夜中のトイレ、マー兄が、じゃなくて、正善さんが手伝ったんですか?」

「マー兄でもいいですよ。そのマー兄さんが手伝おうとしているところを、私が邪魔しちゃいました」

意味深な笑顔で言う美優希さん。

「邪魔ですか」

「十二時過ぎに様子を見に病室に行ったら、ちょうどトイレの前まで抱えてきたところに出くわしました」

「抱えてって、マー兄が姉さんを、ですか?」

「はい。まあ、さすがにそこからは、私がお手伝いさせていただきましたけど」

「ありがとうございました」

軽く頭を下げて私は言いました。そして頭をあげて、微笑んでいる美優希さんの顔を見て、

「今日も通しってやつですか? 美優希さんって夜勤多くないですか?」

と質問。美優希さんはチラッとナースステーションの方を見てから、

「この病棟では独身で最年長なんですよ。しかも年数的にはベテラン扱いですし。だからどうしても多めになっちゃうんですよね」

やはり笑顔でそう言います。美優希さんはそう言いますが、私は美優希さんが優秀だから、人数の少ない夜勤を任せられているんじゃないかと感じます。

「大変ですね」

「ううん、別に嫌じゃないので気にしてませんから」

そう言うと、仕事に戻りますね、と言って去って行きました。美優希さんの後ろ姿と入れ代わるように、マー兄の姿が見えました。こちらに近づいてきます。

「おはよう。ごめんソファーで寝てて」

「おはよ。良く寝てたね」

「うん、意外と寝れた。もうソファー使ってくれてええよ」

「了解。ここでもいいんだけど、空いたなら戻るね」

私は荷物をまとめて立ち上がります。ほんと言うと、ソファーとソファー用テーブルの組み合わせより、ここのテーブルと椅子の方が仕事しやすいのです。でもここは共用のスペースなので、占用するのに気が引けてしまいます。歩き始めた私に、自販機の前からマー兄が声をかけてきます。

「まなみ、何か飲む?」

私はホットコーヒーを頼みました。


 お昼まで病室で仕事をしていました。マー兄はベッド横に椅子を置いて読書。時折電話を掛けに出て行きますが、それ以外はずっと本を読んでいました。姉は相変わらず寝たままです。正午過ぎに先生が来ました。姉の様子を診ます。その時に先生から、姉の食事を止めたことを告げられました。その代わりに、姉が目覚めたときに本人が望めば、多少の間食程度の物は食べさせても良いと言われました。先生が戻って行ってから姉の顔を見て思います。すでに三日間、口から何も食べていません。空腹感とか栄養とか抜きにして、食べたいだろうなと。食いしん坊だった姉。本当に食べることが好きだった姉。自覚していて食べたいと言わないのか、食べたいと思わないくらい弱っているのか。考えただけでどちらも辛いことでした。すると、

「まなみ、昼行くか」

と、マー兄が言います。姉が食べれていない辛さを考えている時に、そんなことを言われて思わず睨みそうになります。が、私たちは食べれるし、食べなきゃいけないのは分かっています。

「うん、行こうか」

病院内のいつもの食堂へ。食後、売店で飲み物のペットボトルを買い込んで病室へ。姉の寝顔を確認すると、マー兄は飲み物を1本手に持って、

「屋上で電話してくる」

と言うと、出て行きました。私も電話連絡したいところがあったので、飲み物を冷蔵庫に入れてから後を追いました。屋上に出るとマー兄の姿がありません。でも右の方から声がします。階段建屋の右手に回り込むと、大きな庇の下の日陰にいました。今までこの日陰に気付きませんでした。マー兄に近づきます。

「⋯そうそう、小さ目のタッパーに小分けにしてくれた方がいい」

「⋯⋯」

「大丈夫、ディルームに電子レンジあったから」

等と話しています。なんとなく阿部のお母さんと話しているのは分かりました。電話を切ったマー兄に、

「お母さんに何か頼んだの?」

と、聞きます。

「さっき先生が、間食程度で何か食べさせてもいいって言うてたやろ。だからお粥作ってくれって頼んだんや。かおりが好きそうな具で」

マー兄がそう答えます。私は思いつきませんでした。

「なるほど、それいいかも」

「あいつが何も食べれんって言うのはストレスやろうからなぁ。食べさせてもええって言うなら、食べさせてやりたい」

「さすがマー兄。ありがと」

私は本当に感心していました。食べれない姉の辛さは感じられても、姉に何をどう食べさせようかには考えがいきませんでした。マー兄は仕事の電話を始めました。なので、私も仕事の電話を掛けます。お互いの電話の要件が終わり、病室に戻る階段の途中でマー兄がこう言います。

「まなみ、かおりがお気に入りのプリン屋あったやろ? それどこか知ってるか?」

「プリン屋? ひょっとして駅前のケーキ屋さんのプリンかな? あそこのプリンは好きやったよ」

「多分それや。駅前やな」

「ロータリーのところ。本屋から三軒目くらい」

「わかった。俺、この後シャワー浴びに一旦帰るから、戻って来る時にお粥持って、プリンも買ってくるわ」

マー兄はそう言ってくれました。

「うん、ありがと。助かる」

と私は言いました。


 マー兄が戻って来る前に綾が来ました。

「どうしたん? 早いやん」

時間はまだ5時前です。私は綾にそう声を掛けました。

「え、言うたやん。今日は最後のテストだけやから早いよって」

そう言って綾は姉の傍へ。

「そうだっけ、あれ? でも集中講座って明日までやったよね」

「うん、明日は今日のテストの返却と解説。それで終わり」

「そっか、で、出来は?」

「まあいいやん。それよりお母さん目、覚ました?」

綾は話題を変えました。

「うん、私はいなかったんやけど、マー兄は話したって」

「う~、私が避けられてるんかな」

夜中に起きたきりだとは言いたくなかったので、何時ころとか聞かれたらと思っていたら、綾の関心はそこではなかったようです。

「さあ、なんか悪いことした?」

「してへんよ。ずっと塾行ってたのに」

「そうやね」

「明後日から私もここで勉強するから」

綾がそう言い出します。

「塾は?」

「八日からの集中講座はやめたから、次は八月十八日から一週間。そのあとは夏休み終わるまで学校で特別授業。学校は午前中だけやけど」

「と言うことは、綾の夏休みは実質三週間くらいか」

私がそう言ったのに対して綾は、

「そうやね」

と、気のない返事。どうしたのかと思っていると、

「ねえ、お母さん、なんかやつれてきたよねぇ」

呟くように言います。私は言葉に詰まりました。とりあえず私もベッド脇に行きます。

「ねえ、なんか痩せたって言うのか、やつれたって言うのか、そんな感じやよね」

今度は私に同意を求めるように言います。どう答えるべきかと悩みます。

「あれ、綾もいるんか? どうした?」

マー兄が現れました。タイミング良かったのか悪かったのか。

「ねえねえマー兄、お母さんなんかやつれたよねぇ」

綾はマー兄に同じ事を言います。

「うん、やつれたって言うか痩せたよなぁ。ほっぺたなんか特に」

そんなこと言って、後どうするつもり? 私は見守ります。

「やっぱりそやよねぇ。弱ってるってこと? なんで?」

ほらどうする? どう答える?

「病院って配膳時間に食べへんかったら、あと食べられへんやろ。かおりはここのとこ配膳時間にずっと寝てるから食べてへんねん。点滴で栄養は入ってるんやろうけど、足らんのやろなぁ」

とマー兄。なかなかええかも。

「それでええの? 大丈夫なん?」

と、綾。こっちもなかなかしつこい。

「先生に聞いたら、起きてる時に間食で何か食べさせてもええって言うから、ちょっとやけど持って来た」

マー兄はそう言ってベッドのテーブルの上に、小さなタッパー三個とプリンを四個並べます。綾はそれを見て明るい顔に。

「プリンおいしそう」

そっちか!

