第七章

平成八年二月十一日


 三連休を利用して、昨日から来ている野沢温泉スキー場。私と綾と優美ちゃんの三人は、九日の夕方に名古屋まで電車で移動。マー坊たちと合流して、深夜に名古屋から車で野沢温泉へ出発する予定でした。でも、九日朝から優美ちゃんは熱を出して断念。夕方、家を出るときに優美ちゃんの母親が来ました。残念ね、などと話しているときに、純子が帰って来ます。私たちの話を聞くと、スキーしたことないので行きたいと言い出します。なので予定より一時間遅れで出発。あとは予定通り。昨日の初日は、綾と純子の初心者二人に付き合って、下のゲレンデで遊ぶことに。でも、滑りたい人は滑って来てと、お昼を食べているときに純子が言い出します。マー坊と美穂は昼からゴンドラに乗って上がって行きました。私は二人にお付き合い。初心者のコーチに、宿のお孫さんがついてくれていましたが、まかせっきりにするわけにもいかないので。野球部にいると言う中学二年生の男の子ですが、さすが地元の子、スキーもかなりの腕前。教えるのも上手。二人共、最初は足がすくんで動けなくなっていたような斜面も、昼からは何でもないように降りていました。純子は基本的に運動神経が良いので分かるのですが、綾が意外でした。どちらかと言うと、スポーツ全般不得意。ま、小学校二年生なので、本格的に何かのスポーツをやっているわけではありませんが。でも、純子より上達が早く、夕方にはシュテムターンの真似事までやっていました。

 そして二日目の今日。朝一番から全員でゴンドラに乗って、上のゲレンデに上がってきました。まさに別世界。私は高校時代に、希望者参加のスキー合宿に3年続けて参加。学校の合宿先が八方尾根スキー場と決まっているので、八方尾根に三回。短大時代には他のスキー場に四回行ってます。ですがどことも違う。まぶしくて目が開けていられないほど天気が良いのもあるでしょうが、これぞ白銀の世界。上ノ平ゲレンデは、どこまで広がっているのと思うほどの展望。スキー場に来たことのある私がこれだけ感動しているのだから、綾と純子はなおさら。目を輝かせてふらふらとゲレンデに出て行きます。

「今日の天気だと、スカイラインからの眺めは最高だよね」

と、美穂がマー坊に話しかけます。

「昨日はちょっと曇ってたからな」

と、マー坊。

「そんなにきれいなの?」

と、思わず私。

「うん、下の町や千曲川が一望出来て、その向こうの山々まで、最高の景色」

と、美穂が楽しそうに言います。

「行きたい!」

と、綾が参加。でも、マー坊が、

「ちょっと、綾と純子は早いかな? 一応中級以上のコースやし、ほとんど尾根の上やから両側崖やし」

そう言います。そして、そこから山の上の方を指さして言います。

「あそこに上から降りて来てるコース見えてるやろ? あれの両側が崖になってる感じや」

結構な急斜面で幅の狭いコースです。純子は完全に拒否の顔色。綾はいけるかもと悩んでいる様子。

「あそこみたいに両側が林なら、そんなに怖さはないんやけど、両側崖やと落ちたらどうしようって怖さがあるんや」

と、マー坊が続けます。綾は落ちるという言葉に反応した様子。

「いいわ、お母さんたちだけ行っといで。私は純子ちゃんと遊んでる」

と、少しいじけた様子。

「お母さんもいかへんよ。綾と遊ぶ」

私はそう言いますが、

「私は純子ちゃんと二人で遊びたいの」

と、突っ張ります。気を遣っているのか、いじけているのか。

「じゃあ、お昼まで別行動しよか」

と、純子が綾に言います。

「うん」と、綾。

しょうがないのでそうすることに。マー坊がゲレンデマップで、自分たちはここを降りて、こう帰って来るから、上ノ平ゲレンデ内で滑っててくれたらいい。合流できなかったら、お昼にここの食堂で集合、と打ち合わせ。別行動となりました。綾はさっさと滑り始めたので、慌てて純子が追いかけて行きます。二人を見送ってから私たちはもう一本リフトで上がって、スカイラインコースの入り口に。入り口はやや広いのですが、いきなり狭くなりながら右に曲がり、先が見えません。少しすくんでしまいます。綾もこれを見たら多分降りなかったでしょう。

「止まれるところまで先に行くから、あとから来て」

と、美穂が下り始めます。マー坊も、

「よし、行こう」

と、私に言って続きます。私もスタート。まさに尾根の上、両側は崖です。斜面は急でカーブも多いですが、コブがほとんどなく、それほど怖さはありませんでした。先程のゴンドラの駅が右の方に見えた後、少し下ったところで尾根が大きく左に折れます。その外側、右端に二人が止まっていました。私も横に並びます。美穂が景色をプレゼントしてくれるように、両手を広げます。本当に感動ものの展望です。尾根の天辺なので、後ろの斜面以外はすべて見下ろす格好。正面に目を移すと、宙に浮いているような感覚になります。さっき美穂が言った通り、下の街並みや平地の向こうに千曲川。その向こうにさらに広がる平野部の向こうの山々。そしてそれらはくまなく雪化粧されている。輝くばかりに光って見えます。言葉もなく眺めていました。すると、

「お二人さ~ん、こっち向いて!」

と、後ろから美穂の声。振り返ると、斜面を十メートルほど登ったところでカメラを構えています。マー坊が私の横に近づいて、二人で笑ったところでシャッター音。美穂はするすると戻って来ながら、

「あ、私と正善、ここでまだツーショットないのに、先にかおりさんにツーショット取られた」

と、言います。

「私、撮ったげる。カメラ貸して」

と、受け取って、斜面を登ろうとしますが、うまく上がれません。美穂はこの急斜面をよく上ったなぁと思っていると、

「かおりさん、そこにいて」

と、言って、器用に少しだけ下ったところで止まります。マー坊もその横へ。私はシャッターを押しました。念のため2回。カメラを構えていた時に、私の後ろで何人かが止まるのが分かりました。見ると大学生くらいの若い男の子三人。その中の一人が言います。

「三人並んだところ、ここから撮りましょうか」と。

私はお願いしますとカメラを預けて、二人の横へヨタヨタと移動。並んだところで写真を撮ってもらいました。カメラを私に返すと、彼らは勢いよく下って行きます。私からそのカメラを受け取ると、

「かおりさん、上級者コースでも平気?」

と、美穂が聞きます。

「下るだけなら、何とか、多分」

「じゃあ、途中右側にジャンピングコースの入り口があるから、そっち行って長坂ゲレンデ目指して。はぐれたら、ゴンドラ乗り場集合」

と、マー坊がコース説明。そして、無理しなくてええからなと言って、下り始めます。美穂も続きます。私はもう一度、目の前に広がる景色を眺めました。本当にきれいな景色。明るい光の中、いつまでも眺めていたい気分でした。




平成十七年七月十九日


 私は見慣れぬ部屋で目覚めました。でも、病室だと言うことは分かりました。体も頭もすごく重い。ふわふわした感覚の中、救急車に乗ったことを思い出しました。そっか、入院したんだ。なぜか涙が流れてきます。でも、ボーとしていて何も考えられない。寝ている間も見ていた気がする明るい光に誘われて、左側に頭を向けます。期待した景色ではありませんでした。何を期待したかもわからないのに、なぜか残念な気分。でも窓の外はいい天気でした。そして、窓の前のソファーで、まなみが寝ているのが見えました。見える範囲に時計がなく、時間が分かりません。なんだか目を覚ましているのも面倒な気がしてきます。目を瞑るとそのまま眠ってしまいました。


 テレビの中のキャスターが、六時になりました、と言うのを合図にして、私はマーに電話を掛けました。マーには私から連絡しておくと、まなみに言ってあったので。

『どうした?』

と、おはようとも言わずに、いきなりそう言う正善。私が電話すること自体珍しいのに、ましてこの早朝の時間帯。訝しがるのは当然。

「かおりが夜中に入院した」

私もいきなり本題で返します。

『なんかあったんか?』

「三十八度超えの熱が出て、一人で歩けない状態やった」

『そっか、⋯熱だけか?』

「付き添って行ったまなみからまだ連絡ないから、それ以上は分からん」

『⋯そっか』

しばらくお互いに沈黙。

『午前中で仕事の段取り付けて、そっち行くわ』

そう言い出す正善。ほんまにかおりのことになるとこいつは⋯。

「熱だけかもしれんのに無理すんな。無理してると肝心な時、動けんくなるよ」

と、言ってやります。

『分かってる』

でも、分かってないやろなと、私は思います。

「じゃ、仕事行く用意あるから」と、私。

『純子、ありがとな』

正善のその声を聴きながら、私は電話を切りました。


 私は結局眠れませんでした。母のことを考えながら一夜を明かしました。でも、こんな時でも、お腹は減るものです。適当に朝ご飯を食べました。食べ終えても何をしていいかわからず、落ち着きません。時計は五時五十分を過ぎたくらい。そしてもう我慢できずに、まな姉の携帯に電話を掛けました。すると、居間のソファーからかすかに呼び出し音がします。音の元を探すとクッションの下で発見。まな姉は携帯電話を持たずに出ていました。どうしよう、病院に電話しようか。などと考えていたら、手に持ったままの家の電話が鳴りました。慌てて出るとまな姉でした。

『綾? おはよう、起きてたんだ』

「お母さんは? お母さんは大丈夫?」

私はいきなり聞きます。

『大丈夫、熱が出ただけって。注射打ってもらって、今は点滴しながら寝てる』

「ほんと? 大丈夫?」

『うん、ま、健康とは言えない体だから、普通の人より熱でまいってるだけだって』

「そう、大丈夫なんだ」

私は膝が崩れて、床に座り込んでしまいました。

『綾、ちゃんと学校行くのよ。姉さんには私がついてるから』

まな姉のその言葉に、

「うん、分かってる」

と、私は答えます。電話はそれで切れました。安心したとたんに寝そうになります。私は両手で頬を叩いてから、シャワーを浴びることにしました。


 救急車で運ばれた姉は、救急センターで処置を受けました。その後外が明るくなり始めた頃、病棟の病室に移されました。姉は七階の個室に入りました。七階が担当の先生が診ている病棟のようです。病室に入るとなんだか落ち着いた気分になります。時計が六時に近くなっているのを見て、私は綾に電話することに。ディルームの公衆電話から掛けました。携帯電話は外に出なければ使えないので面倒だったから。家の電話に掛けたのですが、呼び出し音が鳴ってすぐにつながります。心配せず学校に行くように言って切りました。続けて純子さんにも連絡することに。純子さんの番号は覚えていないので、携帯電話を見ようと思いバックを探ります。ありません、携帯電話を持って出ていませんでした。番号案内で自宅番号を調べようかと思いましたが、思いとどまります。体が不自由になってから、駅前のマンション住まいをされている純子さんのご両親ですが、時々帰って来ています。今日が帰って来ている日だと、ちょっとお騒がせな時間。でも、純子さんもそろそろ出勤していく時間。悩んだ末、もう一度自宅に電話します。綾に私の携帯を見てもらって、純子さんや、ついでにマー兄の携帯電話の番号を教えてもらおうと。ですが、綾が電話に出ません。十分空けてもう一度、やはり出ません。姉のことも気になるので、諦めて姉の病室へ戻りました。病室に入ると、担当だと挨拶してくれた看護師さん、関内美優希さんがいました。私と同世代に見えます。

「あ、山中さん。今、お姉さんの体温を計ったら八度三分でした。下がってきていますから、このまま様子を見ますね」

と、言ってくれます。九度三分まで上がった熱。1度下がってくれたと、少しホッとします。

「ありがとうございます」

私はそう答えます。

「山中さん寝ていないんじゃありませんか? すこし休まれた方がいいですよ」

と、関内さんは、微笑んでいるのか、心配そうにしているのか分らない表情で言います。

「分かりました。ありがとうございます」

私はそれしか言えず、ソファーに座りました。

「一時間ごとに様子を見に来ますから」

と言って、関内さんは部屋を出て行きました。私はその姿を見送ったまま、寝てしまいました。


 純子からの電話を切った後、実家へ電話しました。まなみに掛けようと思いましたが、病院内なら出れないはず。向こうから掛かって来るのを待つことにする。結構待たされた後やっとつながる。

