第六章
平成十七年六月二十二日
山口から帰って来た翌日、姉の体調は良くありませんでした。体力的に無理があった様子。我慢して隠す余裕もないようで、すぐ横になって休んでいました。ですが心配しながらも、ちゃんと学校にも塾にも行っている綾の姿。母に心配をかけまいとしているのが分かり、頼もしくもあり、かわいそうでなりません。昨日は少し回復したようで、疲れがちなのは否めませんが、表情は明るくなりました。今日は病院へ行く日。昼から用事のあった私。病院が長引いた場合、用事を遅刻してでも送り迎えをしようと思っていました。ですが阿部のお母さんが、たまにはかおりと出かけたいと言って、連れて行ってくれました。姉の体調がよくないと聞いていたマー兄が、また仕事の都合をつけて来てくれたのですが、姉たちが出かけた後。家で仕事してると言って、ちょっと前に帰って行きました。私は自室で仕事をしていました。ふと、窓の外の人影に気付きます。私の部屋は玄関横なので、家の前に誰か来たら見えます。窓ガラスは透明ではなかったのですが、少し開けていたのでレースのカーテン越しに、家の前に立つ人の顔が見えました。私は驚いて、咄嗟に隠れました。信じられない人の顔でした。○○さん。かつて姉と結婚していた人。そして綾の父親。二人が不在なのは幸運。ですが、私が相手するの? 離婚理由は聞かされていませんが、決して良くない感じだったのは分かっています。それに、ほんの露ほども、綾のことを知られるわけにはいきません。と言うより、何しに来た? 姉のことをどこかで聞いた? 姉とつながる誰かと、この人はつながってる? と言うことは綾のことも承知? 私はパニックになりそうな気分で震えまで来ていました。気持ちが悪い、吐きそう、と思った時、外で動きがあった気配。そっと覗くと、マー兄が○○さんに話しかけていました。私の車越しに二人の姿が見えます。何か話しているようですが、うちの前から離れて向かいの純子さんの家の方に行ったため、会話が聞こえません。しばらく話しているうちに、○○さんは機嫌が悪くなったように見えました。マー兄は何度か頭を下げています。なんで? 疑問に思いますがわかりません。そのうち○○さんが、うちに向かって歩き始めました。怖い顔です。どうしよう、と思っていたら、マー兄が○○さんの腕を取って自分の方に引き戻します。そして、土下座したように見えました。車に隠れて見えませんが、そういう風に見えました。なんでマー兄があの人に土下座してるの? 一体どういう関係なの? 訳が分かりません。○○さんはマー兄を見下ろしたまま何か言っています。ですがそのうち、何かを言い捨てるように言うと立ち去りました。しばらくしてマー兄は立ち上がります。私はすぐに玄関に向かい、外に飛び出しました。すると、向かいの純子さんの部屋の窓が開いていて、純子さんがマー兄を呼んでいるところでした。私に気付いた純子さんは私にもおいでと手招きします。私は純子さんの家に向いました。この町内は基本的に同じ間取りの家が並ぶ建売住宅地。純子さんの家も左右逆なだけでうちと同じ。そして純子さんの部屋は玄関横、私の部屋と同じ場所。マー兄に続いて部屋に入ると、
「お疲れさん」
と、純子さんがマー兄に言います。
「お前、今日休みなんか?」
と、マー兄が純子さんに質問。
「休日出勤溜まってて、代休消化しろって強制休暇中」と、答えながら、
「とんでもないやつが来たね。マーがいるタイミングでよかった」
と、純子さん。
「ほんまにタイミング良すぎや。でも、お前がおったんなら俺が出て行かんでも良かったのに、言うてくれよ」
「無理無理、私にはあんなこと出来へん。あいつに土下座するくらいなら、捕まってもいいから殴ったる。てか、土下座はやりすぎちゃう? そこまでせんでもええのに」
「いや、これっきりで完全に引いて欲しかったんやから、あれで良かったんや」
「ふ~ん、でもまあ、かっこ良かったで」
と、やりあう二人についていけない私。
「ちょっとごめんなさい。何だったのか説明してほしいんやけど」
と、遮ります。
「何って、見てたんちゃうの?」
と、純子さん。
「見てたけど、何話してるかは聞こえんかったから」
そういう私に純子さんが、
「簡単に言うと、かおりの病気のことを聞いたから見舞いに来た。聞いたのならなお、今更会わんでやってくれ。なんでお前がそんなこと言う。そっちも自分の家族に悪いと思わんのか。俺はフリーや、かおりに会う、邪魔すんな。会わすわけにはいかん。うるさい。どうかもうあいつのことはそっとしてやってくれ、頼む、お願いします。って感じで土下座」
と、言います。見事な説明? をしてくれます。が、いつもと違う純子さんの話し方に、気を取られてしまいます。なんかテンションが高い⋯? でも、取りあえず分かったような。
「それで帰ってくれたと⋯」私が言います。
「ううん、そっからがかっこ良かったんや」
楽しそうに言う純子さんを、マー兄が遮ろうとしますがそれを制して、
「お前がそんなことまでするの見たら、何が何でもかおりに会わな気が済まんようになった、と言うあいつ。すると、これ以上かおりに関わったら、お前をただではすまさん、って誰かさん。その一言で十分傷害未遂やぞ、って言うあいつに対して、そんなことになるようなら、傷害やなく、殺人罪で捕まったる、って誰かさん。それには言葉に詰まり、いつまでたってもお前らはめんどくさいな、もうええわ。と去っていくあいつ」
と、純子さんの熱演が終わりました。
「実際は、もっと穏やかな言葉でやけどな」
と、マー兄が言います。わたしはなるほどって感じで、ふんふんと頷きました。
「でもあいつ、結局また離婚してたんやな」と純子さん。
「いや、あいつの場合、家族がおってもフリーって言いそうや」
とマー兄。私は二人に聞きます。
「あの人、姉さんと別れてから再婚してたってこと?」
二人は顔を見合わせます。そして純子さんが私に聞きます。
「まなは、かおりの離婚理由聞いてへんの?」
「うん、何回か聞いたけど、教えてくれへんかった」
私は答えます。二人はまた顔を見合わせます。そして今度は頷きあってから、また純子さんが口を開きます。
「○○の浮気や。と言うか、かおりの他にも何人かと、同時進行で付き合ってたみたいや」
私には衝撃の事実でした。
「なんで姉さんそんな人と。っていうか、そんな何人とも付き合ってる人が、なんで姉さんと結婚したんやろ?」
私は聞きました。
「まず、あいつも見た目は優しそうなええ奴やろ? 実際付き合ってる相手には、優しくてええ奴なんやろなぁ」
と、純子さん。
「うん、私も優しくてええ人やと思ってた」
私は頷きます。
「それと、あいつがかおりを選んだんは、多分あんたらのお父さんや。と言うか、あんたらのお父さんが勤めてた会社や。かおりが行った大学。女子大の方は昔からお嬢様校で名門やけど、くっついてる共学の四大は、はっきり言って三流や。○○はそこの出やろ。まず入れん大企業や。そこに入れてもらいたかったんや」
「なんでそんなこと、あの人がそう言うたん?」
「結婚決まったころから、そういう風なことをお父さんに投げかけてたみたいやで。だから、あんたらのお父さんは途中から、ほんとに結婚してええのかって言うてたみたいや」
まだまだ子供だった私の知らない話でした。
「で、結婚した直後。あいつの別の彼女、かおりのおったサークルの、後輩の子の妊娠が発覚したんや。いろいろやり取りがあったみたいやけど、一か月くらいで別居。すぐにかおりは帰って来た。そっからも二か月くらいもめた。でも急にかおりが、慰謝料も何もいらんから、とにかく離婚したいって言い出して終了。あいつは妊娠した彼女と再婚」
私は何も言えませんでした。
「なんでかおりが早く話を終わらそうとしたか分かる?」
と、純子さん。
「⋯⋯?」
私が返事出来ずにいると、
「綾がお腹におることが分かったんや」
と、マー兄。私はまたしても驚いて、
「離婚前に妊娠分ってたの?」
と、聞きます。
「そうや、かおりは親父さんにも黙ってた。離婚成立前に知ってたのは俺と純子だけや」
「⋯⋯」
「かおりは自分を恥じてた。好きになった奴が、結婚までした奴がそんな奴やったと。だから、そんな奴が父親やと、絶対にお腹の子には知られたくないと。正直言って怖いくらいの決意やった」
マー兄は少し苦し気な顔で言いました。私はまだ言葉が出てきません。
「あんたらのお父さんは、かおりの妊娠のことは知らんかったけど、結婚決まってるのに別に彼女がいて、そっちを妊娠までさせてたあいつのことが許せんかった。それで、慰謝料やなんやかんやでもめてたんやけど、長引くとお腹が大きくなってきて、ばれるかも知れんとかおりは焦ったんや。あいつにだけは、妊娠を絶対に知られずに済ます。それでお父さん説得して、早々に終わらせたんや」
純子さんが続きを説明してくれました。しばらく考えてから、
「離婚成立してから妊娠を知らされて、そっからうちのお父さんは黙ってたん?」
私はまた聞きます。
「黙ってなかった。もう一度○○と交渉するって言い出した。かおりと親父さん、それで喧嘩になって、かおりがうちに逃げて来たんや。で、うちで話し合いになった。かおりの親父さん、うちの両親も交えて。その時かおりが、この子は私だけの子、あの人とは一切無関係。私が一人で宿した子やって言い張ったんや。親父さんは最終的に折れた」
と、マー兄。私は今聞いた内容を整理しようとしましたが、頭が追いつきません。でも一つだけわかりました。
「姉さんが私にもこのことを話さなかったんは、綾のためやね。綾を守るために、知ってる人間は一人でも少ない方がいい。そう言うことやね」
私の言葉に、
「多分ね。でも、あの頃と違ってまなはもう大人や。しかも身内や。私は知っててもええと思った」
と、純子さんが言うと、マー兄も言ってくれます。
「俺も」と。
そう言うマー兄を見て私は気付きました。
「だから土下座までしてくれたんや。マー兄も綾を、守ってくれたんや」
そう言う私の視線を避けて、
「そんな大層なこと考えてへんて。単なるノリやノリ」
と、照れたように言います。すると純子さんが手を一つ叩いて、
「はい、お話は終了。お腹空いた、せっかくやからマーのおごりでランチ行こ」
と、言います。今日の純子さんは本当にいつもと雰囲気が違う。マー兄とだとこんな感じなのかな。もう少し話していたい気がしました。でも、私は時計を見て慌てます。
「私、昼一で打ち合わせあんの。遅刻する」