「ええよ食べて」

とマー兄。

「ううん、お母さん用やからいい」

綾はそう言いますが、

「かおり用で四個も買ってくるわけないやろ。ここで綾やまなみも食べるやろ思ってや」

とマー兄が言うと、また明るい顔に戻って、

「ほんまに?」

と言う綾。

「横で綾やまなみが食べてたら、釣られて起きるかもよ」

綾はもう食べる気満々。私を誘います。マー兄は私と綾用にプリンを二つ残して、残りをタッパーと一緒に冷蔵庫に入れました。綾は早くも一口食べながら、

「タッパーは何入ってるの?」

とマー兄に聞きます。

「お粥」

「そっか、でも冷やしても美味しいやつなん?」

「ディルームに電子レンジあるから」

今度は私が返答しながら一口目を頂きます。

「電子レンジあるんだ」

と言う綾はもう完食。その時でした、

「綾、顔見るの久しぶり」

と、姉の声。三人そろって驚きました。

「なんか楽しそうね」

と、続けて言う姉。綾はベッドに腰掛けてプリンを食べながらはしゃいでいたので、それが刺激になったのかも。

「お母さん。起きた。良かった」

綾は姉が差し出した右手を両手で取ります。

「もう、ずっと寝顔ばかりやから寂しかった」

「私も綾の顔見れなくて寂しかった。だから嬉しい」

私は続けて綾が何か言う前に割り込みました。

「姉さん気分は? 何かない?」

「う~ん、トイレ行きたいかも」

と綾の方を気にしながら言います。私はなんとなく理解しました。そしてこう言います。

「綾、売店行ってお水買って来て。姉さん起きるとお水飲みたがるから」

そして、体を起こしてベッドを降りようとする姉を助けるべく、姉の左側に立ちました。冷蔵庫にお水は入っていますが、綾は知らないはず。

「⋯分かった」

と言って、綾は売店に向ってくれます。するとマー兄がすっと寄って来て、姉に肩を貸すと、

「まなみ、点滴頼む」

と言います。マー兄は姉を便座に座らせると、

「あとは頼む、外出てるから」

と言って、病室の外に出ました。一人じゃとても歩けない状態を、綾に見せたくないと言う姉の意図をマー兄も悟ってくれたようです。便座まわりには両側に手すりがあり、おそらく姉一人でもなんとか出来るとは思いますが、手助けした方が間違いありません。でも介助に人が入るとトイレの扉は開けっ放しにするしかない広さ。それも分かっているので外に出てくれたのでしょう。姉の用が済んで、ベッドまで移動して寝かせてから、外のマー兄を呼びに行きました。結構時間がかかったのですが、夕方の売店は混んでいたのでしょう。綾はまだ戻って来ませんでした。マー兄と病室に戻ると、姉はベッドの背を起こして、壁の写真を見ていました。

「起きてて大丈夫?」

と、私は聞きます。

「平気。それに、今寝ちゃったら綾に怒られる」

と姉は言って更に続けます。

「まなみ、お父さんとお母さんの写真持って来て」

私は複雑な気持ちになりましたが、

「うん、分かった」

と、答えました。

「お願いね」

と言いながら姉は、ベッドテーブルの上に注目。私の食べかけのプリンがありました。どう見ても食べたそうな顔です。

「食べる?」

「いやいや、ダメでしょ」

と言って、プリンからわざと目をそらします。

「先生から多少は食べてもいいって言われてるよ」

「ほんとに?」

と、嬉しそう。

「あ、そのかわり、当分姉さんの食事の配膳はないから」

「え~、食事なしやの?」

と言いながら、私の差し出したプリンのカップとスプーンを受け取ろうとして、やめます。

「どうしたの?」

「ずっと寝てたから、口の中ゆすいでからにしたい」

「マー兄、お水取って」

と、私が冷蔵庫を指して言うとすかさず、

「あほかお前」

と、言われます。あ、そっか、綾にお水を買いに行かせたんだった。マー兄が洗面所に行き、コップにお水と、洗面器を持ってきます。

「はい、どうぞ」

と、姉に言います。姉はありがとうと言って、口の中をすすぎました。マー兄が洗面器等を洗面所に片付けに行った頃、綾が戻って来ました。それは丁度、姉の口にプリンが一口入ったころ。姉は嬉しそうな顔をしています。それを見て綾は、

「プリン後にしたら? 夕食配ってるよ」

と言います。時間は六時、配膳の時間でした。

「姉さん食事時に寝てばっかりだったから、食事なくなっちゃったの」

と、私が言うと綾は、

「そうなんだ。でもお粥あるやん」

と、冷蔵庫を指さして、

「起きてるんなら食べたら?」

と言います。

「お粥あるの?」

姉は綾の言葉を受けて反応します。やっぱり食べたいのだと思いました。その時姉の手元を見ると、綾から受け取ったペットボトルが開けれない様子。さりげなく受け取って、ふたを緩めて返します。マー兄が冷蔵庫からタッパーを一つ出して、

「うちのおふくろが作ったやつ、食べるか?」

と、姉に聞きます。

「食べたい」と、姉。

マー兄は温めて来ると言って病室を出て行きます。すると綾も、電子レンジどこにあるか見て来る、と追いかけて行きました。私は姉の手元のペットボトルを指さして、

「力入らへんの?」

と、聞きました。

「入らないと言うか、うまくつかめなかった。正直言うとね、さっきスプーン持つのもちょっと危なかった」

姉は右手をグー、パーさせながら言います。

「お粥、食べさせてあげようか?」

「ううん、綾の前だから頑張る」

「と言うか、綾の前だから無理して食べようとしてるわけやないよね」

「違うよ。まなみも栄養ドリンクとかだけで三日くらい過ごしたら、今の私の気持ちが分かるよ」

「いや、よくわかった」

二人で顔を見合わせ笑いました。マー兄たちはすぐ帰って来ました。そして姉はおいしそうにお粥を食べます。いや、幸せそうにと言うべきか。マー兄は途中で病室を出て行きましたが、結構すぐ帰って来ました。何だったのかは不明。綾は久しぶりに起きている母の姿に興奮気味。なんだかんだと話しかけています。気持ちは分かるけれども、ゆっくり食べさせてあげて欲しい気も。でも、姉が嬉しそうにしているので良いでしょう。タッパーに入っていたのは、おそらくお茶碗に半分くらいの量です。そう、私からしたらほんのわずか。でも食べ終えた姉は満足そうでした。食後も小一時間は四人で話していました。隣から怒られないかと思うくらい騒がしく。やがて姉が横になりたいと言い出し、寝かせます。寝ころんでしまうとすぐに眠そうな顔になり、そして寝てしまいました。綾にまた売店でお弁当を買ってくるようにお使いを頼みました。別に食べに行っても良かったのですが、マー兄に話がありました。綾が出て行ってから、

「さっきどこ行ったの?」

マー兄に尋ねました。マー兄は何を聞かれているのか分らないようでしたが、やがてこう言います。

「ああ、かおりが食事したから、食後の薬はええのかなと思って聞きに行っただけ」

「なんだ、なんか気になったことがあったのかと思った。で?」

「必要ないらしい。必要な薬は点滴に足してあるって」

「そっか」

それで話は終わりました。綾が戻って来てから三人でお弁当を食べて、いくらも話さないうちに、面会時間が終わりました。今日はマー兄も帰るとさっき言っていました。美優希さんは昨夜から通しだったので、今夜はいないはず。私は泊り込もうかと思いましたが、綾が余計な心配をするといけないので帰ることに。枕元にちゃんとナースコールを置いて、ナースステーションで今夜は誰も残らないことを告げて帰りました。綾は母と話せたことが本当に嬉しかったようで、帰りの車の中でもよくしゃべっていました。でも、四人での楽しい会話は、これが最後でした。


平成十七年七月三十一日


 二十九日の夜、私たちが帰った後の深夜、姉は痛みを訴えてナースコールをしたとのこと。処置をするとすぐに眠ったと聞きました。

 昨日の日中は全く目覚めず。午後八時直前、つまり私たちが帰ろうとしたころ。目を覚ました姉。塾の後病室に来ていた綾は喜びましたが、トイレに行くのにほとんど私頼りでしか歩けない姉の姿を見てショックな様子。マー兄は仕事で名古屋に帰ってしまっていたので、誤魔化すことも出来ませんでした。そしてその時はほんの数分話しただけで姉は寝てしまい、さらに落胆していました。

 今日も今のところ目を覚ましていません。外の廊下からは夕食の配膳の音が聞こえてきます。綾は今日から塾もないので、朝から一緒に来ています。でもさすが、ディルームで学校の宿題をやっていました。高三なので夏休みの宿題はほとんど出ていないと言っていましたが、結構な量があるように見えました。去年まではどれだけ出ていたんだろうと思います。昼過ぎからは宿題に飽きたのか、例の古本屋へ行って小説を何冊か買い込んできました。さっきまではベッド横の椅子でそれを読んでいたのですが、今は椅子に座ったままベッドに突っ伏して寝ています。七時ころ美優希さんが病室に来ました。綾はそれで起きます。美優希さんは姉の状態や点滴の残りなどを確認しています。綾は美優希さんに看護師になるにはどうすればいいかとか、看護師の仕事についてなど最近質問しています。看護師を目指すつもりか? どうせなら医師を目指したらとも思いますが、とりあえず何も言わずに聞いています。今夜は美優希さんがいると思うとなんだか安心。面会時間内には姉は目覚めず。帰る前に見た姉の寝顔は、病人の顔でした。