『はい、阿部でございます』

「母さん、今いい?」

『なに? 正善? どうしたのこんな朝早く』

この反応はまだ知らない。

「かおりが入院したの知ってる?」

『は? いつ? ほんとに?』

「夜中やったらしいよ。俺もついさっき純子から聞いたばかり」

『え~、どうしちゃったの、急にどっか悪くなったの?』

思ったより慌てないおふくろに、少し安心と頼もしさを感じました。

「八度超える熱を出したらしい。それ以上は、付き添って行ったまなみからの連絡が来んと分らん」

『まなみが付き添ってるのね、綾ちゃんは?』

「あ、そこまで聞いてへん」

『分かった、ちょっと様子見て来る。で、あとで病院も行ってくるから』

「うん、頼むわ。俺も昼からそっち行くから」

そう言うと、おふくろの口調が変わりました。

『こらマー、こっち来ないといけない状態かは、連絡してあげるから。少しはしっかり働きなさい。仕事失くすよ』

怒られました。

「分かってるよ。何とかなる範囲でしか無理せえへんから」

こう言うのが精一杯。

『とにかく、こっちはこっちでちゃんとやるから、信用しなさい』

それだけ言って電話を切られました。全く、⋯頼りにしてます。


 シャワーで眠気を流していると、家の中に誰か入って来た気配がしました。え~なんで? 誰? 玄関の鍵かけてなかったっけ? 私は正直、怯えていました。逃げようにも素っ裸だし。そして脱衣所の戸が開く気配。ほんっとに、どうしよう。と、思ったところに、

「綾ちゃん? お風呂?」

と、おばさんの声。私はへたり込みながら、

「あばさん、驚かさないでよ」

と、何とか言いました。

「ごめんごめん、勝手に入っちゃって」

と言って、戸を閉める音がしました。完全に目が覚めた私は、シャワーを切り上げて出ました。服を着て台所へ出ると、おにぎりが三つ、テーブルに置いてあり、おばさんはコンロにかけた鍋を見ています。

「誰が入って来たんやろうって、本気でびっくりした。心臓止まるかと思った」

私はおばさんに言います。

「ごめんね、玄関叩いても返事ないから寝てると思ったの。それで鍵開けて入ったら、お風呂で音がするから。ほんとにごめんね」

と、言いながらおばさんは、お椀にお味噌汁をよそってテーブルに置いてくれます。

「ううん、いいんだけど、どうして?」と私。

「はい、朝ご飯食べなさい」

「うん、ありがと」

私は席に着きます。さっき適当に食べましたが、おばさんのおにぎりとお味噌汁を見たら、またお腹が減ってきました。私が食べ始めると、

「それで、まなみから連絡あった?」

と、おばさんが聞いてきます。

「あ、ちょっと前に。熱でまいっただけだって言ってた」

なんでおばさんが母の入院を知っているのか、疑問にも思わず答えました。

「そう、表に車あったけど、救急車呼んだの? 全然気づかなかった」

「サイレンとか消して来てくれたから、救急車。おばさんなんで知ってるの?」

私は初めて聞きました。

「正善から電話あったの、知ってるかって」

マー兄はなんで知ったんだろう。まな姉が電話したのかな。でも、まな姉の携帯ここだし。そこで思いつきました。

「おばさん、お母さんの病院行く?」

「うん、あとで行こうと思ってる」

私はソファーの所へ行き、まな姉の携帯を持って戻りました。そして、

「まな姉、これ忘れて行ったから、渡してもらえます?」

と言って、携帯電話を差し出します。

「いいけど、他には? 入院に必要なものとか持って行ってないでしょ」

おばさんは受け取りながらそう言います。

「とりあえずの着替えとかは鞄に詰めてたけど。少しだけ」

「そ、とりあえず病院で会って、いるものあれば戻ってくればいいか」

おばさんはそう言いながら時計を見て、

「そろそろ急がないと遅刻じゃない?」

と、言いました。


 人の気配で私は目が覚めました。顔を上げると、関内さんが姉の横にいました。1時間寝ちゃったかと時計を見ると、九時でした。三時間も寝てた。

「おはようございます。お姉さん、七度九分まで下がりましたよ」

と、関内さん。

「あ、すみません、寝ちゃってて」

「いいえ、気にしないでください。八時に先生が診られて、風邪をひいたんじゃないかとおっしゃってました」

その関内さんの言葉に、私は恥ずかしくなりました。

「先生が診てくださってる横で、私寝てたんですか」

関内さんは少し微笑んで、

「だから気にしないでください。先生も起こさないように、ひそひそしゃべってましたから」

そう言います。

「⋯恥ずかしい」

私はそう言いながら立ち上がって、関内さんとは反対側のベッド横に。

「十時から別の先生の回診がありますから、その時にまた来ますね」

と言って、関内さんは離れようとします。

「関内さん、夜中からいましたよね。そのまま勤務ですか?」

そんな関内さんに私は話しかけました。

「ええ、今日は通しです。ですから、今夜はいません。ごめんなさい」

関内さんはそう言って出て行きました。

 関内さんがいなくなってしばらくすると、また扉が開きました。見ると、阿部のお母さんでした。

「お母さん、来てくれた。ありがと」

私は顔を見ただけで、なんだかホッとしました。

「おはようまなみ。あんた寝たの? 大丈夫?」

お母さんはそう言いながら入って来て、さっきまで関内さんがいたベッド横に立ちます。

「うん、ここで何時間か寝たから」

「かおり、落ち着いた顔してる。大丈夫そうね」

姉の寝顔を見ながらそう言います。そして、持って来た大きな紙袋を私に差し出しました。

「あんたの着替え、適当に入れてきた。それと化粧品とか。綾ちゃんに聞いたら、あんたかおりの用意しかしてなかったって言うから」

「ありがと、助かる」

私はそう言って受け取ります。

「それとこれ、携帯と、車の鍵。ここまであんたの車乗って来たから」

自分の鞄から取り出して渡してくれます。

「あ、携帯の充電器も袋に入ってる。綾ちゃんが持ってけって言うから」

「ありがと、綾は? 学校行った?」

「行ったよ。渋るかと思ったら全然そんなことなかった」

「そっか、良かった。お母さんは綾から聞いたの? 姉さんのこと」

「ううん、朝一番で正善から電話掛かって来た。正善は純子ちゃんから聞いたって言ってた」

「そっか、純子さん電話してくれたんだ」

私は携帯電話を確認すると、五時四十八分に純子さんから着信がありました。掛け直そうかと思いましたが、仕事中であるのが分かっているので止めます。夕方掛けることにします。私はせっかく持って来てもらった化粧道具を使うことに。昨夜シャワーの後に、化粧水をぬっただけでした。お母さんは部屋に備え付けの小さなタンスに、姉の着替えやタオルを入れていました。それを見て、私は洗面所へ。この個室には、トイレと洗面所がありました。顔を洗ってタオルで拭いていると声が聞こえます。

「おはよう、かおり。気分は?」

「おかあさん。おはよう」

小さ目ですが、姉の声がします。私はタオルを持ったまま部屋へ。

「姉さん、大丈夫? 気分は?」

姉はお母さんに向けていた目線を私の方へ。

「まなみ、ちょっとまだ、ぼんやりしてる」

そのまんま、だるそうです。

「まだ熱が下がり切ってないから。苦しいところとかない?」

私は聞きます。

「うん、大丈夫。お腹、減ったかも」

そう言う姉を見て、私とお母さんは少し吹き出しました。時計は九時半を過ぎています。

「あと三十分くらいで先生の回診が始まるみたいやから、その時に何か食べてもいいか聞いてみよ」

と私。姉は微笑んで小さく頷きます。声を出すのは疲れるのかな。でも安心しました。大丈夫そう。食欲もある。以前先生から、食欲がなくなると、見る間に衰弱すると言われました。なので私は、勝手にまだまだ大丈夫だと思いました。


 今日、明日は元々塾の予定がなかったため、学校が終わるとすぐに病院へ向かいました。と言っても、終業式前日の今日も、火曜日は7時間目まであったので、病院に着いたのは六時前でした。病院の正面入り口まで来ると自動ドアの脇でマー兄が、携帯電話で話ているのに気付きました。様子をうかがっていると、電話を切ったマー兄と目が合いました。

「マー兄、また来たんだ。仕事大丈夫なん?」

私が挨拶もなしにそう言うと、弱ったような顔をしながら、

「みんな同じこと言うなぁ。とりあえず仕事片付けて来たし、今夜は帰るし」

そう言いながら一緒に中に入ります。

「熱出しただけみたいやから、大丈夫そうやよ。お母さん」

「うん、俺もまなみからそう聞いてる」

「だったら無理して来なくてもええのに」

「ひどい、厄介者みたいに言わんといてや」

そんなことを話しながらマー兄は、まっすぐエレベーター前に来てボタンを押します。

「お母さんの病室、何階か聞いてるの?」

私はそこまで聞いていなかったので尋ねます。

「うん、七階って聞いてる」

と、マー兄。私たちはエレベーターで七階へ上がり、病室へ向かいました。病室に入ると母が起きていましたが、他には誰もいません。母はベッドの背を起こして座り、窓の外を見ていました。私たちに気付いてこっちを向きます。

「お母さん、起きてていいの?」

と、私が声を掛けます。

「うん、もうすぐ夕食だから待ってるの」

と言い、私を手招きします。

「なに?」と、言いながら母の横へ行くと、

「ごめんね、心配かけて」

と、私の手を取って言います。マー兄はベッドの足側に立って、

「夕食が待ち遠しいほど元気があるんか」

と、言います。

「うん、もう気分も大分いいし。マー坊もごめんね、仕事あるでしょ? そんなに心配してくれなくていいよ」

「気分がいいのはええけど、熱は? 下がったんか?」

「うん、昼過ぎには七度以下になったから」

「そっか、良かった」

やっと安心したようで、マー兄はソファーに座りました。

「まな姉は? 帰ったの?」

私は母に聞きます。

「電話してくるって出て行った」

と、母が答えてる最中にまな姉が帰って来ました。なんだか息を切らしています。

「あ、綾来たんだ。マー兄も」

病室に入って来たまな姉がそう言います。

「どうしたの?」と、私。

「なにが?」

「息、切れてる」

「ああ、階段使ったから、ちょっと。大丈夫」

「階段で上がって来たんか」

と、マー兄が口を挟みます。

「違う違う、屋上。ここ九階の上、屋上庭園って書いてあったから出れるんだと思って。エレベーター、むっちゃ遅いでしょ。七階からなら階段で屋上行った方が早い」

そう言うまな姉。確かに、この病院のエレベーターは遅いなと、私も思っていました。

「階段でも三フロア降りて来ただけでそれは、運動不足過ぎちゃうか」

と、笑いながらマー兄が言います。

「夕食来る頃やったから、走ったの」

と、言うまな姉の言葉を待っていたように、夕食が運ばれてきました。

「ほら」

と、まな姉。みんな笑いました。


 運ばれてきた夕食を前にして、

「えーと、三人に見られてると食べにくいんやけど」

と、姉が言います。

「あ、じゃあ、私たちは売店になんか買いに行こうか」

と、私が言うと、

「そうやな」

と、マー兄が同意。三人で病室を出ようとすると、

「みんないなくなったら寂しいやん」と、姉。

「わがままやなぁ、綾、話相手したって」

と、綾を残して、私とマー兄は病室を出ました。エレベーターで下におりますが、人が多いので会話なく売店まで。特に買うものもなかったので、適当にペットボトルの飲み物を買って出ました。どこか話をするところを探しますが、まだ外来の診察をしている時間なのでどこも人がいっぱい。私は屋上庭園を思い出し、エレベーターで屋上まで上がります。屋上庭園と言っても、屋上の半分くらいをフェンスで仕切ってあり、その部分だけウッドデッキが張られ、ベンチが何か所かあるだけ。あ、申し訳程度の花壇もありました。屋上にはさっきの私のように、携帯電話を使いに来た人が数人いるだけで、がらんとしています。私たちはベンチの一つに腰掛けました。