そう言って純子さんの家の玄関を飛び出します。でも、窓まで戻って部屋の中の二人にこう言いました。
「話してくれてありがとう。でも、聞かなかったことにするね」
平成十七年六月二十五日
私が家に戻ってきたのはお昼過ぎでした。今日は病院で定期診察。町内に入るところでタクシーを降りて家まで歩いてくると、普段はまなみの車が停めてある駐車スペースに、見慣れぬ車が停まっています。まなみは昨日車で大阪市内の事務所まで出て、そのまま車を置いて東京へ行ってるはず。元先輩であり、これからの上司となる人と会い、渡英の打ち合わせだと話していました。帰って来るのは月曜日の夜の予定。家の前の車をよく見ると岐阜ナンバー。不審に思っていると、運転席から女性が降りてきました。知ってる顔にびっくり。
「かおりさん、お久しぶりです」
と、その女性が言います。彼女は佐藤美穂さん。十年くらい前ですが、マー坊と付き合っていた人。当時、何度も実家に連れて来ていたので、私も知り合いました。そして、私と美穂はとても相性が良かったようで、マー坊抜きで親しくなりました。美穂がマー坊と別れてからは、なかなか会えなくなりましたが、時々連絡は取り合っていました。
「久しぶり、顔見るの何年振りだろ」
と、私は言いながら美穂に走り寄ります。すると美穂は慌てた様子で、
「あ、だめだめ、走らなくていいから」
と、心配そうに私に駆け寄ります。私は気付きました。どこからか、私の体のことを聞いて、来てくれたのだと。
「大丈夫よ、転ばないから」
と、私。ま、体のことは、自分からあまり言いたくないのでそう返します。再会を喜び合ってから、家に上がってもらおうと思いましたが、お昼まだなら食べに行こうと言われました。私は荷物を家に置いてから、美穂の車に乗ります。家から一番近いファミリーレストランへ行きます。注文を済ませてから、
「今日はどうして大阪に? 旦那さんや子供たちは?」
と、私は聞きます。
「旦那たちは家で留守番」
「そう、子供たちいくつになった?」
「6歳と4歳、あ、下の子は会ったことなかったっけ?」
「うん、お兄ちゃんの方、義和君もまだまだ赤ん坊の頃だから、今会っても分かんないね」
「そうだねぇ、下の子、幸和生まれてから来てないもんね。と言うことは、かおりさんの顔見るの、5年ぶりくらいになるんだ」
そんなことを話していると、料理が運ばれてきました。食べ始めてから美穂が口を開きます。
「食事誘っといてなんだけど、普通に食べて大丈夫なの?」
「⋯なんで?」
私はとぼけます。
「聞いてるよ、かおりさんのこと。体のこと」
美穂は言います。
「そっか、知ってるんだ」
と、私。
「うん、正善さん問い詰めたら、話してくれた」
「マー坊とまだ交流があるんだ」
「私いま、実家で働いてるの。神田工業って会社。で、うちは正善さんの所の下請けやってるから」
私は食べながら、美穂の話に頷きます。
「この前ね、現場でトラブルがあって、うちの職長にそのこと聞いたの。すると、最近正善さんと現場の打ち合わせ不足で、小さな行き違いが多いって言うの」
私は美穂の方を見ます。美穂は続けて、
「正善さん忙しいのかなって、その職長に聞いたら、実家で誰か悪いようで、しょっちゅう帰ってるらしいって。そう聞いたから阿部のおじさん、おばさんのどっちかが病気でもしてると思ったの」
そう言ってから料理を口に。
「それでマー坊に聞いたんだ」
「うん、ちょっと事前に見ておかないと、トラブリそうな現場があったのね。で、正善さんがそんな状態ならこっちで打ち合わせしとこうと思って現場行ったの。そしたら偶然、彼も来てた」
美穂はそこで話を切ると、また料理を口に。私も黙って食べます。
「久しぶりって、お茶誘って喫茶店行った。それで、おじさん、おばさんどっちが悪いのって聞いたの。そしたら彼、何も考えてなかったみたいで、どっちも元気だって不思議な顔するの。実家の誰かが悪くて、最近よく帰ってるって聞いたこと言うと、しまったって感じでごまかそうとするから、問い詰めた。そしたら、かおりさんの病気のこと、やっと教えてくれた」
そう言い終えた美穂は少し怖い顔で私を見ていました。
「ごめん、あんまり人に知らせることじゃないから」
と、言う私に、美穂は少し身を乗り出して言います。
「ダメ、私怒ってるよ。私って、かおりさんからそう言う事、内緒にされちゃう人なわけ? ある日突然届いた訃報見て、泣いてくれればいいやぐらいの人なの?」
少し大きくなった彼女の声に、周りからの視線がちらほら来ます。でもお構いなし、
「信じらんない。かおりさんから、そんな程度の知り合いだと思われてたことに腹立った。だからこっちから絶交や、二度と連絡なんかしてやらんと思った。悪いけど、勝手に死ねと思った」
そう言う美穂。そして二人ともあらかた食事が終わっているのを見ると、店員を呼んで、食後の飲み物を頼みます。普通に。
食器を片付ける店員さんと入れ替わるように、飲み物を持った店員さんが来ます。アイスティーとアイスコーヒーが置かれます。私はアイスティーを取って口をつけます。美穂に言われたことに対して、何をどうしゃべろうかわかりませんでした。すると美穂が、
「勝手に死んじゃえって思って、死んじゃうんだと思ったらね。なんか逆になってきた。私、何で死んじゃう人に怒ってるんだろうって。そしたら会いたくなった、かおりさんに。だったら会いに行こうと思って、会いに来ました」
そう言って、明るい顔で私を見ました。ほんとに美穂らしい。全然変わらない。私は勇気をもらえた気分でした。
「死んじゃう人か。ストレートにそう言う人は美穂だけだ」
私は言います。
「ありがと、来てくれて」
「ごめんね、私って言葉知らないから、思った通りにしか言えないの」
「ううん、変に気を使われるより気が楽。近所にはもう知れ渡ってるんだけど、みんなかける言葉がないみたい。遠巻きにされて、なんだかいじめにあってるみたい」
私がそう言うと、
「みんなじゃないでしょ? 少なくとも、正善さんとこの一家や純子さんとか、変わらないんじゃない?」
美穂がそう言います。
「うん、変わらない。救われてる」
「だと思う。私も頼まれちゃったよ。かおりさんのこと、出来るだけ支えてあげてって」
そう言う美穂。
「だれに?」
「阿部のおばさん」
私は驚いて聞きます。
「阿部のおばさんとまだ付き合いあるの?」
「ううん、かおりさんと同じだよ。会ったのは5年ぶりくらい」
「会ったんだ」
「うん、会ったと言うか、かおりさんのとこまで来て、挨拶もしないのは失礼でしょ? だからお土産持って先に顔出したの。そしたら、家の中に引っ張り込まれちゃった」
私は笑ってしまいました。それを見て美穂も笑います。
「かおりさん、昼まで帰って来ないから、時間つぶしだと思ってお茶付き合いなさいって。息子の前の彼女と、平気でお茶しながらおしゃべり出来るって、あの人はすごいわ」
美穂はそう言いますが、私はあることに気付いて、
「神田家の人だって、娘の元の彼といまだに仕事してるんでしょ?」
と、言ってやります。美穂はちょっと驚いた顔をしてから、
「たしかに、うちの親もすごいわ。って言うか、世の中そんなもんなの?」
と言い、二人でまた笑いました。私は笑いながら美穂に切り出します。
「今まではっきり聞いたことなかったんだけど、生きてるうちに教えてくれない?」
「その前置きで聞かれると怖いんですけど。何?」
ちょっと真顔に戻って言う美穂。
「なんでマー坊と結婚しなかったの? なんで別れたの?」
美穂は手元のグラスを見つめて、言葉を探している様子。
「⋯うまく説明できない、と思う」
「⋯⋯」
私が黙っていると、やがて話し始めてくれます。
「彼のね、心に近付けなかった。彼の心の中には、彼女とか、奥さんとかが入る部分より、もっと内側に他の人がいるの。どうしてもその内側に入れないと思った。それで嫌になっちゃったの。我慢できなかったの」
「⋯それは、聡子?」
美穂は聡子のことも知っているので、私はそう聞きました。
「⋯と、あと二人。⋯かおりさんと、純子さん」
美穂はまっすぐ私を見て言います。
「私は、かおりさん、純子さんより正善さんに近付けなかった。正直、二人を妬んだよ。でも、三人の間に恋愛的な感覚が感じられなかった。だから、妬んでる気持ちが空回り。妬んでいられたら、まだ付き合っていられたかも。もう絶望だった。だから離れたの。私から彼に、ごめんなさいって言って。私、二番や三番は嫌だから」
私は聞いておきながら、言葉が返せませんでした。すると、
「な~んて、脅し文句で聞いてくるから、ちょっと意地悪に答えてみました」
美穂は明るい顔に戻って言います。でも、あれは本心だったのでしょう。私は申し訳ない気持ちになりました。でも、美穂に合わせることに。
「い~や、すごく意地悪だった。胸が痛いもん」
そういう私に美穂はこう言います。
「違う違う、今の話で胸を痛めるべきは、正善さんだよ」そして、
「三年近く頑張ったけど、ダメだったな」と。
「そっか、三年もそんな気持ち抱えてたんだ」
私はそう言ってから、まだ続けました。
「言ってくれたらよかったのに。そしたら私も純子も、美穂とマー坊のこと、もっと応援できたのに」
そう言うと、美穂は少し微笑んで、
「もうやめよ。私は旦那のこと大好きだし。旦那の中で私が一番なんだって信じられるし。子供たちだっている。今が幸せだから、昔の気持ちなんてどうでもいいの」
そう言いました。私もなんだか笑顔に。
「そっか、いい家庭なんだね。一度くらい美穂の旦那さんに会ってみたかった。かわいい子供たちにも」
そう私は言います。
「かわいいけど、疲れるよ~。男の子ふたりだからねぇ」
美穂はそう言ってから私に話を振ります。
「子供と言えば、綾ちゃんは元気? え~と、高校生? もう大学?」
「高三。受験生やってるよ」
「受験生か。大変だ。会いたいな」
「今日は夜まで塾だから、帰って来るの遅いよ」
「そっか残念、今日は帰らなきゃならないから、無理だなぁ」
美穂はそう言ってから、
「ほんとに大変だね、綾ちゃん。⋯大丈夫?」
少し声を落として言います。私の事と合わせて言っているのでしょう。私は努めて優しく言います。
「綾は強い子に育ってくれてた。今回のことでそれが良く分かったの」
「全然平気な顔してるの?」
「まさか、それはないけど。泣かせちゃったし、混乱もさせちゃった。かなり不安定にもなった。でも理解したみたい。どうしたらいいのか」
私がそう言うと、美穂は呆れたような表情を見せ、