平成十七年八月一日


 綾に起こされました。六時少し前。急かされるように朝ご飯の用意をし、食べます。そしてすぐに出発。化粧くらいさせろ。七時過ぎに病院到着。夜は面会時間が終わるまでと決めていて、それには納得しています。なのでスタート時間を早めて、傍にいる時間を長くしようと言うことでしょう。でも、面会時間には終了時間があるように、開始の時間もあるのを忘れてないか? ま、いいけど。でもその甲斐がありました。病室に入って三十分くらいで、姉が目を覚ましました。でも、今までと少し様子が違う。朦朧とした感じで、数分間ほど会話が成立しませんでした。会話が成立し始めると今度は態度がおかしい。綾が掛ける言葉に答えながら、綾にちょっと看護師さんを呼んで来てと言います。言われて綾は出て行きます。すると私に、オムツにしちゃったみたいと言います。綾と一緒に入って来た美優希さんに、私はさりげなく床頭台の下の収納スペースを示します。そこにはオムツが入っています。美優希さんは私に頷くと綾に、「ちょっと処置をするのでカーテン閉めるね」と言い、私と綾はカーテンの外に出ました。ただ、病室にいては二人が会話できない。綾をディルームの自販機まで誘い、飲み物を買います。病室に戻るとカーテンが開いており、処置は終わっていました。美優希さんは姉が喉が渇いたと言ってるので、何か飲ませてあげてくださいと言って出て行きました。私は姉に聞いてからベッドの背を起こし、この前マー兄がしたように口をゆすがせてから、水を飲ませました。一息ついた姉は、ちょっと顔色が良くなったように見えました。綾が嬉しそうに話しかけていると、姉も嬉しそうに答えていました。ただ私は気付きました。綾が座る右側の椅子の後ろ。マー兄が貼った大きな写真の下に並べて貼った三枚の写真。この間、姉が持って来てと言った、両親の遺影の写真が2枚。この前、聡子さんのお母さんの所へ行った時の写真。聡子さんの遺影を挟んで姉と聡子さんのお母さん、その後ろに綾と純子さんとマー兄が写った写真。この三枚をマー兄のようにA4サイズにしてあります。綾と話しながら、目線がその写真の方に行っていることを。十分ほどで姉は疲れた様子。寝たいと言います。ベッドの背を戻してあげると、すぐに寝てしまいました。私は昼からまた大阪市内の事務所に行かなければなりませんでした。綾と早めの昼食を食べた後、病院を出ます。夕方五時ごろ病室に戻りました。綾はバスタオルを畳んで座布団のようにし、床に胡坐をかいて座っています。そしてソファーテーブルを座卓にして勉強中。なかなか感心です。私の顔を見ると、昼過ぎに美穂さんがお見舞いに来たと言います。一時間くらいいて、帰って行ったと。それ以外は何もなし。マー兄は夏季の改修工事とかが本格的に始まって来て、忙しくなると言ってました。でも、毎日とっかかりの作業指示だけしたら、こっちに来るみたいなことを言っています。来るなとは言えませんが、あまり無理はしないで欲しい。そして何事もなく面会時間が終わりました。


 俺がかおりの病院に着いたのは午後八時半前でした。ひょっとしたらまなみ達に会えるかと思ったけど遅かったようです。本当は昼からこっちに向って走ってくるつもりが、色々と想定外の事が起こりこんな時間に。工事自体が始まるとあまり出番のない美穂は、昼間見舞いに来たらしいが、寝顔しか見れなかったと電話で言ってきました。美穂は約一か月前に会った時と比べて、すっかり衰えたかおりの顔にショックを受けた様子。泣きながら話しているように感じました。かおりの病室は薄暗く、入り口のダウンライトと枕灯だけが付いています。かおりの顔を覗くと美穂に言われたせいもあり、確かに衰えて見えます。ベッド横の椅子に座って仮眠をと思いますが、いつの間にか設置された医療機器の光の動きが意外とうるさいです。脈拍や血圧が表示されていると思われる機器。医療物のドラマなんかでは見たことありますが、実際に見るとは思いませんでした。そのうちその光の動きにも慣れて、眠ってしまいました。どのくらい眠ったか分かりませんが、人の気配で目が覚めました。看護師さんがベッドの反対側で何かしています。こっちの動きに気付き、起こしちゃってごめんなさいと言ってくれます。作業を終えると看護師さんは黙って出て行きました。携帯電話で時間を見るともうすぐ二時。朝一番から名古屋で仕事があるので、もともと四時くらいまでがここにいれるリミットだと考えていました。あと二時間ほど。もう寝るわけにはいきません。そのあと一時間ほどかおりの顔を眺めたりしていました。でも変化はなさそうなので戻ることにしました。ナースステーションの前を通るときに先程の看護師さんと目が合ったので、帰りますと小声で声をかけます。彼女は軽く頭を下げてくれます。


平成十七年八月二日


 五時に起きました。下におりてまな姉の部屋を覗くといません。居間のソファーで寝ていました。私は起こさずに洗面所へ。顔を洗ってから台所へ。とりあえずコーヒー用にお湯を沸かそうと、やかんをコンロに。まな姉がさすがに起きてきました。

「おはよ、何やってんの?」

「おはよ、早くご飯食べて病院行こ」

「早すぎだよ」

「いいからいいから」

そう言う私を無視して洗面所に消えます。私はオムレツを作る用意。お湯が沸いたころ、まな姉が台所へ戻って来ます。

「まな姉、コーヒー飲むでしょ? お湯湧いたからお願い」

「はいはい」

まな姉はコーヒーを淹れ始めます。私はオムレツ作り。まな姉はコーヒーをドリップしながら食パンをトースターへ。

「綾、何枚食べる?」

「う~ん、一枚半」

まな姉は三枚焼きました。食べ始めてから、

「なんかあるの?」

まな姉が聞いてきます。

「朝の方がお母さん起きそうな気がするから」

ほんとにそう思っています。だから早く行きたい。急いで食べて、まな姉を急かします。呆れた様子ながら急いでくれるまな姉。慌ただしく六時過ぎには家を出ました。病室に着いたのは七時よりだいぶ前。カーテンを全開にして、部屋を明るくします。そして母の横へ。反応は有りませんでした。母の右手を取って、摩ったり、揺すったり。でも起きませんでした。そのまま母の顔を見守ります。なんだか悲しい。本当に病人みたいな顔になった母。病人なんだけど、こんな顔見たくなかった。ベッドの反対側で母を見ていたまな姉が、

「私、とりあえず仕事いいから、テーブル使っていいよ」

と言います。

「仕事終わったの?」

「仕事に終わりはないんだけど、一段落してるから」

私はありがとと言って、ベッドから離れてソファーの方へ。テーブルに宿題の問題集を広げていると、美優希さんが来ました。手に折り畳みのテーブルを持っています。

「おはようございます」

美優希さんはそう言ってから、

「これ私の私物なんだけど、綾ちゃん良かったら使って」

と、折り畳みテーブルを差し出してくれます。

「いいんですか?」と、まな姉。

「この前、床に座り込んでたから。これだと椅子に座ってちょうどいい高さだよ」

美優希さんはそう言います。

「ありがとうございます」

と言って、私は受け取ると、早速ベッドの横に置こうとしました。すると、

「あ、ベッドの近くはやめて。先生が来た時邪魔になるから」

と、美優希さん。

「ごめんなさい」

私はそう言ってソファーテーブルの前に置きました。美優希さんは引き継ぎ始まるからと言って、すぐに出て行きました。私は持って来てもらったテーブルに着いて準備をします。まな姉はパソコンを開いてからしばらく何かしていましたが、すぐに閉じてやめてしまいます。

「ほんとに仕事いいの?」

「メールチェックしたけど特に何もないから。あ、マー兄からのメモだと、姉さん目を覚まさなかったみたい」

まな姉はそう答えます。そっか、マー兄は私たちが帰ってから来たんだ。問題集に頭を切り替えて手を付け始めますが、すぐに中断。先生が診に来ました。いつもと同じ、カーテンを閉めているので何をしているのか分かりません。カーテンが開いて、先生が出てきます。一緒に来た美優希さんともう一人の看護師さんはまだカーテンの中。先生は変わりありません、とだけ言って出て行きました。もうしばらくすると美優希さんたちが出て来て、カーテンを全部開けてくれました。美優希さんは心配ないですよと言って出て行きます。心配ないですよと、先生や看護師さんはよく言います。でも最近、その言葉が嫌いです。何が心配ないのか。全然目を覚まさない、顔も日に日に健康とは程遠い感じになっていく。これが心配ない状態なんでしょうか。本当に聞きたくない言葉になって来ました。

 何も起こらず時間が過ぎます。お昼過ぎにまた先生が診に来ます。そしていつも通りすぐに出て行きます。聞きたくない言葉を言って。その時まな姉が、美優希さんと話しながら一緒に出て行きました。それ以外に何度か看護師さんが様子を診に来る。ここ何日か目にしているパターンと同じ。そしてまた夕食の配膳の音。母は目覚めません。午後六時を過ぎていると言うのに、真夏の太陽はまだまだ元気。当分沈んでいきそうもありません。