「今日は来ることなかったのに」

私は言いました。

「ま、ええやん。そんな無理してるわけやないから」

マー兄はそう答えます。

「そ、ならいいけど」

「すぐ退院出来そうなんか?」

「う~ん、先生はまだ何とも。ついでにいろいろ検査して、様子見させてくださいって」

「そっか、どうしよっかなぁ」

マー兄がうかない顔で言います。

「なんかあった?」

私は聞きます。

「今日、優子から電話掛かって来たんや。慶子から聞いたかおりの携帯がつながらんからって」

「あ、姉さんの携帯、家に置きっぱなしやわ」

「そやろなぁ、俺もそう思ってそう言った。入院したことも話して」

「うん」

「そしたら、今週末来るって言うんや、例の彩子さんと一緒に」

「うん」

「だから、週末なら退院してるんとちゃうかって言うてもうた」

「う~ん、ええんちゃう? 私も週末なら退院してると思うし」

「だよなぁ。ま、万が一長引いてまだ入院中なら、ここに見舞いに来てもらったらええし」

「そやね」

この時はまだ、そんな気楽な会話が出来ていました。


 まな姉たちが病室から出て行った後、食事中の母と明日からの夏休みの事なんかを話していました。明後日は模試だと言うと、もう帰って勉強しろとか言われました。母が食事を終えた頃、先生が見えました。少し食べきれずに残しているのを見て、もういいんですか? と聞く先生の顔がなんとなく違って見えました。最近の小食の母を見慣れているので気になりませんでしたが、やはりおかしいのかなと、少し不安になりました。先生は気分は? など少し問診した後、また熱が出るといけないので、今夜はまだ安静にしてくださいと言って出て行きました。先生と入れ違うように純子さんが入って来ました。

「こんばんは、調子どう?」

と、純子さん。

「あ、純子まで来てくれた。夜はありがとね」

と、母はなぜだか照れたような笑み。

「まなから心配なさそうとは聞いてたけど、元気そうな顔見て安心した」

そう言ってつかつかと、窓の方へ行きます。そして窓の外を見ている純子さんに、

「何か見えるの?」

と、私は声をかけながら、純子さんの見ている方を見ますが、特に何もありません。

「七階と言っても景色はこんなもんか」

と、純子さん。私は少し脱力。

「まなは? 家帰ってるの?」

純子さんは外を見たまま言います。

「ううん、マー坊と売店行ったけど。ちょっと遅いね」と、母。

「結局マーは来たんだ」

「六時くらいかな?、来てくれた」

「そっか」

と、言ってこちらを振り返る純子さん。そしてこう言います。

「晩ご飯食べたいから、帰るね」

「まなみもマー坊も車だから、一緒に帰ったら?」

そう言う母に、

「駅に自転車置いてるから、電車で帰る」

純子さんはそう言うと、戸口に向かいながら、じゃねと、母と私に小さく手を振って出て行きました。

「相変わらずマイペースな奴」

と、母がおかしそうに言います。

「うん、私は時々苦手」と、私。

「そう? あんた純子のこと、純子ちゃんて呼んでなついてたのに」

「そんなん、子供のころの話でしょ」

「純子はなんか冷めた感じに見えるけど、それは照れ屋だから。本当はすごく優しくて友達思いなんだよ」

「照れ屋って」

私は少し吹き出しました。

「そ、照れ屋。もうちょっと素直になればいいんやけど」

「純子さんの方が子供みたい」

「だね」二人で笑いました。

しばらくするとまな姉とマー兄が帰って来ました。純子さんが来ていたことを聞くと、で、もう帰ったんか、とマー兄が呆れるように言いました。マー兄は面会時間が終わるまでここにいて、実家に寄らずに名古屋に帰ると言います。なので、私とまな姉は母の話し相手をマー兄に任せて、今夜は帰ることにしました。


 綾とまなみが帰った後、マー坊はソファーに座ってから話し始めました。

「優子と彩子さん、週末にこっち来るって」

「ほんと?」

「うん、そう言うてた」

「そっか、楽しみ」

彩子とは十九年ぶり。会えると思っただけでわくわくしてきます。

「週末って、今週土曜はちょっと仕事抜けれんなぁ」

と、マー坊が残念そうに言います。

「もう、無理して来ないでよ。この前の美穂の話やないけど、マー坊仕事大丈夫かなって、ちょっと気になってんだよ」

私はちょっと口を尖らせて言います。

「無理してるってほど、無理してへんって」

「ほんとに?」

「いや、俺も会えるもんなら優子と会いたいし、彩子さんとも会いたいと思ってるんや」

「彩子、旦那いるよ。アメリカ人の」

「何の話してるんや」

「あ~、なんかがっかりしてる」

「あほ」

そう言って笑い合っているところに看護師さんが入って来て、二人慌てて黙ります。お話し中にごめんなさいと、気を遣いながら、私の体温を測ると出て行きました。昼間、担当しますと挨拶してくれた関内さんより、少し若く見える看護師さんでした。告げられた体温は六度七分。まあ、平熱よりは少し高めかなって感じです。

「週末、家におれるとええな」

看護師さんが来てから窓辺に立って、外を見ていたマー坊がそのまま言います。私も外の景色に目がいきます。やっと暗くなってきた空でした。

「そうだね」

なんとなく上の空で答えます。しばらく二人とも無言でした。

「野沢温泉、行きたかったなぁ」

私は独り言のように言います。

「⋯体調戻ったら行けるよ」

マー坊はそう言ってくれます。

「なんかね、熱出して寝てる間。野沢温泉行った時のこと、夢で見てたような気がするの。尾根の上から見下ろしたあの景色を、夢でもう一度見てた気がするの」

私は窓の外を眺めたままそう言いました。マー坊は途中で私の方に振り向いていました。そして、

「ほんまに行きたそうやなぁ。大丈夫、連れてったるから」

そう言ってくれます。私はマー坊に視線を移して言います。

「うん、お願いね」

その後、野沢温泉に言った時の思い出話等をしているうちに、また廊下が暗くなり、マー坊は帰って行きました。




平成十七年七月二十三日


 私は姉の病室で目覚めました。姉は一昨日、手術しました。入院二日目の朝、目が濁っていました。白目の部分がなんだかクリーム色に。先生が診ると、薬で抑えていただけで承知していた様子。膵臓を通って腸につながる、分泌液が流れる管。それが周囲の腫れで狭くなり、流れが悪くなって起こっている症状と。その管に人工的な管を入れて、流れを良くすれば解消すると。その手術を一昨日の朝、受けました。手術はすぐに終わりましたが、痛みがあるようです。ずっと鎮痛剤を与えられ、姉はずっと寝ていました。私は傍にいても何も出来ないのですが、帰る気になれず、病室に泊まりました。ガラス一枚分開けていた窓のカーテン。そこからの光で目覚めた私。まだ五時でした。姉は苦しそうな顔もせずに寝ています。少し安心。私は顔を洗ってから簡単に化粧を済ますと病室を出ました。お腹が減っていたのです。食堂も売店もまだ開いていないので、外のコンビニまで。ナースステーションの横を通るときに、関内さんと目が合いました。ちょっと出てきますと声をかけると、はいと、返事が帰って来ます。


 運ばれてきた昼食を姉が食べている横で、コンビニで朝買ってきたサンドイッチを、私は食べていました。朝食の時も思いましたが、術後のせいなのか、姉の食事はとても少量です。あっという間に食べ終わった姉が、私のサンドイッチを恨めし気な目で見ています。

「一つ食べる? って言いたいけど、ダメだからね」

「分かってる、目で味わってるだけ」

「そんなこと言われると、味がしないんですけど」

私がそう言うと、姉は起こしたベッドに背を預け、

「まなみのお粥はおいしかったけど、ここのお粥は味気ない」

と、漏らします。

「手術したとこ、もう痛みはない?」

私は聞きます。

「う~ん、違和感はある気がするけど、よくわかんない。痛みはないよ、今は」

そう言って姉はテレビを付けて見始めます。私は食事の後を片付けてから、ソファーの小さなテーブルにノートパソコンを置いて仕事開始。数日前からこの病室ではこんな形で過ごしています。事務所に外出先で使う用のモバイルルータがあったので、一つ借り受け。おかげでここでもネット接続OK。携帯電話は院内禁止なのですが、何も言われません。アンテナがあるわけではないので、通信機器だとは思われていないのかも。そうして三十分ほどしたころ、扉がノックされました。私が、はい、と返事をすると、扉が控えめなスピードで開いていきます。そこから覗いた顔と目が合いました。

「失礼します。あの、道柳と言いますけど」

と、言いながら一歩入ってきます。うん、確かに双子だ。先日会った慶子さんとそっくり。今日来ることになっていた、優子さんだとわかりました。と言うことは、後ろに立っている、スラっとした人が彩子さんなのでしょう。短大時代の姉の親友と言うことだったので、一度くらい会ったことがあるかと思いましたが、見覚えがありません。でも、若い。若く見える。優子さんが姉と同級生と言うのは頷けますが、彩子さんと思われる人は、私と同級生と言われても頷ける感じです。

「あ、はい、優子さんですね。どうぞ」

と私は、腰を浮かせながらそう言って招き入れます。そう言われて入って来る優子さんに続いて、彩子さんらしき人も、失礼しますと言いながら入ってきます。姉は優子さんの声を聴いた時点でテレビを消して待っていました。

「優ちゃん、ありがと来てくれて」

と嬉しそう。そして、優子さんが何か言う前に、

「彩子、会いたかった」

と、彩子さんの方に両手を差し出します。彩子さんも歩み寄り、姉の手を取りながら、

「私も会いたかった。本当に」

と、言います。私は二人に折り畳みの椅子を差し出しながら、

「妹のまなみです。どうぞ座ってください」と挨拶。すると、

「やっぱりなみちゃんか。久しぶり、私のこと覚えてへんよね」

と、優子さん。なみちゃんと呼ぶ人は少ないので、なんとなく思い出せそうで、無理でした。

「ごめんなさい。ちょっと思い出せないです」

「ええよええよ、ずいぶん久しぶりやもん、私だってここじゃなかったら絶対に分らんかったし」

と言う、優子さんに続いて、

「初めまして、渡辺彩子と言います。かおりさんとは短大で一緒でした」

と、丁寧な挨拶をする彩子さん。私が返事をしようと思ったら、先に姉が声をあげます。

「渡辺? なんで? え?」

その声に彩子さんは、私に少しお辞儀をした後、姉の方を向いて、

「去年の夏に離婚したの」

と、言います。

「そうだったんだ。それで日本に帰って来たの?」

「まあね。本当は向こうで仕事探すつもりだったんだけど、子供引き取ったし、なかなかね。で、年末に帰って来たの。連絡しなくてごめんね」

そう言いながら彩子さんは椅子に座ります。優子さんも。

「今は東京なの? 実家には戻れなかった?」

と、姉の質問。

「実家が東京に引っ越してたの。と言っても、実家に住んでるわけじゃないけど」

と、彩子さんが言うと、

「彩子が今住んでるところ、私のとこから近いよ。船橋だから」

と、優子さん。

「実家は東京と言っても都心から遠いところだから不便で。今の職場は東陽町ってところにあるから」

「地名はよくわかんないけど、職場に行きやすいところに住んでるってことね。子供引き取ったってことは一緒にだよね。綾と十個違うんだっけ、メイちゃん」と、姉。

「当然、めいも一緒。めいは八歳、今2年生。綾ちゃんと十個違うのかな?」

「言葉大丈夫だった? メイちゃん日本初めてでしょ」

と言う姉の質問に、

「それが初めて会った時からとりあえずは話せるの、日本語。びっくりしたよ」

と、優子さんが答えます。そして彩子さんが補足。

「私、職場結婚だったでしょ。だから旦那も同じ日本の会社だったの。で、日本の本社に来るつもりで、家では出来るだけ日本語使ってくれって言われてた。だからめいも日本語話してたの。まわりにも同じ会社の日本人家族が何軒かいたから、そこの子供たちともほとんど日本語だったし。逆に英語が怪しくならないかなって、旦那がいないときはめいと英語で話してたくらい」