「かおりさん、本気で言ってるなら、親失格だよ。理解するわけないじゃん。どうしたらいいかわかるわけないじゃん。強がってるだけ。いや、私の知ってる綾ちゃんなら、泣き顔見せたら悲しませると思って、いい娘やってるだけ。わかんない?」
遠慮なく言ってくれます。
「分かってるよ。でもいい娘をやってくれていることに、甘えるしかないの。私だって辛いよ。最終的には、私自身があの子をどん底に突き落とすことになる。その時私はもういない。何も出来ない。だから、それまで泣かさずに済むなら、綾の優しさ、強さに甘えておきたい」
私はまた、出来るだけ優しく言いました。美穂も表情を和らげます。
「かおりさんも素直じゃないね。その娘の綾ちゃんも一緒か。⋯でも、かおりさんはそれで最後まで甘えてられるけど、綾ちゃんは何に甘えるの? 最後が来たら、生きてるのが辛くなるくらい、泣くしかないんじゃないの?」
「⋯大丈夫。大丈夫だと信じてる。綾の周りにはたくさん味方がいる。何の疑いもなく、綾を守ってくれると信じられる人がたくさんいる。本当にありがたいこと」
こう言うと、平静を装っても少し目が潤みます。
「わかった。私にできることはほとんどないかも知れないけど。私も、綾ちゃんを守る人たちの中に入れておいてくれていいよ」
美穂はそう言ってくれます。そして、
「本当は、かおりさんのことを守りたいけど、それはかないそうもないから」
そういう美穂の目も、少し涙腺が緩んでいるようでした。そして、二人揃って氷が解けてしまった飲み物を、
「うすい」
「ぬるい」
微笑みながら飲みました。
美穂は私を家まで送ってくれてから、そのまま帰って行きました。帰り際に、近いうちにまた来るから、と言って。
平成十七年六月二十八日
母はこの数日で、目に見えて弱ってきました。家事も思うように出来ないようで、阿部のおばさんが助けているような状態。ちょっと動いては、ソファーで横になって休みます。二階の自室に行くのも一苦労なので、一階のまな姉の部屋を昨日の夜から使うようになりました。私も辛い思いです。覚悟なんてしたくありませんが、その時が、じわじわ近づいてくるのが分かります。悲しいなんて感覚ではありません。もう、おかしくなりそう、狂ってしまいそうです。それなのに、理解出来ない話がありました。まな姉も揃った夕食後。最近にしては食べれたみたいと、母の様子に安心したとき。
「綾、まなみの事なんだけど、秋からイギリスに行くことになったから」
と、母が言います。春先から耳にはしていましたが、このところ聞かなかった話。
「えっ?」としか言葉が出ません。
「前から誘われてた話なんだけど、正式に決まったの」
と、まな姉。私はなんとなくしか理解できません。
「なんで、⋯いつって?」
「9月末頃に行く予定」
まな姉の声がそう聞こえます。
「すごいでしょ。綾も喜んであげて」
母の声でも変なことが聞こえます。二人して何言ってるの? そんな話、百年後にでもすればいい。喜んであげて? 何を? あっ、きっと二人とも狂っちゃってるんだ。辛さのあまり狂っちゃったんだ。そうか、そう言うことか。私はゆっくりと、ダイニングの椅子から腰を上げます。
「もう、冗談言わないでよ。⋯しっかりしてよ。⋯冗談言わないでよ」
私はそう言い捨てて、自分の部屋へ駆け上がりました。
私は、綾の気持ちを思うと辛くなりました。当然だと思う反応でした。でも、理解して欲しい。とてつもなく、酷なことを望んでいることは分かります。私も綾よりもう少し若い時に、死の決まった母と過ごした経験者。受け入れきれない状況なのは分かっています。私自身、母の死までに、そのことを受け入れることは出来なかった。いえ、今現在、自分のことすら、本当は受け入れられていない。苦しい。潰れてしまいそう。でも、これから先がある方が優先。自分が未だ出来ずにいることを、娘には望むしかない。最後の最後に酷い母親だ。二階に駆け上がった綾を、そんな思いで見送っていた私に、
「姉さん、ごめん。どうすればいい?」
と、まなみが沈んだ声で言います。私は気を強く持たなければ。ここが正念場。これから先の二人の為に、私がこれ以上の障害になってはいけない。
「どうすればって、何を? 今更辞めるなんて言い出したら怒るよ」
私は少し明るめに言います。
「でも、さっきの綾の反応見たでしょ。無理だよ、やっぱり傍にいなきゃ」
そう言うまなみに、今度は真面目な顔で言います。
「傍にいて、まなみに何が出来るの?」
「⋯一緒に乗り越えることは出来る、と思う」
「それは時間の問題。時間が解決してくれる。私が経験済み。あなたもでしょ」
「⋯だけど、私や姉さんには、まだお父さんがいたよ」
「綾には阿部のお母さんたちがいる。マー坊も純子も。それに優美ちゃんも」
「⋯⋯」
まなみは俯いて、言葉を無くしていました。私は優しい口調に変えました。
「私はまなみの方が心配。まわりにそういう人がいないところに置かれるわけでしょ」
「⋯⋯」
「でもね、乗り越えて。まなみはまなみの仕事をして。必要とされているところで、全力で。綾の為に。私の為に。そして、まなみの為に」
「⋯わかった」
まなみは顔を上げて言いました。
「うん、がんばって」
「綾から酷い叔母だと恨まれるのは覚悟する。時間をかけて償っていく」
そう言うまなみに私は、
「そんなに時間はかからないと思う。綾は分かってるよ。しばらくは気持ちの方が前に出て、まなみのことを責めるかもしれない。でも、綾はそのまま感情にのまれたりしない。整理さえつけば、分かってくれるわ」
そう、願うように言いました。そんなことを娘に願う自分の酷さと、そんな試練を背負う綾の心は、今は考えない。まなみに巡ってきたせっかくのこの機会を、手放させないように。辛い気持ちの上に下した、妹の決心が揺るがないように。
部屋に逃げ込んだ私は後悔していました。でも、説明できない気持ちが溢れて、泣いていました。床に座り込み、膝の上で拳を握りしめながら。気付いたら、何で泣いていたのか、なんでこんなところで座り込んでいたのか、分からなくなっていました。さっきの話を思い出します。そっか、まな姉行けることになったんだ。良かったね。と、自然と思えてきます。さっきはなんであんなことをしてしまったのか、自分でも不思議な気持ち。でも、思ってしまう。九月末と言っていた。それは母の死の前なのか後なのか。私は壁に掛かったカレンダーの所に行きます。正座のような格好で座っていたため、足がしびれてふらつきながら。カレンダーを九月までめくりながら月数を数えます。五月に半年と言っていたので、十一月として、二か月前。母に何かあった時、行ってすぐみたいなタイミングで帰って来られるのか。もう少し時期がどうにかならないのか。そんなことを考えていると気付きました。いつの間にか、母が死ぬってことを普通に考えている自分に。よろよろとベッドに腰掛け、そのまま寝ころびます。信じられない、自分が。そんな思いで思考が止まりました。涙だけが溢れてきます。
どのくらい時間が経ったのか、ふすまを叩く音がします。私は歩いて行き開けました。まな姉が立っていました。私の顔を見て驚いた様子。酷い顔をしていたようです。
「姉さん、寝ちゃったから。私もしばらく部屋で用事したら寝るね」
と、言います。私は無言でほんの少しだけ頷いて、ふすまを閉めます。閉まり切る前に、まな姉が何か言おうとした感じがしましたが、そのまま閉めました。一呼吸ほど後、まな姉が向かいの部屋、母が使っていた部屋に入るのが聞こえました。ふすまを閉めた後、ふすまを背に私は立ちつくしていました。何も考えられないって思いと、これではダメだ、まな姉と話さないといけないと言う思い。深呼吸して横を向いたとき、姿見が目に入ります。正面に立ってびっくり。まな姉が驚いたのも頷けます。タオルで顔を拭いてから部屋を出ました。そして、向かいの部屋のふすまをそっと叩きます。
「入って」
と、まな姉の声。ふすまを開けて一歩入りました。部屋の奥、母が化粧台代わりに使っている、昔のまな姉の勉強机。そこにパソコンを置いて何かしていた様子のまな姉が、こちらに振り向いています。
「ロンドン行、決まっておめでとう」
そんなつもりはなかったのですが、棒読みのようになってしまいました。まな姉は何とも言えない表情で、
「ありがとう」
とだけ、言います。二人とも次の言葉が出てきません。お互いになんとなく俯きます。そのうちまな姉が、
「あの会社は私が入りたかったところ。でも、入れたと思ったら、やりたい仕事ではなかった。やりたいことが出来るところへの配属を希望しながら六年頑張った。そしてますます希望から遠ざかるところへの配属が決まった。それは、辞めろと言われてるのと同じ。だから会社を辞めた」
私の方を見て話します。
「⋯⋯」
「今お世話になってる会社では、前の会社で私が就きたかった部門と、競合するような仕事をさせてもらってる。と言っても、前の会社のその部門は、メジャーな映画やドラマの楽曲づくりをするところ。会社の規模が違いすぎて、競合するなんてレベルの仕事は望めない。でも、見返してやると言うつもりで、精一杯今の仕事を丁寧にこなしてきた。その私の仕事を見ていてくれた人がいたの。最初に配属されたところの先輩。部署が違ったから上司ではなかったけれど、十個も上の大先輩。その人が今度のイギリス法人の実質ナンバー2になった。そして私を誘ってくれた。楽曲制作部門の一員として。一度退職した人間を復職させるなんて、社内で問題になったはずなのに。だから私はこの話を断れない。そこまでしてもらった私が、それだけの仕事が出来るのかどうか、見極めるためにも」
途中から顔を上げた私の目を見たまま、まな姉はそう言いました。
「まな姉が、映画の音楽とか作りたいって言ってたのは知ってる。がんばって」
私はそう言えました。まな姉は申し訳なさげな顔で、
「こんな時期に重なってごめんなさい。でも行くから。うん、がんばるから」
そう言います。私はもう二歩近づいて、
「エンドロールでまな姉の名前見るの、楽しみにしてる」
微笑んで言えました。
平成十七年七月一日
昼過ぎにマー兄が来ました。が、姉は寝ていました。昼食をほんの一口、二口ほど食べた後、薬を飲んで寝てしまいました。マー兄は姉の寝ている部屋をチラッと覗いてから、台所へやって来て椅子に座ります。
「昨日、中学時代からの友達三人と飲んだんやけど」
そう言います。