「こんにちは」

いきなり声がしました。姿を見なくても純子さんの声だとわかりますが、いきなりすぎてびっくりします。ポロシャツにスラックス姿の純子さんがスタスタと入って来ました。私やまな姉が口を開く前に、

「かおりは寝たまま?」

と、母の方を見て言います。

「はい。今日はまだ起きません」

と、まな姉。純子さんは母の右側の椅子に腰かけて、母の手を取ります。

「純子さん、仕事帰りですか?」

まな姉がベッドの傍へ行って話しかけます。

「うん」

少し間があって、

「お盆から後は、ちょっと長い休暇になるかも」

と、純子さんは続けました。

「長い休暇って、何ですか?」

まな姉が聞きます。またしばらく間があってから純子さんが答えます。

「リストラ、人員整理、クビ、とか言われてるやつ」

「え? ほんとですか?」

「代休の消化しろとかやたらと言われたのはこれだった」

「なんで? どう言うことなんですか?」

「だからリストラだって、規模縮小。私のいる直販事業部ってのがなくなるの。九月末で」

「そんな、普通他の部署とかに回されるんじゃないですか?」

まな姉はそう言います。純子さんの勤め先は大手商社の関連会社。ペットボトルの再生で繊維を作っている会社です。再生繊維だけでなく、自社で毛布の生産もしていて、純子さんはその直販店を管理する部門にいます。ちなみにうちの毛布はすべて純子さんの所から買ったもの。

「うん、転勤の辞令は出たよ、昨日」

と純子さん。そして続けます。

「でもなあ、倉庫整理は性に合わない」

「倉庫整理?」

「物流センター、しかも北関東」

「⋯⋯」

「これって辞めろってことでしょ? だから辞める」

純子さんがそう言った後、しばらく沈黙でした。

「いいんですか?」

しばらくしてまな姉が言います。

「いいんじゃない? 退職金上乗せするとかって言ってるし。て言っても、二十年未満だと元の退職金が知れてるんだけどね」

他人事のように言う純子さん。

「これからどうするんですか?」

「残ってる有給と溜まってる代休を、九月末からの出勤日で逆算すると、八月十七日まで埋まる。だから八月十七日から九月末までの休暇申請出した。もともと十三日から十六日までお盆休みだから、最終出勤日は十二日。あと十日だ」

そう言う純子さん。

「そう言う意味じゃなくて、辞めた後ですよ」

「うん、十三日からは私もここで、朝からかおりの傍にいるよ」

「いやそうじゃなくて」

と、まな姉が少し声を大きくすると、

「まな、分かってるよ。ありがとね」

と純子さん。

「かおりの傍でゆっくり考えるよ、次の仕事とか。私ってお金使う人じゃないから、数年とはいかなくても、一年やそこらは何とでもなるから。心配しないで」

まな姉はもう何も言わずソファーに戻ります。そしてさっきまで読んでいた小説を手に取りました。純子さんは母の手を取ったまま、母の顔を見ています。私もしていたことを再開しました。一時間くらいしたころ、ずっと母の傍にいた純子さんが立ち上がりました。

「帰るね」

「八時で私達も帰るから乗せていきますよ」と、まな姉。

「自転車、駅だから電車の方が早い」

そう言って出て行きました。私たちはそれをきっかけに帰り支度。私はさっきまで純子さんが座っていた椅子に座り、同じく母の手を取りました。ほどなくして廊下が暗くなり、帰る時間になりました。


 俺は今日も色々問題に振り回され、夕方まで忙殺されました。改修とか改造工事ではよくあること。病室に入ったのは九時を過ぎていました。ベッドの横でかおりの顔を見ます。無表情で眠っています。手を取ると力ない感触に少し悲しいものを感じますが、体温を感じると安心する気持ちもします。ソファーテーブルの上のノートパソコンが開いていました。俺はそっちに行って、パソコンを操作。スリープモードから立ち上がると、メモ画面が開いていると思いました。でも何も開いていません。デスクトップのアイコンをよく見ると、新しいフォルダがありました。まなみの仕事のフォルダだと思いましたが、フォルダ名が『名古屋』。開いてみると、『連絡』と言う名前のファイルが一つ。それも開きます。それはメモ帳ファイルでした。数日前から俺とまなみが交わしたメモが順番に並んでいて、今日の書き込みが一番下にありました。

『姉は今日一日目覚めず。

昼過ぎに先生から話あり。

姉はいつが最後になってもおかしくない、

覚悟してくださいとのこと。

綾には話していない。』

俺は何度も読み返していました。何度読んでも意味が分からない感覚でした。理解したくない。俺はベッド横に戻り、かおりの顔を見下ろしました。しばらくずっと。そしてまなみの気持ちを考えました。綾が一日一緒にいると聞いていました。昼にそんなことを言われて、綾には内緒にしている。どうやって振舞っていたのか。そして気持ちを抑えたまま、綾の前であの書き込みを打ち込んだのだろう。俺がその立場だったら、無理だろう。知らぬ間に涙が流れていました。そんな俺はベッドを挟んだ向かいに、美優希さんが来ているのに気付きませんでした。俺が気付いたと分かると、

「大丈夫ですか?」

と、声をかけてくれます。

「大丈夫です」

そう言って涙をぬぐいました。美優希さんはそれ以上何も言わず、かおりの様子を見たり、並んでいる機器の数値を見たりしています。

「まなみが今日、先生から言われたことをご存知ですか?」

俺がそう言うと美優希さんは、ゆっくりとこちらを向いた後、戸口の方を指さします。そしてそちらに歩き始めました。俺は続いて病室から薄暗い廊下に出ました。

「患者さんの前でする話ではないですよ」

と言われました。そして、

「私もその場にいましたから、知ってます」

と言います。

「本当にもうそんな状態なんですか?」

小さい声で俺は言います。

「先生がそう言われるのであれば」

「⋯⋯」

俺は言葉が出ません。しばらくすると美優希さんは俺の腕に手を添えて、

「私がこう言う楽観的なことを言ってはいけないのですが、今日、明日ってことはないと思います」

そう言ってくれました。

「⋯⋯」

「でも、残された時間がわずかなのも間違いないことです。だから、その時間を大切にしてください」

優しく強く言われました。

「⋯すごい人ですね。美優希さんは」

俺は俯いていた顔をあげて彼女の顔を見ました。彼女は小首をかしげています。

「こうやってたくさんの家族と、家族を失っていく家族と、接しているんですね。僕には絶対に出来ない仕事だ」

話しながら涙が溢れそうになります。

「逆ですよ。私は正善さんやまなみさん、綾ちゃんは本当に凄いと感じていますよ」

「僕は何もしていない」

「そんなこと。皆さんは本当に、日常のようにかおりさんに接している。だからかおりさんも必要以上に、悲しい思いをしなくてすんでいる」

「そうでしょうか?」

「もちろんです。若い患者さんのご家族では、本当に珍しいことです。⋯私にはまなみさんと同い年の妹がいます。妹がこういうことになったら、皆さんのようには多分出来ません。妹の前で泣いていると思います」

「⋯あなたにそう言ってもらえると、救われた気分になります」

俺は少し気が楽になったような気がしてそう言いました。

「やめてください。本来看護師がしていいような話ではないんですから、忘れてくださいね。では、仕事に戻ります」

そう言って美優希さんはナースステーションの方へ向かいました。

 病室へ戻った俺は昨日と同じようにベッド横の椅子で寝ていました。今日もやはり四時くらいにはここを出なくてはなりません。ソファーで寝てしまうと、起きれないかもしれない不安があります。でも本当は、かおりの傍にいたいと言う気持ちの方が強いかも。ふっと、目が覚めました。三時半にセットした携帯電話のアラームはまだ鳴っていない。確認すると三時少し前。かおりの様子は変化なし。俺はこれで帰ろうと思いました。かおりが目を覚まさなかったことをメモで残すためにパソコンの前に行きました。そして打ち込みます。

『午後九時から午前三時。

かおり目覚めず。残念。

メモ読みました。

綾にも知らせるべきだと思う。

綾にとっても残り少ない大切な時間だから。』



平成十七年八月三日


 昨夜、綾が二階に上がってから、自分の部屋で泣きました。昼間の先生からの話。その場では感情に出せず、半日も我慢していました。でも、その割には意外とすんなり、眠りに落ちていました。台所辺りからの音で目が覚めました。また綾が早起きしている。時間はまだ五時前。しょうがないので私は部屋を出ました。台所に立つ綾を見てびっくり。制服を着ています。