そう言って笑いますが、

「でも、字は全然だめ。三学期は日本の小学校行ったんだけど、字が読めないから少しからかわれてるみたいで、落ち込んでる。名前が日本人でも通用する読みだったのは救いかも」

と、続けました。私は居場所がなかったので、会話の間に仕事道具をまとめていました。そして彩子さんの話が終わったタイミングで、ちょっと出て来るねと、姉に声をかけて病室を出ました。


 私はディルームで仕事をしていました。一時間くらいしたころ、関内さんがやって来て隣に座りました。

「お仕事ですか?」

と、ノートパソコンの画面をチラッと見ながら関内さん。

「ごめんなさい、こんなところで」と私。

「いいですよ。誰もいないですし」

「ありがとうございます。関内さんは休憩?」

「いえ、今日はもう上がりです。本当は朝の引継ぎで上がりだったんですが、日勤の方が一人休んじゃったので、今までお手伝いしてました」

「お疲れさまでした」

「ありがとうございます。山中さんは、⋯まなみさんって呼んでもいいですか? 病室ではお姉さんも山中さんなので」

「はい、いいですよ」

「では、私の事も美優希でいいですよ」

「分かりました。美優希さん」

私がそう言うと、二人顔を見合わせて少し笑いました。

「まなみさん、お仕事はいつもご自宅で? ずっとお姉さんについて見えるから」

「そう言うわけではないんですが、たまたま今は、これがあれば出来る仕事ばかりなので」

と言って、私はノートパソコンを指します。

「すごいですね、私はパソコンとか苦手で。電子カルテとかになってきてるので、覚えなきゃいけないんだけどなかなか⋯」

「私も普段使ってる機能と言うか、ソフトしかわからないですよ」

「でもなんだか尊敬しちゃいます」

「こんなの大したことないですよ。看護師さんの仕事の方がよっぽどすごいですよ」

「ありがとうございます」

「美優希さんっておいくつですか?」

私は美優希さんの方に向き直って聞きました。

「えー、何でですか?」

「いえ、単においくつくらいかなって。私は三十二です」

「あ、私の方がちょっと年上ですね。三十五ですけど、今年六になります」

「四つも上だったんだ。同い年くらいに思ってました」

「四つも、はやめてください」

と言って美優希さんは笑います。

「同い年にしといてください」

「じゃあ、旦那さんとかお子さんもみえるんですか?」

「いえ、仕事のせいにしてはいけないんですけど、いろいろ不規則な生活なので、いまだに独身です」

「そうですか。その気になればすぐにいい人見つかりそうだけど。ま、私も人のこと言えませんけどね」

そう言って二人で笑った後、お仕事の邪魔してすみませんでしたと言って、美優希さんは立ち去りました。

 私はその後、特にすることもなくなったのですが、ディルームで時間をつぶしていました。ディルームはエレベーターホールに面しているので、二人が帰るときは分かるはずでした。そして、二人が現れました。私は席を立ってエレベーターホールへ。

「来ていただいて、ありがとうございました」

と、二人に頭を下げました。

「やめてやめて、私たちがかおりに会いたくて来たんだから。こっちこそなみちゃんを追い出したみたいでごめんなさい」

と、優子さんが言います。そして、

「私は明日、子供たちの用事があるから帰っちゃうけど、彩子は明日も顔見に来るって言うからよろしくね」

と、続けました。優子さんの目はなんだか赤かったです。そう思って見ると、彩子さんの目も。私は気付かないことにします。

「そうですか。渡辺さんは、今夜はこっちにお泊りですか?」

私は彩子さんにそう言いました。

「はい。今夜はこっちの友人何人かと食事する約束してますから」

「あの、良かったらうちに泊まってください」

私はそう言いましたが、

「ありがとう。でも、もうホテル予約してるので」

と、断られました。優子さんが私に寄り添うように近づいて言います。

「なみちゃん。大変だとは思うけど、お姉さんの傍にいてあげてね。お願いね。私もまた来れるようにするから。お願いね」

真剣な顔で。その表情を見ると、私も涙腺が危ない。

「はい。ありがとうございます」

到着したエレベーターに二人が乗り込み、そこで別れました。


平成十七年七月二十四日


 ちょっとゆっくり目の十時過ぎに、かおりの病室に来ました。まなみは俺の顔を見るなり、ちょっと外まで買い物に行ってくるからよろしくと、出て行きました。かおりは寝たところなので起こすなと言われ、やることもなし。言われなければ起こしたというわけではないけど。しょうがないのでソファーに座ってと思ったところで、ノックする音が聞こえました。はいと返事すると、

「あ、渡辺と申しますが、よろしいですか?」

と、女性の落ち着いた声。どうぞと答えると扉が開いて、きっちりした身なりの細身の女性が入って来ました。俺より少し若いかなと感じました。彼女は男性がいることにちょっと戸惑ったようですが、数歩近づいてきて、

「かおりさんの友人の渡辺と申します」

と、丁寧な挨拶をしてくれます。ソファーでくつろいでいるように見えたのか、かおりの身内のものと間違われた様子。俺は慌てて立ち上がって、

「僕は家族ではないです。僕もかおりの友人で阿部と言います」

と、頭を下げました。そして、

「あいにく、かおりは少し前に寝てしまったようです」

と、告げました。彼女はもう数歩入ってベッドで寝ているかおりを見てから。

「阿部さん。失礼ですが、マー坊さんですか?」

と、こっちを見て言います。

「はい、え?」

なんと言えばいいか言葉を探している俺より先に、

「かおりから何度も、マー坊って名前は聞いています。そうですか、あなたがマー坊。一度会ってみたかったんです」

渡辺さんはそう言います。俺は思い当たって、

「ひょっとして、彩子さんですか?」

と、聞いてみます。

「はい。あれ? 私の事聞いてるんですか?」

と、ちょっと驚いた顔。

「大親友だと聞いてますよ」

「そんな、大親友だなんて」

「いや、綾の恩人だと聞いてますよ」

その言葉に彩子さんの笑顔が消えました。なんでそのことを知ってるんだと言う顔です。俺はソファーの奥に折り畳みの椅子を出し、それに座りながら彩子さんにソファーを手で勧めました。彩子さんはかおりの顔をしばらく見てからソファーに座ります。

「かおりが話したんですね」

「最近ですけど、聞きました」

「そうですか。でも、私はかおりの相談に乗っただけ。恩人なんてことはありません」

彩子さんは目を合わさずそう言います。

「彩子さんがいなければ、綾を産んでいなかったと言ってましたよ」

「そんな」

「だからあなたの名前をもらって、綾と名付けたと」

「え?」

彩子さんは驚いた顔でこちらを見ました。でも、すぐに俯いてしまいます。何か思いを巡らしている様子。

「私は自分が後悔したことを、かおりにして欲しくなかっただけです」

そう言うと、かおりの方をしばらく見てから、こちらに顔を向けます。でも目が合ったと思ったらすぐに、また俯いてしまいます。俺も言葉が出ません。自分が後悔したことと言った。それは彩子さんの後悔。何を言ってるのか、分かりませんでした。やがて彩子さんは静かに息を吐くように、

「私は、高三の時に、堕したんです」

ゆっくりとそう言いました。

「え!」

思ってもいなかった話に驚き、声が出ます。

「このことは、かおりも知りません」

「⋯⋯」

「産むことが出来なかった。いえ、そんなこと考えてさえいなかった。妊娠が分かった瞬間、堕すことしか思いつかなかった」

「⋯⋯」

「親も、私に失望しながらもそれに同意しました。多分、世間体があったから。それに、妊娠が分かったのは夏休み直前だったので、夏休み中にすべて処理できる。そうすれば周りにも、学校にも知られずに済む。ずるいですよね」

「⋯⋯」

「そして簡単に、生まれた命を消してしまいました」

「⋯⋯」

嫌なことを思い出しながら話してくれる彩子さんに掛ける言葉は、俺にはありませんでした。でも彩子さんは、何か歯止めが外れたように一気に話し始めました。

「私はずっと後悔していました。短大で楽しい時を過ごすようになると尚更。辛かった。そんな時に知り合ったかおり。かおりはみんなと違っていた。人との接し方が暖かかった。そんなかおりに私は癒された。かおりのおかげで前を見る気になった」

そこで俺は、ちょうど横にあった冷蔵庫からペットボトルのお茶を二本取り出し、一本を彼女に手渡しました。少し頭を下げてそれを受け取った彼女はふたを開けながら、

「私、かおりを引っ叩いたんですよ。あの時」

そう言うと、一口お茶を飲みます。

「私を前に向かせてくれたかおりが、私と同じことをすると言ったから。腹が立って。ううん、悲しくなって」

また一口。

「だから、私の思いを何度もかおりに聞かせた。消してしまった命に会いたくなること。そして、そう思えば思うほど、命を消してしまったことへの罪悪感が大きくなること。後悔の思いが強くなること」

「⋯⋯」

俺にはやはり、掛けるべき言葉がありません。気付くと、彩子さんがこちらをまた見ていました。責めるような目で。

「救われたのは私です。かおりが産むと言った時、そう約束してくれた時、私は安堵したんです。かおりのことでではなく、自分本位なことで。かおりが産む気になったことで、自分が犯した罪の贖罪が出来たと」

そう言ってまたうつむく彩子さん。

「だから、私は恩人でも何でもない」

力なくそう言って、口を閉じました。俺は相変わらず言葉を探していました。すると、

「そんなことない」

と、かおりの声。俺はベッドの方へ顔を向けました。でも、彩子さんははじかれたように立ち上がり、かおりの方を見ます。

「私は彩子のおかげで綾に会えた。それが事実」

かおりはそう言います。俺も立ち上がってかおりを見ます。その顔は予想に反して怒っているようでした。まっすぐに彩子さんを見て。彩子さんは何も言えない様子。

「彩子が自分本位と言うなら私も同じ。私は彩子がいなければ綾と会えてないだろうし、今言ってた彩子と同じ後悔に沈んでた。彩子がいたから綾に会えたし、綾がいる今が幸せ。そのことに彩子の気持ちは関係ない。私の思いだけ」

彩子さんはベッドの横へ。かおりは体を起こし、そんな彩子さんへ向ける顔を和らげて、

「彩子がどんな思いであったにせよ、おかげで私が綾に会えたと言うことが事実。だから恩人なの。感謝してる。本当に」

そう言いました。

「かおり、ありがとう」

「それは私のセリフ。彩子が日本を離れたから、ずっと言えなかった」

かおりはそこで一呼吸空けてから、

「彩子、綾に会わせてくれてありがとう」

と、優しい声で言いました。ただ、その時の二人の表情は分かりません。ここからは二人にするべきだと思い、俺はそっと扉を開けて出て行くところだったから。


 病室を出た俺は、ディルームで彩子さんが帰るまで待つつもりでした。病室から手に持ったままのお茶を飲みます。何もしゃべっていないのに、喉がカラカラでした。一息ついてしばらくしたころ、看護師さんに連れられた患者さんの家族と思われる方々がやって来ました。何やら真面目な話を始めたようなので、退散します。どこに行こうかとエレベーターホールで階ごとの案内表示に目がいった時に、屋上を思いつきました。階段で上がり、建屋から屋上に出て後悔。結構風があってそれなりに涼しいのですが、それ以上に真夏の太陽が強烈。戻ろうとした時に、建屋の北側に大きな庇があるのに気付きます。そちらに行ってみると、その大きな庇の下にもベンチがありました。風も抜けていて、日陰は快適と言っていい状況。そこに落ち着くことに。特に見る物もない景色を、膝に肘を置き、ペットボトルを握りしめた格好で見ていました。いや、見てはいません。目線がそっちにあっただけ。俺の頭には彩子さんのことがありました。スッキリ、スラっとした佇まい。きれいな整った顔。落ちついた話し方。それはおそらく、最近身に付いたものではないだろう。そう言う育ちであったのでしょう。お嬢様学校として知られる女子短大から、渡米留学。そのまま向こうで就職。庶民の家で育った俺から見れば、いいとこのお嬢様そのもの。そんな彼女が高校時代にあんな経験をして、辛い思いを抱えて青春時代を過ごしていた。俺の狭く浅い経験からでは共感すら出来ない。そんな俺に、初対面のそんな男に、あんなことを話させてしまった。親友であるかおりにさえ話さずにいたことを、話させてしまった。悪いことをした思いでいました。そんな今更なことを、何度も頭の中で巡らせている。結構な時間、そうしていたと思います。汗ばんだシャツの感触で、なんとなく思考が戻って来ました。だから、かなり本気で驚きました。体を起こしてお茶を飲もうとした時に、横から姿を現した彼女に。