「うん、そう言うてたね。酒井さんの店行ったって聞いたら、姉さんも行くって言ったんやけど、さすがにやめさせたよ」
と、私。酒井さんのお店はうちからすぐ近く。実家の定食屋を継いだ人です。
「ああ、(酒井)敏和も同級生やから。しかもその敏和と、柴は小学校から一緒やったから」
マー兄がそう言うのを聞いて、
「柴さんは知ってる。昨日はあと誰が一緒だったん?」
と、私は聞きます。
「藤原と福井」
「福井さんも知ってる、ちっちゃい人でしょ? 藤原さんは名前も聞いたことないかも」
「ちっちゃい言うな。男性にしては背が低いくらいの表現にしとけ」
「一緒やん」
二人で少し笑いました。
「藤原もかおりと友達や。で、みんなかおりのこと知ってて、心配してるんや」
「そっか、どっから伝わってるか知らんけど、知ってる人多いね。会いに来た人は二人だけやけど、電話は結構かかって来るよ。中学校、高校、短大の同級生から何人も。姉さんが起きてて、体調良さそうな時だけ代わってる」
私が溜息交じりに言うと、
「旧友からの電話やと、無理して元気にしゃべりそうやもんな、かおりは」
マー兄がそう言います。
「そうやの、電話切ってからしんどそうにしてる。姉さんの携帯知ってる人が少ないのは救いかも」
私がそう言うと、マー兄は腕組みをして、
「あいつらの見舞いも断るか」と呟きます。
「さっき言ってた人たち? お見舞いに来たいって?」
「うん、そういう話になったんやけど、パジャマみたいな格好で寝てるとこ、見られたくないかもしれんやろ。しかも子供のころからの友達って言うても、みんな男やからなぁ。ちょっと遠慮したってくれって言うたんや。気持ちは伝えとくって」
そう言うマー兄に、
「そうやねぇ、その方がええかも。ん? マー兄は男やなかったってこと?」
と、言ってやります。
「いやいや、俺も気にはしてるんや」
「うそうそ、マー兄はええよ。家族みたいなもんや」
「そう言ってくれると助かる。気にはしても、やっぱり様子見たいからなぁ」
「私かって風呂上がりのスウェット姿とかしょっちゅう見られてるけど、そんな時は大抵ノーブラやし」
「あほ、そんな生々しいこと言うな」
「想像したやろ。やらし、これから注意せな」
なんてやり取りをしながら私は思います。私に小中学校からの友達がこれだけいるかなって。姉と七つ違う私。年齢的な人口では私の年の方がかなり多かったはず。でも私の時は分校が沢山作られ、小学校も中学校も同級生の数は、姉たちの三分の一くらい。小学校、中学校共に姉と私は同じです。小学校の同学年、私は三組まで。姉は八組まで。中学校では私は七組まで、姉は二十一組まで。これがその差なのかと思ってしまいます。そんなことを考えていると、
「ここで仕事してるんか?」
と、マー兄の声。ソファー前のテーブルに置いたノートパソコンと、周りに散らばるペーパー類を見ています。
「うん、二階の部屋にいると姉さんの様子分んないから。ここで使えるようにノートパソコン買っちゃったよ」
私は言います。
「大変やな」
と、マー兄が言ったところで、玄関をノックする音がします。私は玄関に出て、開けっ放しにしていた姉が寝ている部屋のふすまを閉めてから、
「はい」と答えます。
「かおりさんの小学校からの友人で、道柳と申します」
と、女性の声。私は玄関の引き戸を開けます。小柄で童顔の女性が立っていました。なんだか純子さんに似ていると思いました。その方は小さくお辞儀をしてから、
「妹さん? 確かまなみさんでしたよね。ご無沙汰してます」
そして、今度は丁寧に頭を下げて挨拶してくれます。私は名前も顔も覚えがなく焦ります。
「あ、はい、まなみです。あの、お会いしたことあります? ごめんなさい、私は全然思い出せなくて⋯」
「そうかもしれないですね。私がここに遊びに来ていたころ、まなみさんはまだ幼稚園とか、小学校入ったころだったから」
道柳さんは優しい顔でそう言います。
「慶子、久しぶりやなぁ」
と、突然後ろからマー兄の声。居間と玄関の境まで出て来ていました。
「え~、阿部君? なんであんたおるの?」
さっきまでの、丁寧で優し気な口調はどこ行ったって感じで、道柳さんが言います。
「とりあえず上がれよ」と、マー兄。
「上がれって、あんたのうちとちゃうでしょ」
と、私を見る道柳さん。
「あ、どうぞ上がってください」
と、私は言ってから、先に居間に入り、広げたノートパソコンやらを片付けます。玄関に上がった道柳さんに、
「かおり、そこで寝てるんやわ。そっと顔だけ見たって」
と、マー兄は言ってから居間に入ってきます。
「そう」と、声を落として道柳さんは言い、姉の部屋をそっと覗いたようです。
そのあと居間の入り口まで来た道柳さんに、
「どうした? 入って座ったら?」
と、ソファーを示すマー兄。
「なんか自分の家みたいやね。あ、そっか、阿部君ちって、隣かその向こうくらいやったっけ?」
と、話しながら玄関に近い、一人掛けのソファーに座ります。
「そう、その辺や」
と、答えるマー兄。私は麦茶を人数分、テーブルに置きました。
「まなみさんお構いなく。それとこれ、かおりに」
と、手に持っていた花束を差し出してくれます。
「ありがとうございます」
と、私がお花を受け取ると、
「かおり、あんまりよくないん?」
と、慶子さんはマー兄に聞きます。
「今週は俺も昨日の昼に帰ってきただけやから。昨日の夕方話した時は、ちょっとしんどそうかなってくらいで、普通に会話してたけど。あとは寝顔しか見てへん。どう?」
と、マー兄は答えながら私に振ります。
「日曜日はまだ普通にしてたようですけど、月曜日くらいから、ちょっと動くだけですぐ横になるようになったみたいです。私も先週後半から月曜の夜までいなかったので、その間のことがよくわかりません」
私はそう答えます。慶子さんは少し暗い顔になって、
「そう、辛いんやろねぇ」
と、言います。
「ま、慶子の顔見たらちょっとは元気になるんちゃうか」
と、マー兄。
「だと嬉しいけど」
慶子さんはそう言ってから続けます。
「ねぇ阿部君。私が慶子やってなんでわかったん? 顔見た瞬間やったでしょ」
「何でと言われてもなぁ⋯。慶子は慶子やから」
私は意味が分かりません。
「なんかくやしい。結構分らん人多いのに。特に共通の知人で、久しぶりで会う人はまず分らんのに」
「強いて言えば、優子と違うってことで分かるんかな、俺の場合は。だいたい、優子は俺のこと阿部君とは呼ばんし」
「なる。優ちゃんと阿部君って、何回も同じクラスになってたもんね」
「何回もって、小4と、中学は1年と3年、3回か」
「あれだけクラスあって3回一緒やて、すごい確率やよ。結婚すればよかったのに」
「あほ」
話の分からない私が、二人のやり取りを台所から眺めていると、
「道柳は双子の姉妹なんや。こっちは妹の慶子。で、お姉さんが優子なんや」
マー兄が私に説明してくれました。
「最初に説明せないかんかったよね、ごめん、まなみさん」
慶子さんはマー兄と話す調子のままそう言います。ま、丁寧なのは気を遣うのでその方がいいけど。
「いえ、全然構わないですよ」
私はまだ丁寧に返します。
「私はかおりとも、阿部君とも、同じクラスになったことないんやけど、姉が二人と仲が良かったから、私も一緒に遊んでたの。それで私もかおりと仲良しに」
「そうだったんですか」
と、私。するとマー兄が、
「慶子はかおりのこと誰から聞いた?」
と、聞きます。
「優ちゃんから、昨日の夜」
「優子は誰から聞いたか言うてた? って言うか、二人ともまだこの辺りにおるんか?」
と、マー兄はさらに聞きます。
「優ちゃんは一家揃って東京行ったよ。正確には千葉か? 習志野ってとこ。私はまだ一人やけど、実家には居りづらいから駅前のマンション。前に純子が住んでたとこの近く」
そう言いながら携帯電話を出して、電話をかけようとする慶子さん。
「どこにかけてるんや」
と、言うマー兄を無視して、
「あ、優ちゃん? ちょと待ってね」
と言って、携帯電話をマー兄に渡しながら、
「優ちゃん、自分で聞いて」
と、慶子さん。
「あの、阿部です。ご無沙汰」
電話を受け取ったマー兄が話し始めます。
『阿部って、マー坊? え~、ご無沙汰ご無沙汰。なんで慶ちゃんとおるん? あ、付き合ってるんなら早く教えてよ』
電話機から大きな声が聞こえてきます。
「お前変わらんなぁ、ほんまに」
『変わってないわけないやん。子供二人もおるんやよ、中三に小六。中三や言うのに長男は全然勉強せんと部活ばっかり。部活引退したら勉強するとか言うてるけど、高校なら進級出来へんくらいの成績なんよ。引退してから勉強して行ける高校あるんかなって心配やわ。で、下は女の子なんやけどもう私より背高いんよ。おまけにかわいい服より大人っぽい服がいいとか言うから洋服代もかかってしょうがないし。ほんまに大変。ところでマー坊・・・』
「一人でしゃべるな」
マー兄が途中で遮りました。
『そう? そやそや、慶ちゃんから聞いた? かおりのこと。あ、マー坊んとこは家近いから知ってるか』
「そのことで聞きたいことがあったんや」
『何?』
「かおりのこと、誰から聞いた?」
『なんで?』
「いや、特にどうってことはないんやけど、最近一気に話が広まってるから」
『ふ~ん、私は彩子から。昨日別の話で電話掛かって来て、その時に教えてくれた。近いうちに二人で一回そっち行くから、かおりの顔見に』
「彩子?」
『あ、マー坊は知らんかな? 短大の時の友達』
「そっか、優子とかおり、短大でも一緒やったんやな」
『うん。ところでかおりどうなん?』
「あんまりよくないなぁ」
姉の話題になり、優子さんもトーンダウンしたようで、電話の声がほとんど漏れて来なくなりました。
『そっか、どうしようもないんやろうけど、どうにかしたいよねぇ』
「ほんまに」
『マー坊は、⋯ううん、かおりのことしっかり頼むで』
「頼まれてもなんも出来んけどな」
『⋯おるだけでええの。傍におるだけでええの。正善、頼んだぞ! じゃね』
マー兄は携帯電話を慶子さんに返しました。
「切れた?」
携帯電話を見ながら慶子さんが言います。
「後ろで子供の声がしたなぁと思ったら、じゃねって」
「そろそろ帰ってくる時間かな。ま、優ちゃんのマイペースっぷりは全然変わってないから」
慶子さんはそう言ってから、今度は私に聞きます。
「まなみさん、かおりってしばらく起きないかなぁ」
「さあ、⋯ちょっと見てきますね」
私は姉の部屋へ行き、ふすまを開けました。目が合いました。