「あれ? 今日は学校行くの?」

おはようの言葉を忘れてそう言ってました。

「おはよう、まな姉。模試だよ、学校で」

そう言いながらコーヒーをドリップしています。

「こんなに早く出ないといけないの?」

私はテーブルの横まで行って言います。

「ううん、いつも通り。八時半までに行けばいいんだけど」

「なんでこんなに早いの?」

「学校行く前にお母さんのとこ行きたいから。まな姉も早く準備して」

「⋯はいはい」

私は顔を洗いに洗面へ。そしてまた慌ただしく、朝の食事やら用事やらを済まして家を出ます。今日は六時過ぎに病室に入りました。姉には変化がない様子。綾はまた横に座って手をさすったりしています。私はテレビでニュースを見ていました。アナウンサーが七時になりました、と言うのを聞くと綾は立ち上がります。

「行く?」

私が尋ねると、しばらく姉の顔を見てから、

「うん。じゃね」

と言って出て行きました。綾が出て行ってからパソコンのメモを思い出し、確認します。マー兄の書き込みを見て、しばらく固まってしまいます。どうやって綾に伝えようか。でも、マー兄の言う通り、綾の大切な時間を潰してしまうのはいけない。そう思いました。八時少し前、いつも通り先生が診に来てくれます。綾がいないことを確かめてから、姉の今の状態は、もう寝ていると言うものではないと言われました。失神しているような状態。昏睡とか昏迷とか色んな言葉を言われましたが頭に入りません。要は起きるではなく、気付くと言うべきなのかなと思いました。で、その時まさに、姉は気付きました。看護師さんが、私の方に向いていた先生に言います。

「先生、山中さん、目が覚めたようです」

目が覚めたって言ってるやん、と突っ込む余裕はありませんでした。ベッド傍に戻る先生について、私もカーテンの中に。

「山中さん、分かりますか?」

先生は姉の肩をトントンと叩きながら呼びかけます。しばらくしてから、

「はい、わかります」

と、小さいながら姉の声。そのあと、私の手を目で追えますか等、姉の正気度を確かめる検査がありました。それは問題なかったようです。先生も心なしか明るい顔で出て行きました。看護師さんたちも診察の後を片付けて出て行きます。私は姉の横に行き、手を取りました。

「おはよ、姉さん」

「おはよ、って、朝なの?」

私は笑みがこぼれました。

「しんどくない?」

「大丈夫、ちょっとだけ起こして」

私はベッドの背を起こしますが、少し起き上がったくらいの所で、ここでいいと言われ止めます。

「お水飲みたい」と、姉。

私はそのうち寝たままで何か飲ませることになるかもと用意していた、吸い飲みの口が付いた蓋つきのコップに水を入れました。そして、姉の口に飲み口を付けてゆっくり注ぐように飲ませます。姉はほんの一口分程度で手を動かします。そこで私も飲ませるのをやめます。

「そんなコップがあるんだ」

と、姉はコップに注目。

「売店で売ってた」

姉はしばらくコップを眺めたあと、病室を見回して、

「綾は?」と聞きます。

「今日は模試だって、朝のうちはいたんだけどね」

「そっか、残念」

そう言って目線は右側に。写真を眺めています。私はせっかくなので色々話したかったです。でも、マー兄のメモにあった大切な時間という言葉が思い浮かびました。姉にとって、起きている時間は大切な時間。話したければ姉から話すだろうと考えました。聡子さんのお母さんの家での写真に注目しているようなので、私は私が作ったファイルを姉に渡しました。そんなに枚数は有りませんが、その時の写真を全部A4サイズにしてあります。

「嬉しい。ありがと」

と、姉は言いながら、おぼつかない手先でページをめくります。私は右の壁の写真を遮らないところに椅子を置いて座りました。姉が気を遣わないように、手元に小説を持って目線を落とします。姉は一枚ずつゆっくりと見ていました。そのうち一枚の写真で動きが止まったままになりました。眠ったかと思いましたが、薄くですが目は開いていました。私はちょっと立って写真を覗きます。どこかの学校の校庭で姉とマー兄が写っている写真と、同じ学校の校舎前で純子さんも含めた三人で写っている写真が見開きになったところ。

「ここね、マー坊が最初に通った小学校」

私が写真を覗き込んでいるのに気付いて、姉がそう言います。

「そうなんだ」

「写真には写ってないけど、この校庭のすぐ先がもう海なの。でね、校舎の裏はすぐに山。すごいところよ」

「へー、私も一回行ってみたいな」

「うん、マー坊に連れてってもらって」

そう言ってページをめくる姉。校庭から校門に向って歩く姉とマー兄が写っています。確かに校門の少し先に海が写っていました。それを私が口にしようとしたら、

「聡子、待っててくれてるかな」

と、姉が呟きます。見開きのもう一枚の写真は、墓石の右側に立つマー兄と純子さん、左側には墓石に手をついている姉の三人が写っています。お参り中の写真のようです。

「待っててって、姉さん」

「この時私、そう言ったの。もうすぐ行くからねって」

なぜだか姉は少し明るい口調になりました。私は何も言いませんでした。姉がページをめくると、次は見開きともお墓参り中の物でした。それもしばらく眺めてから姉は口を開きます。

「まなみ、お願いがあるの」

「なに?」

「聡子のお母さんにお願いして、私の骨も少しでいいから、このお墓に入れてもらって欲しいの。聡子の隣に」

私はしばらく言葉が出ませんでした。姉は何事もなかったようにページをめくります。それは最後のページ。父と母の遺影と同じ写真が見開きで並んでいます。それを見て、両親からもそうしてやってくれと、言われている気がしました。

「分かった。必ず聡子さんの隣に入れてあげる」

私はもう迷わずそう言いました。

「ありがと」

姉は微笑んでそう言うと、ファイルを閉じます。そして壁の雪山を見ます。私は姉の手からファイルを取り、横の床頭台に置いてから、下がって座ります。私もその雪景色を見ます。写真が大きいのでちょっと近すぎて見づらいです。

「まなみ、本当にありがとう。あなたがいてくれて良かった。⋯綾のこと、よろしくお願いします」

姉がそんな事を言い出します。

「ちょっとまって、まだ早いよ。私は散々姉さんに甘えてきたんだから、もっと恩返し出来てからにして」

私がそう言うと、姉は少し笑ってから、

「言えるうちに言っただけ。誰もいないうちに。安心して、もっと甘えさせてもらうから」

そう言いました。

「うん、もっと甘えて」

「ありがと」

姉はそう言って目を伏せました。私は姉を窺いながらまた本を手に取りました。

しばらく目を伏せていた姉、寝てしまったかと思いました。するとまた壁の写真を見上げます。そして、

「まなみ、寝るね」

と言って、目を瞑りました。しばらく待ってから、私はベッドを元に戻しました。


 綾が五時過ぎに病室に戻って来ました。すぐベッド横に行き、姉の顔を覗き込みます。

「お母さん起きなかった?」

と、聞いてきます。綾が出て行ってすぐ、とは言い辛かったので私は、

「午前中にしばらく起きてたよ」

と、言います。

「そっか、もう起きないかな」

そう言って椅子に手を掛け座ります。

「お母さんと話せた?」

「うん、少しね」

「いいなあ」

残念そうに言います。綾はまた姉の手を取って摩るようにしています。私は綾の後ろに行きます。そして言葉を掛けようと思っていましたがやめました。私は姉が目覚めてもあまりはしゃがず、ゆっくりさせてあげて。姉の残り少ない時間、大切にしてあげて。そう言うつもりでした。でも、言えませんでした。だって、綾にとっても残り少ない大切な母との時間。いつが母との最期の会話になるかわからないのだから。

「なに?」

後ろに立った私に、綾が首だけ振り向いて言います。

「ううん、最近いつもそれやってるなと思って」

私は綾の手元を指さします。

「ああ、これね、何かで聞いたの。目覚めない人の手とかに触ってたりしたら目覚めるって」

綾は視線を姉の顔に戻してそう言います。

「なるほどね」

私はそう言ってソファーの方へ。そしてパソコンに向かいます。今日は昼からメールで新しい質疑が届いていました。いろいろ調べたり、確認してから返答していかなければなりません。しばらくすると綾はベッドを離れ、例のテーブルへ。プリントのようなものを広げ始めました。今日の試験問題のようです。答え合わせかな?、さすが受験生。

 六時過ぎに純子さんが来ました。簡単に挨拶するとベッドの横の椅子へ。綾と同じように姉の手を取ります。そして十分かそこらした頃、

「かおり? 分かる?」

と、純子さんの声。私も綾もベッドの傍へ。綾は姉の左側へ行って、手を取って顔を覗き込みます。

「お母さん」

呼びかけます。姉は細く目を開けていました。

「あや」

かすれた声で、姉が言います。私は純子さんの横を抜けて、ベッドの背を少し起こします。そして、

「姉さん、お水飲む?」

と、聞きます。姉は頷きます。私は朝と同じようにして水を飲ませました。朝よりたくさん飲みました。少し顔をしかめながら、三回に分けて三口。それを見て、

「どこか痛いの?」と綾。

「ううん、どこも」

「なんか痛そうな顔してたよ」

「のどがカラカラすぎて、ちょっと飲みにくかっただけ」

そう言って姉は純子さんの顔を見ました。

「かおり」

と、純子さんが呼びかけます。

「純子、久しぶりね」

姉はそう言うと、傍に来てと言うように純子さんに手を差し出します。純子さんが姉に顔を近づけると、姉は純子さんを抱くようにして、耳元で何か話し始めます。綾はベッドを離れて冷蔵庫の方へ。私は姉が目を覚ましたら教えるように言われていたのを思い出し、ナースステーションに向いました。ちょうど先生もいて、看護師さんも一緒に三人で病室に戻ります。