「まなみさんの言った通り。屋上でしたね」

赤い目をした彩子さんでした。

「まなみが?」

「はい。さっきまなみさんが戻られました。三人で少しお話して、失礼しようとしたんです。でも、阿部さんにも声をかけようと思ったのですが姿が見えないので、まなみさんにお聞きしたら屋上かも知れないと」

「そうですか。では今から東京に?」

「はい。実家に娘を預けて来ているので、迎えに行かないといけませんから」

そう言ってから、

「帰る前にもう少し、お話しさせていただいてもいいですか?」

と、こちらを窺います。

「はい、もちろん」

俺はベンチの端に寄ってスペースを空けます。彼女は空いたスペースに腰掛けてから、

「先程は、恥ずかしい話を聞かせてしまってすみません」

と、少し頭を下げます。

「いえ僕の方こそ、話さなくていいことを話させてしまったようで、申し訳なかったです」

同じく少し頭を下げます。お互いに直ってから、彩子さんは真面目な顔で言います。

「いえ、話さなければならなかったんです」

「⋯⋯」

「あの時、私がかおりにしたことの根底に何があったのか、かおりには本当のことを言わなければいけなかった。でも、ずっと言えませんでした」

「⋯⋯」

俺はまた、黙って聞くだけです。まっすぐ前を見て話していた彩子さんがこちらを向きます。

「阿部さんには感謝しています」

「え? 僕に?」

真面目な顔と口調で、しかもこんな美人から感謝してるなんて言われて、俺は慌てました。思わず変な声になってしまう。

「⋯? 話すきっかけを下さったから」

俺の慌てたような様子に怪訝な顔を一瞬したのち、また真面目な口調でそう言う彩子さん。

「⋯きっかけ?」

何がきっかけだったか慎重に思い出そうとしたけれど思い浮かばず、そんな言葉が口から出ました。

「こんな私の名前から、綾と名付けたなんて聞かされたから」

「なら、僕でなくてもいずれ⋯」

「かもしれません。でも、教えてくれたのは阿部さんでした」

「⋯⋯」

「かおりにあのことを言わずにいるのは嫌だったんです。特にこんな⋯⋯」

言葉を止めて、彩子さんは俯いてしまいました。

「⋯言わずに、お別れするなんて、嫌だったんです」

俯いたまま、そう言葉を漏らしました。

「⋯良かったですね、話せて」

俺は少し間を開けてからそう言いました。

「はい、ありがとうございました」

彩子さんは俯いたままそう言ってくれました。しばらくそのまま座っていました。やがて顔を上げた彩子さんがこちらを見て言います。

「阿部さんって、かおりの何ですか?」

突然の質問。

「⋯弟です」

答えあぐねた俺は、この前親父に言われたことを言いました。

「え?」

「冗談です。でも、子供の頃から兄弟のように育ったので、友達って感覚ではないし、彼氏ではないし、なら弟かなと」

驚いた顔から、やや納得したような顔に変わる彩子さん。

「弟ですか。⋯兄ではなく?」

「僕としては兄と言いたいところですが、うちの親父からは、僕の方が弟だと言われています」

くすっと笑う彩子さん。

「そうですか」

「ま、親友って言っておくのがいいかもです」

彩子さんは少しの間俺の顔を見てからこう言います。

「私とかおりも親友なので、私と阿部さんも、きっと親友になれますね」

そして、右手を差し出しながらこう続けます。

「これからよろしく、阿部君」

俺は苦笑(照れ笑い)しながら、ズボンで掌の汗を拭いてからその手を握ります。

「こちらこそ、よろしく」


 もうしばらく話をしてから、彩子さんは帰ると言い出しました。なので俺は病室に戻ることに。彩子さんも、もう一度かおりの顔を見てから帰ると。二人で階段を下りました。階段を下りている途中でポケットの中の携帯電話が震え出します。

「すみません。電話掛かって来たので僕はここで」

俺は体の向きを変えながら彩子さんにそう言いました。

「そうですか。では、ここで。またかおりの顔見に来ますから、その時に」

彩子さんはそう言うと軽く頭を下げてから降りていきます。俺はそのうしろ姿をしばらく見送ってから屋上に戻りました。


 まなみと話していると、病室に彩子が戻って来ました。マー坊に挨拶して帰ると言って出て行ってから時間が経っていたので驚きました。忘れ物でもしたのかと思っていると、

「阿部君と話し込んじゃった」

と、楽しそうな顔で彩子は言います。阿部君、いつの間にクン? なんて思いながら、

「ずいぶん長話やったね。何話してたん?」と、聞くと、

「おしえない」

と、笑顔で言います。なんだか短大時代に、友人たちと笑い合っていたころの彩子を思い出します。昨日再会してから、なんとなく変わったなぁ、と思っていた彩子の雰囲気。二十才近く年取ったんだから、変わってて当然くらいに思っていました。でも、以前の彩子の笑顔にまた会えた気がして、なんだかうれしくなりました。

「あやしいなぁ」

と、私がそう言った時に昼食が運ばれて来ました。

「え、もうそんな時間なの?」

と、時計を確認して彩子は、

「新幹線、二時前なんだけど間に合うよね」

と慌てます。

「間に合うと思うけど、そんなに余裕ないですよ」

と、まなみ。彩子は、

「かおり、また来るからね」

と、再度私の横に来て、手を握ってくれます。

「うん、待ってる」

私がそう言うと、彩子はまなみに軽く頭を下げて、病室から去って行きました。

「私、下の売店で私とマー兄のお弁当買ってくるから、下まで彩子さん送って来るね」

まなみはそう言って駆け出していきました。


 二人が出て行ってしばらくするとマー坊が戻って来ました。病室に私しかいないのを見て、

「彩子さんもう行ったんやな。まなみは?」

と、言います。そのままソファーに座り、涼んでいる様子。私は昼食に手を付けながら、

「彩子と友達になったみたいね」

と、声を掛けます。

「ん? なんで?」

「阿部さんから、阿部君に変わってたよ」

「ああ、⋯同い年なんやからええんやない?」

「ふーん」

と言いながら、私は味のしないお粥を口に。

「さっきの話、どっから聞いてたんや?」

とマー坊。

「う~ん、ほぼ全部、かな? 彩子が座るとこら辺りから」

私はそう言って、煮てあるのか、蒸してあるのかよくわからない魚を口に。

「はあ、だったら話に混ざってくれよ」

「二人がどんな話するのか聞いてみたかったから。そしたらあんな話やから、何も言えんやん。聞いてるしかなかった」

そう言いながら私は食事を継続。

「ま、ええけど。⋯で、俺が出てってからは和気あいあいと話せたんか?」

「う~ん、どうだろ。私の体のことを色々聞かれて、正直に答えてたら泣かしちゃった。彩子があんな泣く子やとは知らんかったから、悪いことしちゃった」

「⋯そっか」

「そっちは?」

「べつに、⋯大したこと話してへんよ」

反応が変。

「結構長かったけど、何話してたん?」

「⋯まあ、ええやん」

マー坊は微妙な笑顔でそう言います。

「⋯⋯」

私は無言でマー坊を見つめます。

「内緒や」

「なんか怪しい。彩子もおんなじこと言うてた」

私のそんな言葉に反応なし。

「まさか、彩子のこと口説いてたとか」

私は意地悪な笑顔でそう言います。

「人妻やって言うたんはそっちやろ」

「去年離婚したって、だから今は独身やよ」

「そうなんか」

「なんか目の色変わったよ」

「あほ、なんもないわ」

そう言うマー坊を見て、私は笑いました。そして、

「でも、楽しい話してたんでしょ」

と、私は言います。

「なんでそう思う?」

うーん、さっきからのこの変な反応はなんやの。気になります。何の話をしてたんやろ。でも思い直します。内緒やって言うた以上、話してくれんやろうし。私が知らんでもいい話だったんだと思うことに。

「彩子が戻ってきた時、すっごいいい笑顔やったから。なんか楽しいことがあったんやろなって」

ちょっと大げさに言ってみます。

「⋯⋯」

やはりなんか変。でも、変な話やったのなら、彩子があんなに機嫌よくないはず。何なんやろ。そう思っているとマー坊が折れました。

「分かった。⋯かおりも聞いたさっきの話。彩子さんはずっと言えずにいたらしいわ。かおりに言わないかんと思いながらずっと」

私は首を傾げて質問。

「で?」

「で? って⋯」

「いや、そんなことを内緒って言うん?」

「彩子さんにしたらそんなことをずっと悩んでたなんて、かおりには知られたくないかと⋯」

私は全然腑に落ちず、また言います。

「で?」

「また?」

私は黙って食事を再開。するとマー坊が口を開きます。

「その言えんかったことを言うきっかけを作ったことに感謝されたんや。感謝されたなんて自分で言うのはあれやろ、だから内緒って言うたんや」

マー坊はそう言って、これ以上言うことはないって顔をします。でも肝心なことが抜けている。私はまたまた言います。

「で?」

「はあ? そんだけや」

そう言ってから窓の外を見るマー坊。私は黙々と食事を済ませます。そして言ってやります。

「彩子の、あの笑顔の理由が見えてこないよ」

「そんなん、⋯俺にはわからん」

一瞬こちらを見たかと思ったら、また外に視線を戻すマー坊。なんだか楽しくなってきた私。

「じーー」

そう声に出してマー坊を見ます。

「もうわかったって」

マー坊はそう言って私を見ます。

「笑顔の理由は分らんけど、阿部さんはかおりの何やって聞かれたんや」

「で?」

「で? は、もうええわ。⋯まあ、兄弟みたいな感覚やから何と言ってええか分らんけど、あえて言うなら親友ってとこやな、みたいなことを言うた」

「⋯⋯」

「そしたら、自分もかおりと親友やから、私達も親友になれるね、みたいな⋯」

「⋯⋯」

私は少し意外な思いでした。幼稚園から短大までの一貫教育課程にいた彩子。ほとんど変わらない友達の輪の中で育って来たからだと思いますが、短大時代は内弁慶なイメージ。私とは三十人足らずの同じ学科だったので、早い時期に友達になりました。でも選択授業で会うだけの子なんかとはまずしゃべらない。さっきも、今日初めて会って、あんな告白話を聞かれた相手だとしても、わざわざ挨拶してから帰ると、マー坊を探しに行ったのを意外に思っていました。一人でアメリカ行って、向こうで働いて、結婚、出産、子育て。そんな経験で変わったんだと理解していました。でも、自分から親友になって、みたいなことを言うなんて。