「なんか懐かしい声がした」
姉が嬉しそうに言います。
「えーと、道柳慶子さん、来てるよ。ここ、入ってもらう?」
私が聞くと頷きます。
「慶ちゃんか、懐かしい」
居間に戻る私の後ろで、体を起こしながら姉がそう言っていました。居間に戻って、姉が目を覚ましていたのでどうぞと言うと、慶子さんはありがとうと言って姉の所へ行きました。マー兄は付いて行きません。
「マー兄はいいの?」
私が聞くと、
「女同士の話もあるでしょう」
と言います。マー兄はいったん家に帰ると言うので、
「慶子さんが帰るまではいたら? 見送ってあげてよ。こっち来て、コーヒー淹れるから」
私はそう言ってダイニングに呼びます。
「じゃあ、ご馳走になろうかな」
と、マー兄はテーブルに着きました。
小一時間ほどして、慶子さんは姉の部屋から出てきました。
「まなみさん、ありがとう。今日はこれで失礼するね。阿部君もまたね」
と、玄関から声をかけてきます。私とマー兄は玄関に向かいます。玄関には姉も出て来ていました。靴を履いている慶子さんと、何か言葉を交わして笑っています。
「駅前なら車で送ろうか?」
と、言うマー兄に、
「ううん、実家寄ってくからいい」
と、慶子さん。でも何か思い立ったようで、姉に見えないように手招きしていました。マー兄はそれに気づいて、
「じゃあそこまで送ったるわ」
と、出て行きます。
「かおり、また来るね」
と、手を振る慶子さんに、姉もまたね、と応えます。
山中家を出て、町内から府道へ出るあたりまで来ると、慶子は立ち止まって言いました。
「実際どうやの? かおり。癌の末期って聞いてたんやけど」
「どうって、その通りや。あと数か月ももたんと言われてる」
正善は答えます。
「そんな⋯、なんで? まだあんなに元気そうやのに。何とかならへんの?」
「なるもんなら、何とかしてる」
「そやけど、⋯辛いわ」
慶子は涙をにじませていました。そして、
「かおりって子供いたよねぇ、娘さん」
と、言います。
「ああ、綾って名前や」
「綾ちゃん。いくつなん?」
「高三や、誕生日は年末やから、まだ十七かな」
「受験生やん。大丈夫なん?」
「今は何とか、波はあるけどな。でも、いよいよの時はわからん」
正善は難しい表情で言います。
「わからんって、あんた親しくしてるんやろ。あんたらが守ったらな」
慶子は優しい口調で訴えます。府道を挟んだ向かいには、何年か前に出来たばかりの府の施設があります。その敷地の道路沿いには花壇があり、沢山の紫陽花が咲き誇っていました。正善はそれを眺めながら、
「俺も自信ないんや。いよいよって時に、綾を気遣ってる余裕があるかどうか。⋯自信ないんや」
ぽつりと言います。慶子は正善の腕に触れて、
「そやな⋯」
と、一言だけ。慶子も紫陽花を見ました。やがて、
「傍におったって。傍におるだけでええから。傍に親しい人がおるだけで、救われるから」
慶子はそう言いました。正善は少ししてから苦笑します。
「ん? なんかおかしいこと言った?」
慶子が聞きます。
「いや、優子にも同じこと言われた」
そう言う正善に少し元気な声で、
「そりゃ姉妹やもん、しかも双子の」
と、言います。そして少し言葉を交わした後、またねと、慶子は実家に向けて去って行きました。
慶子を送って行ったマー坊は、しばらくしても帰って来ませんでした。私はマー坊とも話がしたくて、居間のソファーに座っています。まなみがホットミルクと言って、マグカップを私の前に置きますが、なんだかピンク色。聞くと、いちご風味シロップなるものを入れたとか。かき氷の? と聞くと、違うと。何かわかりませんが、一口飲んでみます。おいしい。暖かくて甘いミルクが、口の中に広がって気分が良かったです。もう少し甘めでもいい。そう言おうとしたところに、マー坊が帰って来ました。
「お帰り。家まで送ったの?」
居間に入ってきたところに話しかけます。
「いや、ちょっと昔話してた」
と、マー坊。私の横にはまなみが座っていたので、一人掛けの方に座ります。
「マー兄も飲む? ホットミルク」
まなみが言います。
「俺はええわ。コーヒー残ってたら欲しい」
「了解」と、席を立つまなみ。
「慶ちゃんに会えて嬉しかった。多分、十年以上会ってなかったと思う」
私が言います。
「慶子は今も近くに住んでるらしいけど、そんなに久しぶりなんや」
「うん、住んでるの駅前でしょ。実家に用があっても、ここは通り道やないもんね。優ちゃんも東京行ってからはほとんど会ってないし」
「そっか、お前のことは優子が、彩子って人から聞いたらしいぞ」
マー坊のその言葉を聞いて、私は驚きました。
「彩子。そっか、彩子か」
私はマグカップの中のピンク色を見つめながら言います。
「短大で出来た親友。大親友。会いたいなぁ」
「優子と近々来てくれるみたいやぞ」
「うそ、彩子が?」
「優子がそう言うてた」
「彩子、日本に帰って来てるんや」
私はマー坊の顔を見つめていました。
「嬉しそうやな」
マー坊がそう言います。私は話そうかどうか少し悩んでから、この二人には話しておこうと思い、口を開きました。
「うん、綾って名前はね、彩子からもらったの」
「そんな人がいたんや」
まなみが横から言います。
「うん、誰にも話したことないから」
「⋯⋯」
「彩子がいなかったら、綾を産んでなかったかも。彩子がいなかったら、綾はいない」
「⋯⋯」
二人とも驚いた顔、でも無言でした。これは続きを促されてるのかな⋯。
「短大を出て、彩子はアメリカの大学に留学が決まってたの。向こうの学校は秋からみたいだけど、夏までに向こうに行くことになってた。向こうの生活に慣れるために。だから卒業後、私の妊娠が分かって、日本を発つまでの短い時間の中で、産むことを決心させてくれた。産む気のなかった私を叱ってくれた。生まれた命を消すなって。お父さんも健在だし、楽じゃないだろうけど育てられるって。なにより、産まなきゃ私が将来後悔するって。そしてきっと、産んで良かったって、この子に会えてよかったって思えるからって。⋯本当にそうなった」
私は今まで誰にも言ったことのないことを話しました。
「俺や純子に言う前に、そんなことがあったんか」
マー坊が言います。
「ごめんね。マー坊や純子には最初、話しづらかった。妊娠のことは」
「いや、単にそんなことがあったんやなって思っただけ。結果、俺たちは綾に会えた。それで十分」
マー坊がそう言ってくれます。ですがまだ何かを言いたそうに感じました。私はマー坊の顔を覗きました。すると、
「なんや?」
と、聞かれてしまいました。
「え~、なんか言いたそうやったやん」
私がそう言うと、
「そうか? 別になんもないよ」と、一言。
「ならいいけど。あ、綾には今のこと絶対に言わんといてね。お願い」
私は二人を交互に見て言いました。二人は、分かってると、頷いてくれました。
なんだか今日は調子が良く、そのあとも三人でしゃべっていました。ですが、携帯電話を持って席を立ったマー坊が帰って来たところで、
「仕事ええの? こんなにしょっちゅう帰って来てくれなくてええよ」
と、私は言います。
「ええのって、今暇なんや、実際。今日はたまたま現場で揉めてるみたいやけど、大したことないから」
と、マー坊。私はちょっと意地悪に言います。
「たまたまねぇ、最近トラブル多いって、あるところから聞いたんやけどな」
「あるところ? どこや?」
「ま、小さいトラブルやからええみたいやけど、結構振り回されてるみたいなこと言うてたよ」
マー坊は考えてるようです。そして、
「美穂か? 美穂と話したんか?」と。
「もうよその奥さんやのに、呼び捨てでええの?」
からかうように言ってやります。
「いや、まぁ、よそではちゃんと美穂さんって言うてるけどな」
と、言い訳のマー坊。
「ふ~ん。そ、美穂から聞いた。先週会いに来てくれたの」
「そっか、来たんか。って、先週? 俺があいつにお前のこと話したんは、確か金曜やぞ」
「じゃあ、すぐに来てくれたんや。土曜日に病院から帰ってきたら、うちの前で待っててくれたから」
「思い立ったらすぐや、あいつらしい」
マー坊がおかしそうに言います。
「嬉しかった。美穂曰く、5年ぶりやったから、ほんとに嬉しかった」
私はそう言ってから一つ思い出し、マー坊に言います。
「美穂と昔話してて、二人が付き合ってた頃にみんなでスキー行った話が出たの」
「行ったなぁ、野沢やろ」
「そ、野沢温泉。もう一回行きたい」
「はあ?」
マー坊は呆れたような、困ったような顔をします。
「スキー場の上の方から見た下の平野と、千曲川だっけ? その雪に覆われた景色。あの景色大好き。忘れられへんの。もう一回見たい」
「私、行ってないよねぇ」
まなみが横から言います。
「まなみは大学で東京にいたころやわ。綾は初めてのスキー体験やった。楽しかった」
「⋯⋯」
二人は顔を見合わせています。
「ま、雪景色までは待てへんから、マー坊が暇な今のうちに連れてってくれへん?」
私は、私が動けるうちにと言いそうになりましたが、そうは言わずにおきました。
「う~ん、かまへんけど、明日診察やろ? そんな遠出してええか、先生に聞いてからにせえへんか?」
と、マー坊。ま、当然でしょう。私自身も行けるかどうか不安はあるし。寂しく、悲しく思いますが、しょうがない。
「わかった。先生がいいって言ったら、絶対に連れてってよ」
私は明るく言います。
「喜んで」と、マー兄。
「今度は私もついてくよ」
と、まなみも言ってくれます。
その夜、姉が寝てからマー兄に電話しました。マー兄は夕方話した後、このまま名古屋に帰ると言っていたので、今は自宅のはず。台所で声を抑えて話しました。姉が起きても聞こえないように。2階の綾にも聞こえないように。
「今日、○○さんのこと、姉さんに言おうとしたでしょ」
私は問いかけます。優子さんや彩子さん、姉の短大時代の友達ネットワークは今も健在な様子。昼間、私も不安に思ったことを、マー兄も感じていたのは気付きました。でも、あの時は何も言いませんでした。そのことを話したかったのです。
『⋯短大の友人のルートで、綾のことを知ってる可能性があるのか聞こうと思ったけど、思い直した』
マー兄の返事。私の不安とズバリ的中でした。
「思い直したって、何で?」
『⋯当時、○○とは少なからず俺も付き合いがあった。で、あいつの性格を考えると、何のメリットもないのに、これから娘一人引き取って、育てないかんようになるような、そんな可能性が発生することをあいつがするとは思えん』