「お母さん食べる?」

綾がお粥のタッパーとゼリーのカップを姉に見せているところでした。ずっと無駄になっていますが、それらの物は毎日、阿部のお母さんが昼過ぎに来て補充してくれています。

「今はいい」

姉はそう答えます。そのあと、ベッドまわりのカーテンが閉められ、先生と看護師さんが問診や何かの処置をしている様子。カーテンが開かれると、先生がどうぞと言って、二人は出て行きました。綾は姉の右側に駆け寄って行きます。

「なんで制服なの? 今日は登校日?」

と、姉は綾に言います。

「登校日じゃないけど、学校で模試だったから」

「そう、どうだった?」

「う~ん、希望者だけだったから、私のクラスは半分も来てなかった。多分、他の学校の子の方が多かったよ」

姉が聞いたのとは違う答えだとは思いましたが、とりあえず黙ってます。

「他の学校の生徒も、綾の学校で受けたんだ」

と、姉は返します。

「うん、予備校主催の模試だから。うちの学校が会場になってただけ」

「そっか、じゃあ、女子校に男の子も来たの?」

「友達は期待してたけど、いなかった」

「綾は?」

「しないよ、それに男子来たら大変だよ」

「なんで?」

「だって職員室の所と体育館しか、男子用のトイレないもん」

「なるほど、それは大変だね」

家でもしそうな普通の会話でした。微笑ましいはずなのに、なんだか苦しい思いで私は聞いていました。

「純子、会社帰りに寄ってくれたの?」

と、姉は純子さんに話しかけました。

「うん、顔見にね」

と、純子さん。すると、

「昨日も来てくれたんだよ」と綾。

「ありがとう」

姉がそう言うと、

「純子さんリストラされるんだって」

と、綾が余計なことを言います。さすがに純子さんも少し困った顔で綾を見ます。でもテンションの上がっている綾は気にしません。

「ほんとなの? なんで?」

と、姉は驚いた顔で言います。

「うん、話すと長くなるから。でも、大丈夫だから心配しなくていいよ」

と、純子さんは珍しく笑顔を見せて言います。姉は純子さんの顔を見つめてから、

「わかった。心配しない」

と、同じく微笑んで言いました。そのあとも二十分くらい姉は、私達と会話しました。嬉しそうな顔で。姉がそろそろ寝たいというので話は終わりました。私がベッドの背を戻していると、

「今度いつ起きる?」

と、綾が姉の顔を覗き込んで言います。姉はうっすらと目を開けると微笑んで、

「頑張って」

と、一言綾に言って眠ったようです。

「頑張ってって、頑張って起きるってこと?」

眠った姉の顔を見ながら綾がそう言います。

「そうじゃない?」と私。

純子さんを見るとずっと手に持っていた携帯電話を触っています。

「着信でも?」

私が聞くと、

「このパソコン、携帯電話繋げれる?」

と、逆に聞かれました。

「つなぐケーブルがあれば」

「帰ったらメールで送ってあげる」

純子さんはそう言います。

「何をですか?」

「今の会話」

「録音してたんですか?」

「急に思いついて、先生たちが出て行ってから録音した」

私は感激しました。と、同時に後悔も。姉の声を残せることに感動し、もっと早く気付かなかったことに後悔。

「まな姉、私にも聞かせてね」と綾。

「もちろん。それと、これから姉さんが起きた時は全部録音するようにするね」

私がそう言うと綾も嬉しそうにしました。

 午後七時半くらいにマー兄が来ました。マー兄の顔を見るなり、

「今日はお母さん、二回も目を覚ましたよ」

と、綾が言います。

「そっか、綾ちゃんは話せたん?」

「一回目はいなかったけど、二回目起きた時は話せた」

「うらやまし。良かったね」

マー兄はそう言って、なんで制服?、などと話してるうちに廊下が暗くなりました。私は綾に帰るよと声をかけて帰り支度。綾も従います。純子さんは反応なし。

「純子さんどうします?、電車?、一緒に帰りません?」

と、私が言うと、

「マーに話があるからあとで帰る」

と、返事が帰って来ます。

「じゃあ、また」

二人にそう言って帰りました。


 まなみ達が帰ってから、俺はかおりの横へ行って顔を覗きます。少し疲れた寝顔に見えました。純子はベッド横の椅子に座ったまま何も言わない。

「話って?」

俺から純子に話しかけました。

「ひょっとして、まなから何も聞いてない?」

「⋯⋯?」

「聞いてないならいい」

純子はそう言います。話したくないことをまなみに知られたのでそう言うのか、話し辛いだけなのか。計りかねたので俺は触れないことに。床頭台の上に、自分が写真を入れて持って来たのと同じようなファイルがありました。手に取って開くと、山口に行った時の写真が入っていました。おそらく優美ちゃんが撮っていたもの。俺はそれを純子の方に見せて、

「これ、純子が作ったん?」

と、聞きます。

純子はそれを手に取って膝の上で開きます。

「私じゃない」

俺は純子の傍に椅子を置いて一緒に写真を見ます。

「じゃあ、まなみが作ったんやろな」

「そやろね」

そして次のページ。安部家内での写真。かおりも元気な笑顔を見せている。

「私、会社辞めるから」

唐突にそう言う純子。

「は?」

「リストラ」

「ほんまに?」

そう俺が言った後頷きます。でも、何も言いません。

「話ってそれか」

純子はまた頷くだけ。

「そうか」

俺はそう言ってから傍を離れました。ソファーに行ってパソコンを開きます。今日はまなみと会ったので伝言はないとは思うが、一応確認。

「それだけ?」

写真を見ながら純子が言います。

「何て言うたらええ?」

「いや、何でもない」

まなみからの伝言はやはりなし。純子は写真を見続けています。

「どうしたいんや?」

俺は聞きました。

「⋯分からへん」

ちょっと間があってからそう返って来ます。

「ゆっくりしたらええんやないか。俺も会社辞めて自営で始めるまで、四か月あったからな」

「四か月」

純子が俺の言葉を繰り返します。

「ま、実際何もせえへんかったのは一か月くらいやけど」

純子はまた何も言わなくなりました。でも、ファイルを閉じて床頭台の上に戻すと、こちらに来てソファーの前の椅子に座ります。そして口を開きました。

「かおりを見届けるまでは、何もせえへんことにするわ」

「そっか」

「うん」

そこで俺は一つ気になって聞きます。

「もう会社、行ってへんのか?」

「退社は九月末。今日正式に決まった。出社するのは来週いっぱい」

「あとは有給か、ええなあ」

「ええやろ」

こいつは昔から感情が読み辛い。でも、今回はなんとなく前向きな感じでいるんやと思いました。社会人になってからずっと勤めていた会社を辞めるのは、それなりに思うところはあると思う。しかも、リストラと言っていた。自分が望んでの退職ではなかったのだろう。でもなぜか、純子の今の雰囲気からは、それで良かったというようなものが感じられる。ま、この話はここまで。純子が続けない限り。

「今日は来るの早かったから飯食ってないんや。一緒に行かへんか?」

俺は話題を変えました。ちょっと考えてから純子は、

「ええよ」

と、言います。

 俺たちは食事に出ました。病院内のお店はもう終わっていたので、純子を送りがてら車で外へ出ます。地元の駅に停めた自転車に乗って帰ると言う純子。駅前の店で食事して別れる。病室に戻ると十一時ころでした。いつものようにベッド横の椅子で仮眠。携帯のアラームで起きました。かおりが目覚めた様子はなし。それをメモに残して四時前に病院を出ました。




平成十七年八月六日


 連日早起きして、まな姉を急かして病室に朝早くから来ています。そして母へのスキンシップも出来るだけ施しています。でも、この前話して以来、母は一度も目を覚ましません。もう三日たちます。夜来ているマー兄からのメモでも、起きたという話は無いようです。今日は朝から純子さんも一緒に来ました。なので代わる代わる母の手や腕を摩ったり揉んだりしているのですが、起きません。土日は混むので、早めのお昼を食べに行きました。病室に戻ると女性がベッド脇に立って母を見下ろしています。きれいな人でしたが、私の知らない人です。

「彩子さん、来てくれたんですか」

と、まな姉が言います。まな姉は知っているようですが、私は知らない名前です。

「まなみさん、こんにちは」

声を掛けられてこっちに振り向く彩子さん。純子さんを見て軽く会釈した後、私を見て言います。

「綾さん?」

「はい」

知らない人からいきなり名前を呼ばれて驚きましたが、返事はしました。彩子さんはなぜだか、感慨深げに私を見つめてから言います。

「そう、会いたかった。私はお母さんの友人の渡辺彩子と言います。よろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

一応軽く頭を下げます。すると、

「私はかおり達の近所にいる松嶋です」

と、純子さんが彩子さんに挨拶しました。彩子さんも改めて渡辺と言いますと、純子さんに挨拶。そこまで済んだところで、

「かおり、全然起きないの?」

と、彩子さんは母の方を見ながらまな姉に尋ねます。

「はい、この三日ほどは」

「本当にそうなんだ。辛いですね」

ん? 母が起きないのを知ってる?