「なんか言えよ」

反応のなかった私に、マー坊が控えめにそう言います。

「いや、あはは⋯、良かったね」

「⋯⋯?」

「彩子と友達になったんやね。ありがと」

「⋯ま、親友はないから友達やな」

少し照れたように言うマー坊。それで思いつきました。

「彩子の笑顔もそれやね」

「それ?」

「照れてたんやわ、自分からそんなこと言うたから」

「⋯⋯」

照れてたと言われ、表情を引き締めるマー坊。

「ふふ、照れ隠しの笑顔やわ、きっと」

そして多分、マー坊も彩子にそう言われて頷いた。それが嬉しくて上機嫌。そんなところでしょう。

「そっか、それで阿部君に昇格したんやね」

「昇格か」

「うん、友達にはなったんでしょ? 携帯の番号とか教えてもらった?」

冷やかし気味にそう言う私。

「ああ、番号交換した」

「うそ、ちゃっかりしてる」


 私たちがそんな話をしているところにまなみが帰って来ました。少し様子が変。私の前の食事トレーを確認しています。

「お帰り、どうしたの?」

私は声を掛けます。

「食事終わってるね。お見舞いに来てくれた人がいるんやけど、いいかな?」

「うん」

と私は返事。まなみは私にカーディガンを羽織らせると、食事トレーを持って扉の方へ行きます。

「どうぞ、入ってください」

誰だろうと思いましたが、戸口を見ているマー坊の表情からして知ってる人の様子。戸口からも、

「マー、おったんか」

と、聞き覚えのある声が。入って来たのは酒井君と柴君。それと柴君の奥さんでした。

「かおり、ごめんなこんなとこ押しかけて」と、酒井君。そして、

「食べれるかどうか分らんかったんやけど、かおりが好きな、うちの里芋餅持って来た」

と言って、手さげ袋からタッパーを取り出します。

「ありがとう敏君、嬉しい」

と、私はお礼を言いながら、タッパーを受け取りました。

「昨日の夜、夫婦で敏の所に晩飯食いに行ったんや。そしたら敏が、かおりの顔見に行くって言うから便乗させてもろた」

と、柴君。隣の奥さんも、いたわりの言葉と共に挨拶してくれます。マー坊は後ろでまなみとこそこそしていました。まなみが病室を出て、買ってきたお弁当を食べようと言っている様子。マー坊は私の顔を窺って、待てと言ってる感じ。私の前では柴君を筆頭に、三人が色々話しかけてくれています。でもちょっと上の空。笑顔を保って相槌を打つのが精一杯。なんだか眩暈のような感覚。結構疲れていました。せっかくお見舞いに来てくれたのだからと、話に付き合っています。でも、三対一はそろそろ本当に辛い。そう思った頃に後ろからマー坊が、

「そろそろ薬飲んで、ゆっくりせなあかん時間なんや」

と、三人に言ってくれます。そう言えば食後のお薬も飲んでないな。

「そんなんか」と、柴君。

「食後の薬飲んだら、しばらくは安静にせなあかんのや。お前ら来たからかおり飲まんかったけど、もう三十分ほど経つから、そろそろ飲まさないかん」

安静にとは言われてないけど、助かる。

「そやったんか、タイミング悪かったな。ごめんごめん」

と、柴君。なんだか申し訳ない気もしますが、三人が帰ってくれることになってホッとします。私に一人ずつ言葉をかけて帰って行こうとする三人。

「下まで送るわ」

と、マー坊が言います。追い出すような事を言ったので、マー坊はそう言ったのでしょう。でも、

「昼、まだなんやろ。ここでええよ」

と、酒井君が気を遣って二人を促し、帰って行きました。酒井君は私が辛そうなのにも気付いていたようでした。病室の扉が閉まると一気に疲れが出てきました。頭の中がふわふわしてる感じ。ベッドの背を倒して寝ようとすると、まなみが駆け寄って来て、

「姉さんごめん、気付かんかった。寝てるって言えばよかったね」

と、言いながら、床頭台の上の薬を準備してくれます。

「ううん、せっかく来てくれたんやからええよ」

と言ってから、私は受け取った薬を飲みました。

「昨日から来客続きで、しゃべりっぱなしやったから疲れたんやろ」

と、マー坊が足元から言ってきます。

「うん、そんな感じ。マー坊やまなみなら、話しながらでも寝ちゃえるんやけど、他の人にはそうはいかんもんね」

と、私は言いながらもう微睡んでいました。

「ま、ゆっくり寝てくれ。こっちは昼食べさせてもらうわ」

と言うマー坊の声を聞きながら、眠りに入りました。



平成十七年七月二十六日


 姉は昨日のお昼前に激痛を訴え、投薬してもらいました。痛みを訴える前、昨日の朝からかなりしんどそうにしていたので心配です。処置をしていただいた後、すぐに眠ってしまい、それから目覚めません。私は病室に泊まりこみましたが、夜中も起きた様子はありません。昨日は見えなかった担当の先生が、今朝七時過ぎに診てくれました。診察が終わるとナースステーションの中に仕切られた、小さな会議室のようなところに連れていかれます。そこで告げられました。もうそんなに時間はないと。一か月はもたないと。不思議と落ち着いていました。でも病室に戻り、寝ている姉の顔を見下ろすと涙がこぼれました。しばらく姉の顔を見下ろしたまま立ちつくしていました。気付くと美優希さんがいます。ベッドの反対側で点滴の袋を取り換えています。作業を終えると、

「まなみさん、起きた時にそんな顔見せたら、心配されちゃいますよ」

と、声をかけてくれます。私は控えめな笑顔を見せる美優希さんを見て、

「そうですね」

と答え、涙を拭きました。

 美優希さんが出て行ってから、気持ちを切り替えました。ただ、気は重いです。さっき先生から聞かされたことを、どうやって綾に伝えようか。私には難題です。私自身がまだ信じたくない思いでいることを、どうやって伝えるのか。何も思いつきません。パソコンを開いて仕事をすることに。連絡事項をチェックすると、今日の午後2時からの打ち合わせに参加するようにとの指示。昨日は仕事どころではなく、見ていませんでした。よりによってこんな日に、欠席しようと思いました。でも、打ち合わせの内容を読み進めると、結構な偉いさんが何人か東京から来る様子。東京に呼び出されていたかも知れない内容。欠席出来そうにありません。打ち合わせ内容に沿って、資料の準備をそのまま続けました。途中で若い看護師さんが姉の様子を見に来ました。そこで手を止めて、朝の先生の話をマー兄に電話しようかと思います。でも止めました。あんな話を聞いたら多分、仕事を放り出して来てしまうでしょう。でも伝えないわけにもいきません。メールすることに。メールであれば、事務所なり、自宅なり、パソコンのあるところに戻ってからしか見れないであろうから。そうすれば少なくとも、今日の仕事には迷惑かけないで済むでしょう。散々文面を考えて、やっと完成させたメールを送信。そして何気なく姉の寝ているベッドに目を向けると、目が合いました。姉が目覚めていました。私はベッド横に行って、

「気分は? 痛いところない?」

と、声を掛けます。なんだかまだ、半分寝ているような姉。

「今何時?」

そんなことを言います。

「今、十一時前だけど、姉さん丸一日寝てたんだよ」

私がそう言うと、

「丸一日? そんなに寝てたの?」

と、少しは目が覚めたような口調で言います。私は姉が目覚めたら教えて欲しいと言われていたのを思い出し、

「ちょっと待っててね」

と、姉に告げてからナースステーションに向いました。伝えると、美優希さんより先輩と思われる看護師さんと、若い看護師さんの二人が一緒に病室に来ました。姉に手短に体調など質問した後、先生に連絡しておきますねと言って出て行きました。

「私、なんか大変なことになってたの?」

と、看護師さんたちが出て行った後で姉が言います。私は少しおかしくなって笑いました。

「まあ、丸一日起きなかったんだから、それなりに大ごとだったよ」

「そっか、心配かけたよね」

「ううん、なんだか起きたら元気そうだからいいよ。安心した」

私がそう言ってる間に、姉はベッドの背を起こそうとしています。

「何かしたいの?」

「トイレ、漏れそう。って言うかさあ、これ何? 私オムツはいてるの?」

と姉。私は思わず吹き出しました。そしてベッドから降りるのに手を貸しながら、

「昨日の夜、目を覚まさなかったから念のためって、美優希さんが」

そう言いました。でもその後、少しショックでした。姉はおそらく、一人では歩けないくらい弱っていました。

「そうだったんだ。なんか恥ずかしい」

と言いながらトイレに向かいますが、ほとんど私に寄りかかっているような状態。姉を支えながら点滴スタンドも移動させる。なかなか大変でした。用を足したあと、私は下着を用意しました。でも姉は少し悩んでから、オムツでいいと言いました。

「トイレでするつもりだけど、迷惑かけるといけないから」

と言います。姉のその覚悟が悲しかったです。姉はベッドに戻ると、

「綾は?」と言います。

「集中講座だっけ? 塾行ってるよ」

「そう、私が目を覚まさないからって、塾休んでないかなと思ったけど、良かった」

「昨日ね、塾終わって綾が来たのは七時ころやったの。だから、夕食の後すぐ寝ちゃったとしか言ってない」

「そっか、ありがと」

そう言って姉は、ベッドまわりを見て何かを探している様子。

「何か欲しい?」

「飲みかけのお水があったと思うけど」

「昨日の話でしょ」

と私は言って、新しいペットボトルのお水を渡します。姉は、

「ありがとう」

と、受け取って二口ほど飲んでから、

「お水より、なんか食べたい。お腹空いて気持ち悪い」

と言います。それを聞くと、なんだか安心した気分になります。まだまだ姉は元気だと。

「外来終わったら先生が来てくれるらしいから、その時聞いて」

「まなみどっか行くの?」

「ごめん、言い忘れてた。私二時から打ち合わせがあって、そろそろ出なきゃいけないの。いいかな?」

私がそう言うと、

「もちろん仕事優先。行ってらっしゃい」

と、微笑んで言ってくれます。

「ごめん、出来るだけ早く帰って来るから」

「いいよ、ちゃんと仕事して来て。でも、遅いとオムツのお世話になってるかも」

と笑って言います。一人でトイレに行けないと、姉自身自覚しているのか。複雑な気持ち。私も笑みをこぼしながら言い返します。

「そう言う冗談は、だんだんプレッシャーになって来るから勘弁して」と。

「はーい」と、おどける姉に甘えて、私は荷物をまとめて病室を後にしました。


 まなみが出て行ってしばらくすると、先生が来てくれました。いろいろ質問されたりした後、大丈夫そうですねと、言われました。食事の件は、夕方まで様子を見ましょうと言われてがっかり。点滴で栄養とかは賄われているのでしょうが、やっぱり何か口から食べたいです。私はすることがないので、まなみが置いて行った雑誌をなんとなくめくっていました。丸一日寝ていたせいでしょう、退屈なのに眠気が来ません。雑誌をめくり終えた頃、ドアがノックされました。

「はーい」と答えると、無言で誰か入って来ました。入って来た人物を見て、私は本当にびっくりしました。おそらく二度と会うことはないと思っていた人物。それこそ、先日再会した彩子と同様、顔を見るのは十九年ぶりです。でも、十九年前とあまり変わらない見た目。相変わらずかわいらしい容姿をしています。彼女は一つ下の短大の後輩。同じサークルでとても仲良くしていた後輩。そして、同じ男性の子供を身ごもった後輩。菅野麻里。

「麻里、どうして」

と、第一声はそんなセリフになってしまいました。麻里はベッドにあまり近付かずに立ち止まり、俯いたまま何も言いません。

「久しぶり、麻里」

改めてそう言いました。すると、やっと口を開きます。

「かおりさん、すみませんでした。⋯あの時はすみませんでした」

と、頭を下げます。私は掛ける言葉がありませんでしたが、

「謝ることないよ」

と、言っていました。正直なところ、当時は彼女に対して良くない思いを持っていました。でも本当に悪いのは彼女ではないと理解してからは、同情の念もありました。特に彼女が出産して、しばらく経ってからと思われる頃に離婚したと聞いてからは。でも、こちらから連絡したりする筋合いではもうないと思い、今まで関係は断絶していたのでした。彼女はゆっくりと頭は上げたものの、相変わらずうつむいたまま何もしゃべりません。私はその姿を見て、先輩らしく振舞おうと決めました。断絶するようなことがあったとは言え、かつては親しく慕ってくれた後輩です。