「と言うことは?」
『綾のことを知っとっても接触してこんやろうし、接触したとしても、自分から父親やとは言い出さんやろうってことや』
私は考えます。そして次の疑問が出てきます。
「この前姉さんに会いに来たんは、なんか思惑があったん?」
『あの時は単に、感傷的になって来たんやろな。誰かからかおりが長くないって聞いて。だから、あの時に綾と出くわしてたら危なかったかも知れん。感傷的なまま名乗ったかも知れん』
マー兄はそう言います。
「また感傷的な気分になったら来るかもってこと?」
『綾のことを知ってたら、もう現れんと思う。知らんかった場合は、わからん。またそう言う気分で、葬式にでも来られたら危ない』
私は、葬式って言葉に一瞬、思考が止まったように思います。マー兄はもう、そんなことまで考えているのかって気分になりました。その間を、私が深刻に受け止めていると思ったようで、
『まあ、あの時俺と純子にきつめに拒否されてるから、もう来ることはないと思うよ』
と、言ってくれます。
「純子さんも何か言うたの? あの人に」
『目でな。純子は窓から睨みつけてた。あいつもそれに気づいてた』
「そうやったんや。じゃあ、とりあえずはええんかな?」
『多分な。相手がおることやから、なんぼ考えても限界があるからなぁ。そう思ってかおりに言うのやめたんや。心配事を増やすだけになったらいかんから』
「わかった。ありがとう」
私は電話を切りました。マー兄の考えでいいと思いました。階段で足音がします。まさか綾が聞いてた? でも、聞かれても何のことかわかる内容では無かったはず。わたしがそんなことを考えていると、綾が居間に入ってきました。ソファーテーブルのノートパソコンに電源が入っているのを見て、
「ちょっとパソコン使っていい?」
と、言います。
「ええよ」と、私。
「二階のパソコン、電源入ってなかったから」
と、言いながら、マウスを操作する綾。やがて、
「野沢温泉って遠いね。どうやって行くの? 新幹線あるの?」
と、画面を見ながら言います。どうやら夕食時に姉が話したのを受けて、もう行く気になっている様子。私は苦笑しながら綾の横に行き、
「ま、車でってことになるやろね」
そう言います。
「車でここまで行くって、何時間かかるの?」
そう言う綾に、それが問題、姉さんの体力が、そんな長時間の車移動に耐えれるかどうか。と、言いたいですが、言えるわけもなく、少し困りました。
平成十七年七月九日
先週の土曜日(七月二日)、定期診察に行く姉に同行しました。前日に出た旅行の話を先生にします。万全の準備をして行ってくださいねと言われ、反対されませんでした。それから姉は嬉し気にしています。その夕方、いつものように先生から電話がかかってきました。色んな数値が悪くなっていることを、まず聞かされました。そして旅行の件、旅先で何かあった場合、その時に行った病院で入院となり、そのまま転院も出来ないかも知れない。それを覚悟するように言われました。でも、本人はとても喜んでいるようなので、行ける可能性があるうちに行った方が良いかも知れない。そう言う話でした。私はそのままマー兄に伝えました。マー兄は準備はしておいて、直前まで様子を見ようと、そう言いました。宿も以前の民宿を予約しておくとのこと。そこは、マー兄が学生時代のスキーシーズンに、泊まり込みでバイトしていたところだと聞きました。宿の人ともそれなりに親しいので、姉のことを話して、色々と協力してもらいやすいとの判断でした。野沢温泉と言えば外湯巡りで有名です。でも姉には無理だと思うので、お風呂の充実したホテルや旅館を私は提案したのです。しかし先程の説明で私も納得しました。そこも民宿とはいえ、何年か前に改修されて、お風呂も広くきれいになっているとか。温泉に行くことになり、お風呂にこだわる私も、かなり楽しみにしている証拠でした。当然綾も行くので、来週の土日と決めました。
六日水曜日の定期診察にも同行。特にその場では何もなし。いつもと変わらぬ内容でした。夕方の電話でも前回とはそう変化なしと。でも、その電話を切ったころに姉が、背中の痛みを訴えました。時々あること。いつも通りに、処方されている鎮痛剤を飲ませます。ですが夕食後、綾が自室に上がるなりソファーに座っていた姉が顔を歪めて私を呼びます。夕方の痛みがぶり返してきて、さらに痛いとのこと。飲むタイプの鎮痛剤で効果が弱くなってきたら使うようにと、座薬タイプの鎮痛剤がありました。冷蔵庫に保管していたのでそれを取りに行きます。痛そうにしている姉には申し訳なかったですが、初めて使う薬。最初にもらっていたマニュアルで使い方や注意点を確認します。それから入れてあげました。薬が効いたのか、しばらくすると落ち着いたようで、そのまま眠ってしまいました。マニュアルに、使った後は三十分程度注意してくださいとありました。呼吸が苦しそうでないか、冷や汗をかいていないかなど。念を入れて一時間見守りました。
今週は土曜日が旅行予定のため、定期診察は八日金曜日に変更。内容は前回と同じ。水曜夜に座薬の鎮痛剤を使ったことを、木曜の朝に報告してあったので、その後を聞かれました。昨日夕方に、今までと同じ鎮痛剤は飲んだが、それ以外はなしと伝えました。それは良かったの一言でした。先生は旅行用に車いすと、呼吸補助用としてボンベとマスクを用意してくれて、貸してくれました。夕方の電話でも数値的な変化はほとんどなし。旅行を楽しんで来てと言ってくれました。ただし、痛みに関しては頻度が多くなり、毎回座薬に頼らなければならなくなるかもと言われました。夕食時に綾が、優美も一緒に行くからと嬉しそうに言います。こいつは、とも思いましたが、母親との最後の旅行になるであろう今回。思い切り楽しんでほしいと、いい思い出にしてほしいと思いました。それは私も同じ思い。マー兄が夕食後に顔を出しました。自分のミニバンではなく、知人の高級ミニバンを借りてきたとのこと。少しでも乗り心地よく、負担が少ないようにと言う配慮。ありがとう、感謝です。
当日の朝。姉が少ししんどそうです。朝食もほとんど食べれず。昨日までは旅行を楽しみにして、テンションの高さを見せていたので、そのギャップで尚更しんどそうに見えます。熱を計ってみました。七度八分、高いです。とりあえず出発見送りです。ベッドに寝かせて安静に。すごく落ち込んだ顔をします。遠足に行けなくなった子供のよう。そう思ったら本当に子供がいました。優美ちゃんの落ち込みは姉以上。楽しみにしすぎて、私が起きたころに家にやって来ていただけあります。お昼までに熱が下がったら行こう、等と言ってましたが、まあ無理でしょう。綾が二階に連れて行ってくれて助かりました。東さんの家にはマー兄が連絡に行ってくれました。阿部のお母さんもうちに来て、居間でなんとなく話していました。するとマー兄が、
「八時半になったけど、そろそろ先生に電話してみるか?」
と、言います。
「あんたまだ行く気なの?」
と、お母さん。
「ちゃうわ、熱が出たことを相談するんや」
「ああ、そうやね」
と、お母さん。そして、
「そういう話するなら、今の体温も計っといた方がええよ」
と、言ってくれます。私は姉の所へ行きました。寝ていましたが、熱を計りました。七度四分。少し下がっていますが、平熱よりは高い。私は先生に電話して、それらのことを伝えました。先生からは、目を覚ました時に八度以下で、ひどいだるさや眩暈などがなければ、そのまま安静にさせておくようにと。八度を超えていたり、酷いだるさなどを訴えるなら一度連れて来るようにと言われました。昨日も旅行のことを楽しみにしている様子だったので、興奮して熱を出したのではないかと言われました。電話を切って、そのことを二人に言うと、
「いい年して子供みたい」
と、お母さんは一言言って帰って行きました。マー兄は九時を過ぎてから宿に電話して、事情を伝えていました。私はコーヒーを淹れて、台所のテーブルに着いているマー兄の前に置きます。私もマグカップをもってマー兄の前に座り、
「もう無理かなぁ。あんなに行きたがってたから、連れて行ってあげたいけど」
と、言いました。マー兄は何も言わずにコーヒーをすすります。
「ほんとに残念」
私は呟きました。
「落ち込んだ顔は見せるなよ」
と、マー兄。私はマー兄を見ました。
「また来週にでも行こう、くらいの顔しとけよ」
再びマー兄が言います。
「わかった」
私は笑顔で答えました。
大体三十分間隔で姉の様子を見に行っていました。十時半ころに見に行った時に、姉は起きていました。トイレに行きたいと。トイレを済ましてベッドに戻るかと思ったら、ソファーに座りました。私は姉に体温計を渡して計るように言ってから、居間のエアコンの温度を少し上げました。今日は朝から暑い日で、しかも台所にいたのでエアコンの温度をかなり低めに下げていました。麦茶を入れて姉の前に置くと、体温計を手渡されます。六度八分。発熱したとき用の薬を飲ませていたおかげでしょうか、下がってくれていました。
「ごめんね、私のせいで行けなくなって。みんな楽しみにしてたのに」
姉はそう言います。
「大丈夫、かおりほどみんなは残念がってへんから」
マー兄が笑顔で言います。
「ひどい、私だけ盛り上がってたみたいやん」
そう言う姉に、
「気分は? ふらついたりしてへんか?」
と、マー兄が聞きます。
「大丈夫。それよりお腹減った。何か食べたい」
姉が言います。
「何かって、何か食べたいもんある?」
と、私は聞きます。
「ぐちゅぐちゅのフレンチトースト。甘いやつ」
「わかった、作ったる」と言う私に、
「焦げてるのとか、中が冷たいのは嫌やよ」
と、言う姉。いらんこと言うな。
「沢山作るから、うまくできた奴だけ食べて」
と、私は言ってからマー兄に、
「マー兄、家帰って食パンもらって来て」
と頼みました。マー兄は取りに行ってくれましたが、食パンと一緒にお母さんも持って来てくれました。結局お母さんに教わりながら作ることに。出来たものを見て、俺もと言うマー兄に続いて私も手を上げました。でもそれが出来上がるころに、二階からタイミングよく降りてきた二人に持っていかれて食べれませんでした。ですが、食パン一枚分を姉がおいしそうに食べたのを見て安心しました。もうお昼前と言う時間だったので、それを昼食として、食べ終わったあと薬を飲ませます。そしてベッドに行かせようとしたら、
「私もここでおしゃべりしたい」