「知ってたんですか? 姉の状態」

まな姉が同じ疑問を持ったようでそう聞きました。

「今朝、新幹線に乗る前に阿部さんに電話したんです。今からかおりに会いに行くって。そしたら、話は出来ないかもと言って、大体の状況を教えてくれました」

と、彩子さん。マー兄とも知り合いなんだ、と思いました。

「そうだったんですね。まあ、お聞きになった通りだと思います」

なぜかまな姉は、話しながら私をチラッと見ました。彩子さんは母の頬に掌で触れます。そして、

「かおり、起きてよ」

と、声を掛けました。

「お願い、起きて」

もう一度。私も心の中で同じように呼びかけました。でも、当然のように母は目を覚ましません。彩子さんは小一時間ほど頬に触れたり、腕や手を摩ったりしながら母に話しかけていました。誰も止めませんでした。声さえろくに掛けれずに見守っています。母に対する強い想いを感じました。やがてこちらを向いた彩子さんの頬には涙が伝っていました。

「大丈夫ですか?」

まな姉が声を掛けます。

「ごめんなさい。起きてくれないね」

と、涙を拭きながら彩子さんは言います。そして、

「今日は時間がないのでそろそろ」

そう言います。

「お仕事ですか?」

と、まな姉。

「明日の朝から福岡で。その事前の打ち合わせが今夜あるので」

「そんな、移動途中で寄っていただいて申し訳ないです」

「ううん、私が来たかったの。明日は無理だけど、月、火は休みもらってここにいるわ」

彩子さんはそう言いました。

「いいんですか?、休んで」

「お願い、いさせて」

「いや、もちろん」

まな姉は恐縮しています。

「ありがとう」

彩子さんはそう言うと母の方を向いて、しばらく見つめました。そして私の前に来て手を取ると、

「綾ちゃん、お母さんきっと目を覚ますから」

と、言います。

「はい」

私はもう、雰囲気で頷き、返事していました。そして彩子さんは純子さんにも挨拶をすると去って行きました。

 彩子さんが去った後、午前中と同じように純子さんと交代で母に触れていました。彩子さんを真似て、時々話しかけるようにもなりました。でも変化はありません。もう丸三日間眠ったまま。私は母の顔を見ます。本当に病人にしか見えなくなってきました。骨と皮だけみたいとか言う事がありますが、そんな感じではありません。でも、間違っても健康そうには見えません。なんだか辛くなってベッドから離れました。ソファーの前まで行きます。ソファーに座っていたまな姉が顔をあげます。

「どした?」

まな姉が私に言います。

「もう起きないの?」

私はまな姉の目を見て言います。

「分からない」

「このまま死んじゃうの?」

「綾、諦めないで」

まな姉は立ち上がって私の手を取ります。

「諦めなかったら死なない?」

「⋯⋯」

「諦めないから起こしてよ!」

まな姉の手を振り払ってそう言ってました。まな姉は手を振り払った私を抱きしめてくれます。

「もう一回でいいから、⋯お母さんと話したい」

私はその場に膝をつき、座り込みました。そんな私を支えるようにまな姉も膝をつきます。私を抱きしめたまま。私もまな姉に抱きつきます。涙が止まりません。

「お母さんにちゃんとお別れ言いたい。ありがとうって」


 その夜は私たちが帰るまでにマー兄は来ませんでした。土曜日なので早く来れるみたいなことがメモにありました。会えるものと思っていたので残念です。夕方少し感情的になった綾も、帰るまでには落ち着いていました。泊まり込むと言い出したら、付き合うつもりでいた私は少し拍子抜けです。綾は本当に強いかも。母親が死ぬということを、この年で受け入れている感じです。夕方のように感情的になることはあってもその時だけ。どこか根底では、言葉は悪いですがちゃんと諦めている。私よりもはるかに強いと思います。


 夕方までにかおりの病室に行くつもりが、またしても名古屋を出るのが夕方に。いや、宵の口と言うべき時間でした。ただ真夏なのでまだ明るく、感覚的には夕方。故に九時過ぎの到着となりました。かおりに変化は見られず、まなみのメモでも目覚めていないことが書かれていました。もう三日以上眠ったままの状態。メモには気になることも。綾が少し不安定だと。メモを読み終えてもう一度ベッド横へ。部屋の電気を消灯時間の状態にしてから座りました。枕灯のほのかな灯に照らされたかおりの顔を見ます。最近はそうやって座っているときに、かおりの手に触れているようにしています。特に意味はないです。かおりの体温を感じて、生きていることを確かめたいだけかも。そのまま寝てしまいます。起きたのは二時半。そのまま三時過ぎまでかおりを見ていました。日曜ですが戻らなければなりません。メモを残して三時半に病室を出ました。俺は今月に入ってから、かおりの声をまだ聞いていません。


平成十七年八月七日


 綾と純子さんは、朝が強いです。今朝は何と四時半に綾に起こされました。そして、私や綾が起きていると気付いた純子さんは、五時にうちに来ました。すでに朝食を終えて出掛けるばかりの格好で。と言うわけで、六時前には病室にいました。ですが、状況は昨日までと同じ。いえ、違いました。午前中の早い時間に優子さんから着信があり、屋上へ電話しに行きました。明日来ると言う内容だったのでそれはいいです。病室へ戻る途中、ナースステーションの横で美優希さんに呼ばれました。例の小部屋に通されて待っていると、先生が来ます。そして、本当に、もうもたないと言われました。私は分かりましたとだけ。なぜそう判断したのかなど、説明されますが頭に入りません。だから、分かりましたとだけ。他に何も言う言葉がない。それに一週間ほど前に同じようなことを言われている。今日の方が切迫感が強いだけ。でも動けませんでした。先生が出て行かれてからも立てませんでした。美優希さんが後ろから肩を抱いてくれます。美優希さんの暖かさを感じると、涙が流れました。ほんのしばらく甘えていましたが、私は涙を拭いて立ちます。美優希さんに出来るだけの笑顔でお礼を言って病室に戻りました。病室に戻っても今の話はしません。そして、良くも悪くも変化のない一日が今日も終わりました。帰る前にマー兄に残すメモにも、姉が今日も目覚めなかったとだけ。先生の話は書きませんでした。でも、一言書き加え、無理しないで体を休めるように。それは美優希さんから聞いたこと。マー兄の疲れが限界のような気がすると。あ、優子さんのことは書き忘れ。私たちは家に戻りました。


 かおりの病室に着いたのは八時半の少し前。でもまなみ達とは会えず。また入れ違った様子です。ここに来る前にいつも自宅に寄って、シャワー、着替えを済ませてから来ます。今日は昼前には自宅に戻れたため、シャワーの後、少しくつろいでいたら寝てしまいました。そのせいでこんな時間に。かおりには変化はない様子。まなみのメモでもまた起きなかったことが書いてあります。かおりのベッドの横で、まなみの作った写真のファイルをゆっくり見ました。聡子の母親の家で、みんなと一緒に笑っているかおりの顔を見ると胸が痛みます。この笑顔からまだ二か月も経っていません。今のかおりの顔が、怖くて見れなくなりそうです。そのファイルを閉じ、野沢温泉に行った時の写真のファイルを手に取ります。自分が作ったものです。何度も見た写真ですが、ゆっくりとまた見直します。上ノ平ゲレンデの広大さをバックに、満面の笑みでポーズをとる小学生の綾とかおり。どの写真を見ても、その時の楽しさが蘇って来ます。そして、ポスターサイズにした写真。かおりがもう一度見たいと言った景色。あの日の朝、かおりの発熱がなければ行っていたはず。いや、行けば良かったんだ。見せてあげるべきだったんだ。今の状況を思えばそんなことを考えてしまう。辛くなってファイルを閉じて戻します。時計を見るともう十時直前。消灯時間です。慌てて電気を消します。薄暗くなると眠気が襲ってくるので、いつ寝てもいいようにアラームをセットします。でも明日は昼までに事務所に行けばよい。朝一番で行かなければならないところはありません。なのでアラームセットはなし。寝過ごしてもまなみたちが朝来た時に起こしてくれる。それから帰っても間に合うでしょう。今日は不本意ながらたっぷり昼寝をしてしまったので、簡単には眠気は来ないだろうけど。十一時に看護師さんが様子を見に来ました。一通りの確認を済ませると出て行きます。美優希さんがいれば彼女が来るはずなので、夜勤ではないようです。看護師さんが行ったあと、かおりの手を握っていました。そしてそのまま眠りの中へ。