「麻里、もういいよ。こっち来て座って」

と、ベッド横の椅子に促しました。麻里はしずしずと寄って来て椅子に座ると、やっと目を合わせてくれます。そして、

「かおりさんとあの人が結婚するって知ってからも、私はあの人と付き合ってた。そしてあんなことになったのに、許してくれるんですか?」

いきなりそんな事を言い出しました。ま、そうかもしれないけど。

「うーん、許さへん。どうしてくれるんやーって、言った方がいい?」

「⋯⋯」

困ったような顔をする麻里。私は笑顔でこう言います。

「許すも何も、もういいでしょ。昔のこと。それよりも、会いに来てくれてありがとう」

「ごめんなさい」

そう言って、また俯きます。

「やめて、麻里も辛い思いをしたんでしょ。少しは聞いてるよ」

「はい、私も騙されてました」

そう言う麻里。

「騙されてた?」

私は何のことかわからずそう言います。

「まだいたんです、別の女が」

と麻里。それは想定内。と言うか、そう言う話は嫌と言うほど耳に入って来ていました。自分の件が片付いてからですが。

「聞いてる。それで離婚することになったの?」

「はい」

「ひょっとして、また誰か妊娠させたの?」

「いえ、妊娠は。でも、高校から付き合ってるって彼女がいたんです」

「あら」としか言えない私。

「子供が生まれた直後くらいにうちに来たんです。あの人に会いに」

「え、家に来たの?」

「はい、結婚の約束してたみたいで、あの人に怒鳴り込んできたんです。そのあとあの人は家に帰って来なくなったんだけど、彼女の方は度々やって来るし」

ちょっと元気な顔になって話す麻里。私はもうどうでもいい話なんだけど、とりあえず相槌を打ちます。

「それで?」

「半月くらいしてから電話掛かって来て、あの人から。あいつ、あのあとまた来たかって聞くの。だから、何度も来てるから何とかしてって言ったら電話切れちゃって」

「うん」

「そしたら、二、三日後にまた電話掛かって来て、面倒くさいことになりそうだから離婚してくれって。そんなこと出来るわけないでしょとかって私が怒ったら、また電話切られた」

「で?」もう私は聞いてるだけ。

「離婚届が送られてきた。書いたら出しといてって、書いたメモと一緒に」

「なんかあいつがやりそうなこと」

「私、親に相談したんです。そしたら向こうの家に話に行こうって。で、親と一緒にあいつの実家に行きました。でも、あいつの親も変でしょ? 謝るけど、息子のことだから自分たちは関係ないって。息子と話してくれって、そればっかり。しまいにうちの親が怒りだしたら、帰ってくれとかって言われちゃって」

麻里は完全に元気な表情になっていました。

「それで?」

「親に言われて離婚届出しました」

「結局あいつとは話せずに?」

私は少し驚きながら言いました。

「はい。連絡取りようがなかったから」

「え、職場とかは?」

「連絡したら会社辞めてました」

「なにそれ。じゃあ、麻里は一人で子供育てたんだ」

「いえ、すぐに子供連れて実家帰りましたから」

と、明るく言う麻里。

「でも、子守りはしてもらえても働きに出たりとか、育児とか大変だったでしょ」

「うちの実家、とりあえず経済的には心配ない家なんで、私はずっと家で子育てしてました」

ひょっとしたら、私より大変な思いをしたかと感じて、芽生えかけていた同情心がしぼみました。しかし、出産直後の離婚は辛かったでしょう。私は話題を変えることに。

「子供って、私と一緒だから今年十八だよね」

「はい、全然受験勉強してないので心配です」

「男、女、どっち? うちは娘だけど」

「知ってます。綾ちゃんですよね。うちは息子で栄治って言います。あいつが付けた名前だから変えてやろうって思ったんですけど、そうもいかなくて」

私はまた驚き。

「なんでうちの子の名前知ってるの?」

「優子さんから聞きました」

「優子と連絡取り合ってたんだ」

「いえ、この前の日曜日に、いきなり電話掛かって来たんです。実家に私がいるとは思ってなかったみたいですけど、私の連絡先聞くつもりで。で、家にいたもんだから直接話して」

「そうだったんだ」

「かおりさんの病気のことを私に教えたかったって。それで、すぐに仲直りに行きなさいって言われました」

私は優子の気遣いに胸が熱くなりました。おかげで断絶したままだった後輩と、それこそ、仲直り出来ました。

「そっか、それで来てくれたんだ。正直、顔見たときはびっくりしたよ」

「本当は栄治も連れてこようかと思ったんですけど、かおりさんが私の顔なんか見たくないって追い返されるかもって。そんなところ息子に見せたくなかったから」

「あー、私ってそんなことする人やと思われてたん?」

と、私が少し大げさに言うと、

「かおりさんって、意外と怖いよねって、みんな言ってましたよ」

と言って、笑います。やっと麻里の笑顔が見れました。そのあとは思い出話や、お互い知ってる人の近況なんかを話していました。そのうち私は少し横になりたくなって、正直にそう言いました。すると帰りますと言う麻里。来てくれたことにお礼を言うと、また来ますと言ってくれるので、実家の場所を聞きました。姫路だと言うので、そんな遠くからわざわざ来てくれなくていいと言います。そう言えば麻里は短大時代、一人暮らしでした。でも、今度は息子を連れて必ず来ますと言いきって帰って行きました。私は疲れを感じて、すぐ横になりました。でも、気分はとても良かったです。


 打ち合わせが意外と長引き、私が病院に戻ったのは六時半くらいでした。姉は夕食を食べさせてもらえたのかな、なんて思いながら病室に入ると寝ていました。ナースステーションの横を通ったときに、私を見かけてでしょう、若い看護師さんが病室に来ました。そして告げてくれます。お昼過ぎにお見舞いが一人あったこと。三時前に先生が診察に来てくれたこと。その時には特に新しい話はなかったこと。夕食が出ることになったこと。診察終了時にトイレに行く手伝いをしたこと。六時の配膳時に寝ていたので、起こしたけど起きなかったこと。などでした。私は姉の寝顔を見てから、いつも通りソファーでパソコンを開き仕事を。今日の打ち合わせで山ほど宿題が出て、そっちも頭が痛いです。そうしているうちに、綾が病室に駆け込んできました。そしてベッドを見るなり、

「もう寝ちゃったの?」

と、一言。私はクスっと笑ってから、

「残念でした」

と、言ってやります。

「これで二日も寝顔しか見てへん」

私の方へ寄って来ると、

「お母さん、なんか変わったことないよね」

と、結構真面目な顔で聞いてきます。少し胸がチクッとします。先生から聞かされたことは、まだ綾に言いたくありませんでした。

「ないよ。今日も昼間は起きてたし。あ、私は会ってないんやけど、昼から誰かお見舞いに来てたらしいから、またはしゃいじゃって疲れたんじゃない?」

と、私は涼しい顔で言います。すると少し呆れた顔で綾が言います。

「またぁ? もう面会禁止」

「それは先生が決めること。それより講習はどうやの?」

と、話を変えます。

「集中とは言うけど、集中しすぎ。全部入んないよここには」

綾は両手で自分の頭を挟みます。

「この前の模試の結果は?、まだ?」

「第一志望はD判定。変わらなかった」

「それって、受かる確率どのくらいの判定なの?」

「きかないで!」

「そのくらいの判定なんだ」

と、笑ってやります。綾はふくれっ面でそれ以上何も言わず、姉のベッド横の椅子へ。しばらく姉の顔を眺めてから、教科書か何かを膝の上に開いて読み始めました。私は仕事を再開。やがて廊下が少し暗くなりました。綾のいるところからは見えないので気付いていません。

「綾、面会時間終わったから帰ろうか」

と、私は声を掛けます。本当は今夜も泊まり込みたいくらいでしたが、続くと綾が勘繰るので帰ることにします。

「え、そんな時間なんだ」

と、立ち上がります。私も荷物をまとめます。

「まな姉、ご飯食べて帰ろ。もう限界」

「了解。行きたいとこある?」

「どこでもいいよ。あ、酒井さんの所でもいいよ」

私はそんな話をしながら、姉の寝顔をもう一度見てから病室を出ました。

 家に帰ってからマー兄のメールに気付きます。二十八日の昼からこっちに来るとのこと。本当は明日にでも来たかったようですが、平日にあまり来ていると、綾が心配するのでやめてと言った、私の要望に賛成してくれるとのことでした。でも二十八日は木曜日なので、本当に分かってる? って感じですが。



平成十七年七月二十七日


 俺は事務所近くの喫茶店で美穂と待ち合わせていました。この前、かおりがもう一度見たいと言っていた野沢の光景。連れて行ってやると言ったものの、もう無理だとは思っていました。そこで当時の写真を大きなサイズにして持って行ってやろうと考えました。幸い、うちの図面用のプロッターはカラー対応なので、写真がどこまできれいに出るかは不明ですが、A1サイズにしてやるつもり。しかし、見つけ出した普通サイズの写真をスキャナーにかけてから、A3サイズでプリントしても微妙な出来。A4サイズでは普通紙でも結構いい出来なので、写真用の用紙でプリント。合格点の出来でした。でも、どうしてもA1サイズが作りたかった。故に、当時のカメラの持ち主、美穂にネガを探して欲しいと頼みました。昨夜メールで、ネガが見つかったので明朝持っていくと連絡がありました。メールに気付いたのは朝だったので、少し慌てました。そう言うわけで待っています。時間ぴったりに来てくれました。俺の前に座るなり、

「ここ、おごりでいいよね?」

と、挨拶もなしに言います。

「もちろん、好きなの頼んで」

すかさず美穂は、モーニングではなく、ホットサンドとアイスコーヒーを注文。そう言えばここのホットサンド好きだったよなと思い出します。美穂は封筒を差し出して、

「これ、先に渡しとく」

と言います。俺は受け取って中を見ると、ネガが入っているビニールに一枚だけネガが入っています。

「一枚だけ?」と聞くと、

「うん、なんでバラにしちゃってたのか分かんないんだけど、それだけ。もっと探せばまだあるかもしれないけど、一枚あればいいでしょ」

と言います。普通はネガを一枚ずつ切り分けるなんてことはしないので、ほんまか? と、思いましたが言わないことに。

「かおりさん、悪いの?」

と、ストレートに聞いてきます。隠してもしょうがないので、俺は昨日まなみから届いたメールの内容を話しました。

「そっか」

と、一言のみ。しばらくお互い黙っていると、美穂の注文したものが運ばれてきました。アイスコーヒーを一口飲んでから、

「で、それどうするの?」

と言って、ホットサンドにかぶりつきます。

「A1のポスターサイズに引き伸ばすって言ったやん」

と、俺は答えます。

「いや、どうやって引き伸ばすの? 写真屋さんに頼むの?」

「図面の製本頼んでるコピー屋に頼もうと思ってる。聞いたらやれるって言うから、この後持っていく」

「ああ、あそこで出来るんだ。きれいに出来あがるといいね」

「うん」

そこでしばらく沈黙。美穂は見る間に食べ終えます。そして、

「アイスコーヒー、お代わりしてもいい?」

と聞いてくるので、自分の分も含めて二杯注文。これはすぐ持って来てくれました。美穂はまた一口含んでから、

「正善さん、辛い?」

と、聞いてきます。

「そりゃな、辛いに決まってる」

「だよね」

美穂はそう言ってまたストローを吸います。そしてまた口を開きます。

「私は近日中にもう一回、会いに行ってくるよ」

「うん、行ってやってくれ」

そう言った俺に、

「なに他人事みたいに言ってんの、正善さんは毎日でも行きなさい」

と、少し怒った口調。

「毎日って言うてもなぁ」

「正善さんの仕事は、何なら全部私が引き受ける。だから、最後までついててあげて」

と、なんとなく優しい口調に変えながら言います。

「そんな、全部って言うても⋯」

「こんな風に言いたくないけど、一か月もたないって言われたんでしょ。そのくらい何とかするから。傍にいなよ」

優しい口調のまま、美穂はそう言います。

「⋯⋯」

俺が言葉を探していると、

「正善さん、いい加減はっきり態度で示さないと、一生後悔するよ」

と言って席を立つと、ご馳走様、と言って出て行きました。窓の外へ姿を追っていくと、俺の事務所が入っているビルに消えます。おそらく、早速俺の仕事を取り上げに行ったのだろう。うちの事務所の人間は美穂のことを良く知っているので、言われるがままだろう。全く、思い立ったら即行動。いつまでたっても全く変わらない行動パターンだ。俺は一人で小さく噴き出してから、今回は美穂に甘えようと決めました。