と、ソファーに横になる姉。でも少し話しただけで寝てしまいました。二階の二人がまた降りてきます。寝ている姉を見て、少し小さめの声で言います。
「お昼ご飯どうするの?」
二人が持って上がったのは結構な量があったのに⋯。と思っていると、
「次のご飯のこと言う前に、前のご飯の食器持って来なさい」
と、お母さん。綾が返事して取りに上がりました。残った優美は、
「今日は長野にいるはずだったから、お昼はお蕎麦の気分なんだよねぇ」
と、大人のようなことを言います。
「うん、いいねぇお蕎麦」
と、マー兄も同調。でも食べに行けないよなぁ、買いに行く? 出前? なんてことを考えていると、
「かおりは私が見てるから、みんなは食べに行ったら?」
と、お母さんが提案。お皿を持って降りてきた綾は、少し母親のことを心配した様子。でも、優美に押し切られて同意。姉のことをお母さんにお願いして、四人は出かけました。
マー兄は行き先を決めているかのように車を走らせました。私たちの通った中学校を通り過ぎて、ちょっと行ったところに昔からある団地。そこが目的地だったようです。団地の敷地内に何棟かある建物とは別に、2階建ての大きめの建物がありました。その前の駐車場に車を停めます。そこはスーパーでしたが、スーパー以外のお店も何軒か入っています。その中の一軒がお蕎麦屋さんでした。車を降りてそのお店に歩きながら、
「知ってるお店?」
と、マー兄に聞きます。
「吉岡って言うて、中学の時の同級生の店なんや。2年くらい前に会社辞めて、店を継ぐって言うてたから、一度来てみたかってん」
マー兄がそう言ってるうちに着きました。店の引き戸を開けて中に入ると、若い女性が迎えてくれます。4人掛けのテーブルが7か所、カウンターに4席のお店でした。ちょうどテーブル席が一つ空いていたので、そこに案内されます。カウンターの前のテーブルでした。注文を終えた頃、
「ひょっとして、マーか?」
と、カウンター越しに厨房の中の大きな男の人が、こちらに声をかけてきます。綾と優美は、大きくがっしりした体格の男の人に、少し怯えた様子。なんだかかわいい。
「みっちゃん、久しぶり」
マー兄が手を上げて答えます。
「おお、久しぶり。やっと来てくれたんか」
と、吉岡さんが言います。でも忙しいようで、あとは仕事に戻ります。
「みっちゃんさん? 大きいね」
優美が吉岡さんの姿を目で追いながら言い、その言葉に綾も頷いています。
「あいつはあの体格活かして、柔道やってたんや」
マー兄が説明します。
「強そう」と、優美。
「そやろ、でもな、体格やないんやな、試合ではあんまり勝てんかったみたいや」
マー兄が吉岡さんを見ながら言います。
「でもあいつは柔道が好きやったから、ずっと続けてた」
「そういう人ってかっこいいよね。勝ち負けやない、好きやから、みたいなん」
優美が言います。さっき怖そうにしてたのは誰でしょう。そのうちに、吉岡さんが注文したものを運んできてくれました。
「ほんまによう来てくれた。嬉しいわ」
と、言います。
「もっと早うに来たかったんやけど、なかなか足が向かなんだ。わるい」
と、マー兄。
「ええよ、来てくれたんやから。で、奥さんえらい若いなぁ。初めまして、正善と子供のころからの友達の吉岡って言います。宜しく」
と、私に挨拶します。え、どないしょ、と思っていたら。
「あのなぁ、俺が一人もんやって知ってるやろ」
と、マー兄が訂正。
「やっぱりそやなぁ。俺の記憶違いかと思ってびっくりしたで。奥さんこんな若いのに、子供たちこんな大きいし、どうなってんねんって感じやった」
吉岡さんはマー兄の肩をもみながら言います。マー兄はちょっと痛そう。
「でも、そしたらどういう組み合わせやねん」
と、吉岡さん。結構鋭い質問。遠慮とかはないようです。
「え~となぁ⋯」
「私達みんな近所なんです。たまたまお昼ご飯どうしよって時に四人そろったから、一緒に来たんです」
答えあぐねていたマー兄に代わって、優美が説明? それで通じるかな? 吉岡さんの動きが止まって優美を見ています。やがて口を開く吉岡さん。
「ええとこやなぁ、おっちゃんも近所に住みたいわ」
通じたようです。吉岡さんが面白い人だと言うのが分かりました。吉岡さんはそのあと、ゆっくり食べてってと言って、厨房に下がっていきました。
「あんた、滅茶苦茶言うたらあかんわ。怒る人は怒るねんで」
と、吉岡さんが遠ざかったのを見て、綾が優美に言います。
「いやいや、ちゃんと見てるって、みっちゃんさんはああいうこと言うても大丈夫なキャラやと思ったの。大丈夫やったでしょ」
と、優美。この年でこんな人を見る目があるなんて、ほんまやったら怖い。でも、キャラとか言うな。食事を済ませた私たちは、外で待っている人たちに追い出されるように、店を出ました。お勘定をしながら、マー兄と吉岡さんは少し話していたようです。楽しそうに。
家に帰って来ると、優美は朝から玄関に置きっぱなしだった旅行用の鞄を持って、綾の部屋に上がりました。自分の家に帰る気はないようです。泊ってく気かも。居間に姉の姿はなく、部屋で寝ているとのこと。そっと覗くと、苦痛に顔を歪めることなく寝ていたので安心。マー兄は台所の椅子に座って、お母さんと話しています。
「どこ行って来たん?」
と、お母さん。
「みっちゃんのとこ」
「ああ、吉岡君お店継いだって言ってたね。今度私も連れてってよ」
「ええよ」
私はマー兄の横に座りながら話に加わります。
「なんでみっちゃんなん?」
「光廣やから」
と、マー兄。そして続けます。
「みっちゃんはかおりのこと知らんかった」
私とお母さんは顔を見合わせます。
「知ってたらなんか言うと思うけど、なんも言わんかったから知らんのやと思う」
「で、帰り際に話してたん?」と、私。
「かおりのこと話したわけやないで。お前がかおりの妹やって教えただけ。で、かおりの名前を出したのに反応なかったから、多分知らんのやなぁって」
「そやねぇ、お姉ちゃんの話であんな楽しそうな雰囲気にはならんよね。って、私の事なんて言ったん?」
「いや、かおりの妹やって言うたら、妹に乗り換えたんかって感じの話」
「なるほど、私は乗り換えの鈍行扱いされてたわけか」
「ごめん、意味分らん」
マー兄がそう言ったところで、お母さんがマー兄に、
「あんたそれを確認しに行ったん?」
と、聞きます。
「蕎麦を食べに行くってなったときに、ちょうどええわと思っただけ。確認して歩こうとか、そんなことは考えてへんよ」
「最近、なんであいつが知ってるんやろとか言うてるけど、なんか気になることがあるの?」
お母さんは重ねて聞きます。
「う~ん、何と言うか、知ってる人間のラインがよく分らんなと思って」
「どういうこと?」
と、さらにお母さん。
「この前、敏和の店行ったやろ、その時にケンと雄一は知ってて、敏和とかっちゃんは知らんかったんや」
「で?」
「敏和とかっちゃん、それに優子、慶子も、小学校からの友達の方が、つい最近まで知らんかったんや。けんや雄一は中学からの付き合いやし。他にも数人、中学からの知り合いが、何人か電話で聞いて来たことがあるんや。それで変と言うか、不思議やなって」
マー兄がそう言います。するとお母さんが、
「不思議なんかなぁ。でも最近、あんたの昔の友達何人かから電話があって、携帯の番号を教えたことがあるけど、それやったんかな」
と、言います。
「それや、携帯知らんはずの奴から電話掛かって来るから、なんでやと思ってたんや」
「あ、教えん方がええ?」
「いや、絶対知られたくないってやつもおらんからええけど」
と、苦笑しながらマー兄。
「ねえねえ、ケンちゃんとかって誰? この前言うてた人たちやよね」
私が割り込みます。
「ああ、えーと、藤原健でケンちゃん。雄一は福井雄一郎。柴克己でかっちゃん。敏和はわかるやろ?」
マー兄が説明してくれます。
「ありがと、一度では覚えれんけどわかった」
そういう私に、
「いやこっちこそ悪かった、おふくろ相手やったから昔の呼び方でしゃべってた」
と、マー兄。そして、
「ま、べつに中学時代、⋯高校時代までの人脈は問題ないやろうからええんやけどな」
と、言います。
「それ以降の人脈は問題あるの?」
と、お母さん。
「う~ん、⋯まあええわ」
「なにそれ、隠し事されてるみたいで感じ悪い」
と、お母さんは言いますが、それ以上は追及しませんでした。
私は帰って来てから、優美と一緒に私の部屋で過ごしていました。三時ころにのどが渇いたと言い出した優美。じゃんけんをして負けた私が飲み物を取りに降りていくと、
「ちょっと待ってて」
と、阿部のおばさんが階段のところまで来て、止められました。チラッと見えた居間、台所には誰もいません。ですが階段の横、今は母が使っている部屋から物音と、うめき声のようなものが聞こえます。私はちょっと心配になって、
「お母さんどうかしたの?」
と、聞きます。
「ううん、何でもないよ。汗かいたみたいだから、まなみが着替えさせてるだけ。着替えさせられてるところなんか見られたくないでしょ」
と、おばさんは言います。
「別にそれくらい何とも思わへんのに」
と、私は言ってから、
「飲み物取りに来ただけ、いい?」
と、聞きます。
「うん、もちろん」
と、おばさん。私はおばさんの横を通り過ぎて台所へ。冷蔵庫からペットボトルを適当に2本出しました。台所から居間へ向かいかけた時に、まな姉が母の部屋から出てきました。私は玄関まできたところで、
「お母さん起きてるの?」
と、まな姉に聞きます。
「うん、起きてるよ。眠そうやけど」
と、普通に返すまな姉。私はふすまに手をかけて少し開けました。ベッドの上でタオルケットにくるまった母と目が合いました。
「なに?」
と、言う母。少し苦しそうに見えます。でも、それだけの様子。
「大丈夫? しんどいの?」
と、声を掛ける私。
「うん、ちょっと動いたから。寝かしてもらってもいい?」
「ああ、うん、ごめん、おやすみなさい」
私はそう言ってふすまを閉めます。閉めるときに、ごめんねと言う母の声が聞こえました。まな姉とおばさんはもう台所で座っています。
「マー兄は?」
と、私は二人に声を掛けます。
「家に帰ってるよ」
と、まな姉。
「今日は晩ご飯、ここでみんなで食べるから、その時また来るわよ」
と、おばさん。
「そうなんだ。あ、優美も食べるよ。って言うか泊ってくって」
と、私が言うと、
「そうだと思って人数に入れてあるよ」