 俺は夢の中でかおりに手を掴まれました。とても暖かい手でした。そして、それは本当に手を触られている感覚に。俺は目を覚ましました。驚きました。本当にかおりに触られていました。かおりの顔を見ると、細く目が開いています。そして何かしゃべろうとしています。でも声が出ない様子。俺はかおりの口に耳を近づけます。

「お⋯」

としか聞こえません。

「お水か? 飲みたいのか?」

そう言うと首をかすかに振ります。もう一度耳を近づけます。

「おこして」

そう聞こえました。俺はベッドのリモコンを取って、背を起こします。少し角度が付いたところで頷くような仕草。ベッドを止めます。そしてもう一つの枕を頭の後ろに入れてやります。少し表情が和らいで楽なようです。俺はとりあえずナースコールを押しました。そう言われているので。

「マー坊、ひさしぶり」

小さな声ですがちゃんと聞こえました。そこに美優希さんが来ました。いたようです。起きているかおりを見て、ほっとして、嬉しそうな顔をしてくれます。まわりの機器などを確認してから、苦しくないか等簡単な質問をした後、すぐに戻って行きました。俺に、良かったですねと言っているような笑顔を見せた後。

「ほんとに久しぶりやな」

そう言うとかおりは微笑みます。いや、微笑んだように見える。話すのが難しいのか、俺の顔をじっと見つめるだけで何もしゃべりません。喉がカラカラでしゃべれないのか。

「水飲むか?」

さっきと同じ、わずかに首を振るだけ。

「どうした? 何かして欲しいことあるか?」

そう言ってもわずかに首を振るだけ。

「そっか、でも嬉しいわ。ずっと寝顔しか見れんかったから」

そう言うとかおりは右手を少し上げて、こちらに差し出します。俺はその手を取りました。するとかおりも俺の手を握ります。弱弱しい限りですが確かに握って来ます。微笑んでいるように見える表情のまま、じっと俺の顔を見て。そしてこう言います。

「ありがとう」

小さな声で。でもはっきり聞き取れる声で。そう言ってから少し右に視線をそらせます。そしてしばらくそちらを見ています。俺は左を向いてかおりの視線を探ります。視線の先には聡子の遺影を囲んで、みんなで写っている写真が壁に貼ってありました。俺はかおりに向き直ります。向き直るとかおりはまた俺の顔を見ていました。

「マー坊、ほんとに、いままで、ありがと」

「かおり?」

俺の手を握る力が少しだけ強くなります。そして、その手の力が抜けました。

「もう、⋯⋯いってもいい?」

はっきり微笑んでいると分かる表情でそう言います。俺はかおりの言葉の意味を理解します。壊れてしまいそうです。俺自身が。でも、でもまだだ。まだその時ではない。俺はゆっくり頷いてから、

「いいよ」

と、一言返しました。すると、かおりは目を閉じました。一瞬にこりとして。

 かおりにつながった機器は、かおりがまだ生きていることを伝えています。また眠っただけであることを。でも俺の目からは、かおりが目を瞑った瞬間から涙が流れています。病にやつれた顔で再び眠るかおり。でも俺には最後の笑顔が張り付いたままに見えます。これが流れる涙のせいなら、尽きることなく流れ続けて欲しい。

 どのくらいそうしていたか分かりません。頬の涙が乾いてしまうくらいはそうしていました。俺は握っていたかおりの手をそっと放しました。その瞬間、手を離した瞬間、かおりがいってしまうのではと怖くなりました。でも、周りの機器はかおりが生きていることを、まだ証明してくれていました。俺はかおりのベッドの背を戻します。枕も元通りに。かおりの顔を見下ろします。変わりはない様子。顔を洗ってからまたベッド横の椅子に戻ります。左側のさっきの写真に目が。聡子の笑顔がありました。


平成十七年八月八日


 また六時前に病院に着きました。私たちが病室に入ると、マー兄がベッド横の椅子にいました。

「おはよ、マー兄」

一番乗りで入って行った綾が声を掛けます。

「おお、おはよう」

「帰んないの?」

「いや、そろそろ帰るよ。まなみ、純子、おはよう」

マー兄は私たちに挨拶してくれます。私達もそれぞれにおはようを返しました。

「お母さん変わりない?」

マー兄を押しのけるようにして姉の横に陣取った綾が言います。

「夜中に少しだけ目を覚ましたよ」

と、マー兄が言うなり、

「うそー、ほんとに? なんで寝かしちゃったの」

マー兄に食って掛かる綾。気持ちは分かるけど⋯。すぐ姉の方に向き直り、綾は姉の手を握ります。そして、

「お母さん起きて。お願い」

と、話しかけます。マー兄はベッド横を綾に明け渡して私たちの方に来ます。

「かおりと話せた?」

純子さんが聞きます。

「ほんの少しだけ」

「そ、良かったね」

「何話したの?」

今度は私が聞きます。

「何も、久しぶりとか、嬉しいとか、その程度」

「それって会話なん?」

と、純子さん。

「だからほんの一瞬だけやったんやって」

「夢の中やないの?」

純子さんはキツイ。

「ちゃうって、ちゃんと美優希さんも呼んで診てもらったんやから」

「美優希さんいたんだ」

これは私。

「起きたら知らせることになってたやろ。ナースコール押したら美優希さんが来てくれた」

「そっか」

と、私が言うと、

「まなみまで疑ってたんか」

と、マー兄。

「ちがうよ」

そんな会話を少し交わしてから、マー兄は帰って行きました。病室を出て行くマー兄に呼ばれて、廊下で話した純子さん。最初は姉の顔を見たら会社に行くと言っていたのですが、何故か会社に行かないと言い出します。

 綾はその後もずっとベッド横で姉に話しかけたりしていました。私と純子さんは読書。それしかやることがないので。八時前にいつも通り先生が来てくれます。一緒に来た看護師さんの中に美優希さんはいません。そう言えば昨日の昼間もいたので帰ったのでしょう。先生が来るなり、夜中に意識が戻られたようですねと言いました。意識が戻ると言う表現が私には引っ掛かりました。綾はその言葉を嬉しそうに聞いたようですが。綾も一旦ベッド横から離れて私たちの傍へ。朝の処置や確認が終わってカーテンが開くと、綾は先生の脇を抜けるように姉の傍へ行きます。綾が後ろに回ったのを見た先生は、私と純子さんの方を見てから首を横に振りました。意味は分かりたくもありません。純子さんの顔を見ると、純子さんも私を見ました。何かを悟っているような顔で。先生はゆっくり小さく頭を下げると出て行きました。看護師さんたちも続きます。


 今日は本当に快晴でした。朝から真夏の太陽は元気いっぱいです。窓のカーテンを開けていると、空調が負けてしまうので閉めています。それでも隙間から差し込む日光は眩しいくらい。姉の傍を一旦は純子さんに譲った綾。でも少し前からまた横の椅子に座って手を握っています。十時少し前でした。そう、十時少し前。

「お母さん?」

綾が少し大きな声を出しました。

「どうしたの?」

私はベッドに向いながら聞きます。純子さんもベッドの傍へ。

「お母さんが手を握ってる」

綾がそう言います。私も綾の横から姉の腕を触ります。確かに力が入っているのを感じました。純子さんは左側で姉の手を取っています。

「お母さん!」

「姉さん」

「かおり」

それぞれに声を掛けました。すると、突然周りの機器から電子音が鳴り始めます。何なのか分りません。でも感じました、姉の腕から力が抜けているのを。

「姉さん! 姉さん!」

私は叫びました。綾も純子さんも同じでした。看護師さんが駆け込んできます。純子さんを下がらせて左側から姉の様子を確かめます。先生も来ました。私と綾を下がらせて右側に付こうとしますが、綾が離れません。

「いや、お母さん。いやー」

泣き叫んでいます。私は引きずる様に綾をベッドから少し遠ざけます。座り込んで泣き叫ぶ綾。私も座り込んで綾に抱きつきます。そして先生の方を睨むように見ていました。純子さんは涙を流しながら姉の方を見ているようです。そして、その時が来ました。私たちは先生から、姉の死を、告げられました。


 八月八日午前十時。姉は、娘と、妹と、親友の三人に、ちゃんと別れを告げました。そして、三人に見送られて、旅立ちました。

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