 美穂と別れてから、言った通りにコピー屋へ行きました。ネガを渡してしばらくすると、画像データへの変換が終わったと言って、打ち合わせコーナーの三十二型のモニターへ映してくれます。映った画像は俺とかおりの二人の物でした。何か美穂の企みを感じましたがとりあえず置いておきます。少し粗い気はするものの悪くないと思ってそう言ったら、このモニターでも全体表示だとA2相当とのこと。A1サイズに拡大表示しますと言われる。そのサイズではさすがにきれいとは言えませんでした。素人が撮った写真でA1サイズは無理があると言われます。でもそう悪い写真ではないので、画像処理で補正をかければ、かなりきれいになると思うと言ってくれます。それをお願いすると、満足いくものにならなくても、かなりいい金額の費用が発生することと、半日くらい時間がかかると言われます。それでもいいと言ってお願いしました。三時以降に来て欲しいと言われそうすることに。三時までの間に、取り急ぎ打ち合わせが必要な現場、2件ほどに行きます。すると、すでに2件とも美穂が打ち合わせに行った後でした。優秀すぎ。うちの会社に入れようかと苦笑。そして三時過ぎにコピー屋へ。処理は終わっていて、明るさなどが違う三種類が作ってありました。どれもきれいな仕上がりです。ただ、画面で見るのとプリントされたものではちょっと違うと言われます。分からないので、画面で見て一番きれいだと思ったもののプリントをお願いしました。二十分ほど待って出来上がって来ました。予想以上の出来。円筒のケースに入れてそれを受け取ると、別にメモリーを渡されました。処理した画像データも、もらえるようです。メモリーは今度うちの会社に来た時に回収するので、パソコンにデータを移しておくようにと、きっちり言われました。


 綾はぎりぎりまで病室で粘っていました。朝なら起きている母に会えるかもと、今日は珍しく早起きして、私を急かして病院に来ました。やはり少しでも会話がしたいのでしょう。しかし姉は目覚めず。遅刻するよと、私に言われて渋々出て行きました。皮肉なことに、その三十分くらい後で姉は起きました。でも、いなくて良かったかも。寝起きにトイレに行く際、昨日以上にフラフラです。そしてベッドに戻って何分もしないうちに、酷い痛みを訴えます。私はナースステーションに走りました。朝礼中でしょうか、たくさん人がいましたが、近くにいた看護師さんに声を掛けます。すぐに先生が病室に来てくれます。美優希さんが姉の看護メモを持って遅れてきました。確認すると、夜中にも痛みを催していたらしく、鎮痛剤が投与されていました。でも十分時間が空いているので大丈夫と先生が判断。その場で鎮痛剤が与えられました。先生はしばらく様子を見るように美優希さんに告げると帰って行きます。しばらくして、

「まなみさん、しっかりして。大丈夫ですよ」

と、美優希さん。

「あ、はい。ありがとうございます」

私は立ちつくしていました。そう言われてやっと姉の横に来ます。姉の苦しそうな表情も和らいでいます。

「もう、だいぶ楽になりました。ありがとうございました」

と、小さ目な声で姉が言います。

「朝の引継ぎが終わったら、先生がもう一度来られますから。それまではそばにいますよ」

と、美優希さん。姉は頷きました。美優希さんが言った通り、先生はすぐに戻って来ました。姉に今の傷み具合などを聞いた後、病衣をめくって腰や背中の状態を再確認します。体を横向きにされるときに、姉の顔が少し歪みました。先生はそれでもとりあえずOKと言って帰って行きます。美優希さんも

「走って来なくても、ナースコール押してくれていいですよ」

と、私に言って戻って行きました。姉はベッドの背を起こしていました。

「寝てなくっていいの?」

「この方が楽」

「姉さんが起きる少し前まで綾がいたの。でも、綾が出て行った後で良かった」

「朝から綾が来てたんだ」

「二日寝顔しか見てないってぼやいてたから、話がしたかったんやないの?」

「なんか綾にも悪いことしてるな」

そう言う姉の声や口調は、もういつも通りだと感じました。私はソファーテーブルに仕事の用意をしながら、

「今日は昼間のうちにたっぷり寝ておいて、綾が来る頃起きといてあげてよ」

そう言います。

「わかった、睡眠薬読むよ」

姉はそう言って、先日私が持って来た小説を手に取ります。本当に読書が嫌いな姉、本を読みだすとすぐに寝てしまいます。その本はそう言う意味で持って来たものではありません。この病院のすぐ近くにある大型の古本屋で見つけたもの。姉の好きな映画のノベライズ本。これなら退屈しのぎにいいだろうと思ったのに、ダメでした。本好きの綾はここでの時間つぶしで手に取って、二日くらいで読んでしまったのに。私はパソコンを起動して、メールをチェックしてから顔を上げると、姉は本を開いた姿勢でもう寝ていました。私は呆れながら姉の手から本を取って、床頭台の上に。そして、仕事に戻りました。気付くとお昼の配膳の方が来ていました。一応、姉には食事の許可が出ているので、わずかですが食事が出ています。少し体をゆすってみますが起きません。配膳の方は後で下げに来るので、目が覚めたら食べさせてあげてくださいと、下がって行きます。ここのところ毎回寝ていて手を付けていないので、申し訳ないです。結局、下げに来られても起きませんでした。私はお詫びを言って下げてもらいます。それから自分の昼食を食べに食堂へ。売店のお弁当でもいいのですが、病室で食べているときに姉が目を覚ますと、恨めしそうな顔で見られるので最近は食堂へ行ってます。食事を終えて病室に戻って来ると、病室の前に男の人がいます。扉を半分ほど引いて、中を窺っています。知っている人です。同じ町内にいた大島久さん。姉の一つ下です。

「久さん、こんにちわ」

私は声を掛けました。

「まなちゃん、久しぶり。良かった、誰もいないから入り辛かった」

と、振り返って言う久さん。私は横をすり抜けて中に入りながら、

「姉に会いに来てくださったんですよね。でもちょっと待ってくださいね。あられもない姿だといけないので」

と、言いました。ついて入ろうとしていた久さんは足を止めて、

「おっと、わかった」

と言いながら一歩下がります。姉はそのままの姿で寝ていました。私は薄い掛布団を肩までかけてから、どうぞと声を掛けます。久さんは入って来て姉の顔を見ました。

「ごめんなさい。薬のせいだと思うんですけど、最近はほとんど寝ているんですよ」

「いや、お見舞いってそう言うもんやから」

「今日はどうしてこっちに? 仕事ですか?」

と、私は尋ねます。久さんは大阪本社の会社勤めですが、数年前に名古屋支店に転勤して、今は家族ともども名古屋に住んでいます。

「そ、ちょっと用事があって来てたんやけど、ちょうど移動途中にこの病院があるなって思って寄り道したんや」

「そうだったんですか。わざわざありがとうございます」

「いや、ちょっと顔の雰囲気は瘦せたかなって思うけど、思ったより全然ましやから安心した」

「えー、もっとひどい状態やと思ってたんですか?」

「おお、なんか昨日のマーさんの様子聞いたら、もうダメなんかなって。⋯あ、まなちゃんの前でこんなこと言うたらあかんな。ごめん」

久さんのその話は気になりました。

「いえ、いいですよ。でも正善さんの様子って? 昨日会ったんですか?」

そしてそう聞きます。

「会ってへん。マーさんのマンションの下にあるバーに行ったんや。マーさんがよく行く店やから会えるかなって。かおりさんのことは聞いてたから、なんか話しよかって」

「⋯⋯」

「マーさんはそこにはいつも、寝る前にコーヒー飲みに来るんや。本持って」

「寝る前にコーヒー?」

「そや、まあもともとそんなに酒飲む人やないから。でも昨日は早い時間に来て飲んでたらしい、何杯も、カウンターの隅で。そこが定位置なんやけどな。マーさんの読書用にスタンドまで置いてあるんや」

「へー」

私は早く続きが聞きたい。

「で、ママさんが言うには泣いてたらしい、マーさん。何にも出来ん、とか時々呟きながら」

「⋯⋯」

「そんな様子やったもんやから、俺が行った時にママさんが教えてくれたんや。で、俺はかおりさんがいよいよなんかなって」

久さんの話を聞いて、私は表現できない気持ちになりました。なんとなく姉の前で話を続ける気になれず、

「寝てるんで、あっちで何か飲みませんか」

と、久さんを誘ってディルームへ行きました。自動販売機でカップコーヒーを買って、二人で席に着きます。まわりにはここで昼食を食べた後、親しい人とまだ会話を続けている患者さんが何人かいました。そういう人たちから離れた席にしました。私は座ってから、

「正善さん、泣いてたんですか?」

と、口を開きます。

「声を出してワアワアって感じやなかったみたいやけど、泣いてるってことは、はっきりわかる程度には泣いてたらしい」

私はちょっと言葉を失くしていました。すると、

「まなちゃんにこんなこと聞くのはいかんのやろうけど、かおりさん、実際どうなん?」

と、久さんは言います。私は一瞬考えてから、

「あんまり人には言わないでもらえますか? 特に町内の人には」

と言います。

「もちろん。言うて回るようなことやないからな」

「だいぶ悪いです。もう、ひと月ないって言われてます」

私がそう言った後、久さんはしばらく私と目を合わせていましたが、やがて窓の方を向いて、

「参ったなぁ。かおりさんって憧れの人やったんやよ」

と、寂しそうに言います。

「姉のこと好きだったんですか?」

「子供の頃な。優しいって感じでもなかったんやけど、美人やったし。何しろ、マーさんが引っ越してくるまでは、悪たれ東達からの防波堤になってくれてたし。好きって言うか、俺の姉さんになってくれって感じやったな」

「悪たれって」

「まなちゃんは年が離れすぎてて被害なかったやろうけど、あいつらの悪さはほんまに地獄やってんで。かおりさんも被害者やったから毎回ってわけやないけど、結構守ってもろたんや」

久さんはちょっと興奮気味。

「そうだったんですね」

「かおりさんやマーさんは、東と今は普通に付き合ってるやろ? 俺からしたら信じられへん。俺はいまだにあいつのこと嫌いや」

姉たちよりもさらに年上の東さんを呼び捨てにしているあたりにも、嫌いなことが伝わってきます。私は東さんと言えば、綾と親しい優美ちゃんのお父さんと言う認識。子供時代のガキ大将ぶりは姉たちから聞いてはいますが、どちらかと言えば楽しい思い出と言う感じ。人によってこんなに感じ方が違うんだなと思いました。私が何も言わなかったので久さんがまた口を開きます。

「まなちゃんにはわからんな。でも、ほんとにショックやわ、かおりさんの状態。マーさんが飲みたくなったんが分かるわ」

「そんなに思い詰めてるようには見えなかったんですけどね、正善さん」

と、私が言うと、

「なんでー、かおりさんの事やで、もっと壊れてても不思議やないくらいや」と、久さん。

「どういうことですか?」

私はそう聞きますが、久さんは壁の時計を見て、

「ごめん、次の約束に遅れるわ。もう一回だけかおりさんの顔見せてくれへんか」

と、空になった紙コップを持って立ち上がります。

「あ、はい、どうぞ」

と、私は先に立って病室へ。姉はさっきの姿のまま、まだ寝ていました。久さんはしばらく姉の顔を見てから、

「まなちゃんしっかりな。マーさんにもよろしく言っといて」

と、去って行きました。私はその場で見送り、病室の扉が閉まるのを見ていました。姉の顔に目を戻します。毎日見ているので気付いていませんでしたが、久さんが言うように痩せています。いや、老けたと言うべきか。当然のことですが、病人のように見えました。

 姉はこの後、ほとんど一日中眠ったままとなりました。目覚めても、長くて一時間ほど。それが日に一~二回です。タイミングよく居合わせた人だけが、姉との残り少ない会話を許されました。

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