と、まな姉が笑います。私は頷いて階段を上がりました。私は気付きませんでしたが、この時母が激しい痛みを訴えて、まな姉が鎮痛剤を与えていたのでした。
平成十七年七月十一日
定期診察の日ではありませんでしたが、土曜日の発熱と痛みが心配で、姉を病院に連れてきました。昨日は土曜と一変して調子が良さそうでした。痛みを訴えることもなく平穏に過ごしました。夕方帰って行くマー兄も安心した表情でした。そして今日も調子は良さそう。先生も、先週の検査結果や今日の様子を見て、そう変わりはないと言ってくれました。しかし今日はいつもの検査内容以外に、CTの検査を受けることになりました。にも拘わらず、家に帰りついたのはお昼前。いつもより早いくらいです。ですが夕方の先生からの電話は、あまりいい内容ではありませんでした。今日のCT検査の内容を踏まえて、明後日の定期診察の時に、エコーで細かく調べるとのことでした。私は明日、どうしても出かける仕事があるため、家を空けるのが心配です。
平成十七年七月十二日
まなみ、綾の二人が出掛けてから、阿部のお母さんは台所を片付けていました。土曜日に熱を出して、旅行を台無しにしてしまった私。そのあとは体調も良く、家事も出来そうですが甘えています。お母さんは台所が終わると、他に何かして欲しいことある? と聞きますが、大丈夫と答えました。すると、洗濯はうちでやっちゃうからと言って、うちの洗濯物を抱えて帰って行きました。本当に感謝です。特にすることもない私。テレビも特に面白くないし、DVDで映画を見ることに。ある女性のもとに、十年前の中学時代のクラスメイト宛の手紙が間違って届いたことから始まる物語。大好きな映画の一つ。中ほどまで見たところで玄関を叩く音。それと、ごめんくださいと、女性の声。私はTシャツにスウェット姿。とりあえず目についたまなみのカーディガンを羽織って玄関に。セールスなら少し怒ってやろうと思いながら答えます。
「はい、どちら様ですか?」
「突然伺って本当に申し訳ありません。私、まなみさんに仕事を手伝っていただいている、浅井と申します」
丁寧な言葉が帰って来ました。私は慌てて玄関を開けます。少し青みがかった白いシャツに、やはり青みがかったライトグレーのスラックス姿の女性が立っていました。私と同い年か少し上くらいに見えます。
「失礼しました。まなみの姉のかおりと申します。いつもまなみがお世話になっております」
私は頭を下げながら挨拶しました。すると彼女は私より深々と頭を下げて言います。
「お姉さまのお体のことは伺っておりますのに、連絡も差し上げず突然伺いましたこと、どうかお許しください」
「そんな、頭を上げてください」
私がそう言うと、少しだけ頭を上げて続けます。
「今日はどうしても、お姉さまと二人だけでお話したいことがあり、まなみさんが不在なのを承知で伺いました」
まなみに聞かせたくないと言うのは、何か悪い話なのかと少し不安になりました。
「分かりました。とりあえず中へ、上がってください」
私はそう言って、居間に上がってもらいました。台所で麦茶を用意しながら、
「ご存知のようなので申しますけど、こんな体なものですから、こんな格好で失礼します」
と、私が言うと、
「このような時に伺った私の方が悪いのですから、そのようにおっしゃらないでください。それに、そんなお気を遣わないでください」
彼女はそう言います。ソファーを勧めたのですが立ったままです。私が居間のテーブルに麦茶を入れたグラスを置き、座ってから改めてソファーを勧めると、やっと座ってくれました。
「今日も暑いですよねぇ、そんな中来ていただいて申し訳ありません」
「いえ、お姉さまこそお体よろしいですか? 無理しないでくださいね」
と、気遣ってくれます。そして名刺を差し出して、
「改めまして、私、まなみさんが当社に入社されたころに何年か一緒に仕事をさせていただいた、浅井と申します。宜しくお願いします」
と、頭を下げます。私は名刺を見てびっくりしました。さっき玄関で浅井と言う名前を聞いた時にも違和感があったのです。今回の件の書類で、上司になる方の名前が浅井だと言うのは知っていました。まなみの言葉でも浅井と言う名前は知っていました。でも、男性だと思っていました。なぜなら、活字で見ると彼女の名前は『浅井幸利』だからです。
「さりさんとお読みすればいいですか?」
と、私は名刺を見ながら言いました。
「はい、さりです」
「私、まなみの書類か何かで浅井さんのお名前を見て、男の方だと思ってました」
私は言ってから、言う必要のないことだったと後悔。
「よく言われます」
と、浅井さんは微笑んで、
「私、4人姉妹の末っ子なんです。父がどうしても男の子が欲しくて、私の時は生まれる前にこの字で『ゆきとし』と命名したそうなんです。ですが女の子が生まれてしまったので、字はそのままで『さり』と読むことにしたそうです」
よく言われることで、何度も話していることなのでしょう、さらっと説明されました。
「よっぽど男の子が欲しかったんですね」
「ええ、そのようです。姉妹全員がまだ家にいるころは、女5人の中で居心地が悪そうでしたから」
と、少し笑いながら言います。私も釣られて少し笑います。
「あの、あまりお時間を頂いても申し訳ないので、お話をさせていただきます」
と、姿勢を正す浅井さん。
「はい」私も少し姿勢を正します。
「この度、当社がイギリスに新しく設立する現地法人ですが、それは新しく始める事業ではありません。既に存在する当社の現地法人の、一部の事業のみを特化拡大するための新しい会社です。故に、当初は小規模で、実験的な要素もあります。狙った通りの実績が出なければ、五年、十年と言った短期間で撤退の可能性も視野に入っています。そう言うことはお聞きでしょうか?」
「いえ、聞いていません」
浅井さんはグラスに口を付けてから続けます。
「そうですか。事業が見込み通りに進めば何も問題はないのです。もちろんそうなるように最善を尽くします。また、そのためにまなみさんが必要だと私が考え、声をかけさせていただきました。しかし、うまくいかずどうしようもなくなった時は、撤退と言う判断がなされます。その時にまなみさんの立場が微妙なのです」
浅井さんはそこまで言ってから私を見ます。私が無言で頷くと彼女は続けました。
「当社が作る現地法人と言っても、役員待遇で行く一人以外、私も含めて全員が、出向ではなく転籍です。転職したのと同じことです。その転職先が撤退と言うことで解散しても、当社からの保障は確約されません。ただ、社員を会社の事業として転籍させるわけですから、普通は復職させる方向になります。ですので今回、まなみさんは当初渋りましたが、正社員として一旦、復職してもらったわけです。ですが、うちも大きな会社ですので変なプライドがあります。一度会社を袖にした人間を新規事業のためとはいえ、正社員として復職させることにも難がありました。それを、失敗した事業から再び復職させるかどうか、私にも確信が持てません」
「⋯そうですか」
私はそれしか言えません。
「お姉さまには娘さんがいらっしゃるとお聞きしてますが」
浅井さんが何故か話を変えました。
「はい、高校生の娘が一人おります。それと、お姉さまはやめてください」
私は浅井さんの意図が分らぬまま答えます。
「分かりました。では、かおりさんと呼ばせていただきますね。えー、大変無遠慮なことを言いますが、⋯かおりさんにもしもの時が来た場合。娘さんの身内はまなみさんだけになるようなことを聞いていますが、そうですか?」
「厳密には曾祖父、曾祖母になる人がいますが、現実的に頼れる状態ではありませんから、そう言う意味ではまなみだけになります」
未だ意図するところが分かりませんが、正直に答えました。
「そうですか。先程言った、もしもの時の場合、娘さんが頼るべき身内となるまなみさんの生活が保障できないようなことを、今回私はお願いしています。お聞きしているかおりさんのお体の状態では、かなり現実的な心配になるかと思い、お話しさせていただこうと伺いました」
私は浅井さんの意図、心遣いが分かりました。私は浅井さんのことが、人物が心配になりました。まなみから聞いていた話では、新しい会社での実質的な中心人物になるような方。それはとても優秀な方だと言うことでしょう。そんな人が、一部下の個人の事情にまでこんなに気を配っていていいのかと。とてもいい方なのでしょう。まなみが信頼して、一緒に仕事したいと言うのは頷けます。ですが、こんなに細やかすぎるほどの感性の持ち主が、人の上に立って潰れてしまわないものなのだろうかと。でも気付きました、いや、気付けませんでしたと言うべきか。私の少なく狭い社会人経験で計ってはいけない。だって、今現在も彼女はきっと、沢山の部下を抱えている立場なのでしょう。そしてちゃんとやっているからこそ、次のリーダーにもなる。私は麦茶に口を付けながらそんなことを思って、言いました。
「浅井さん、とてもいい方ですね。まなみのこと、安心しました」
私の言葉が意外だったのか、少し戸惑ったような顔をします。私は続けます。
「まなみは同じようなことを言って、このお話をお断りすると言ったことがあります。ですのでその時、私がまなみに言ったのと同じことを浅井さんにも言います」
「はい」浅井さんは再度姿勢を正します。
「私の病気のことをお聞きなのと、娘のことがあるので、まなみだけでなく娘のことまで心配してくださっているんだと思います。それは本当に、ありがとうございます。ですが、私が健康であって、そういう心配がない状態でまなみがそちらに行った後、事故にでもあって私が死んでも同じことですよね。近いうちに私が死ぬであろうことが分かっているから考えてしまっているだけ。だから、考えないでください。まなみの人生です。まなみの生活です。まなみに娘の人生まで背負わせる気は、私にはありません。そうは言っても、まなみは優しい子なので背負おうとするでしょう。だからこういう状況で遠くに行くことになるのは良かったかも知れない。私は最近そう思っています。こうやって浅井さんが会いに来てくださったのも、幸運かもしれません。厚かましいですが、お願いさせてください。そうなったとき、まなみが背負おうとしないように、そちらで捕まえていてください。お願いします」
私は出来るだけ明るい表情で話しました。浅井さんは少し考えてから、
「娘さんはどうするおつもりですか? 何か当てがあるのですか?」
そう聞きます。
「未成年なので、保護者の問題とかいろいろあるのは確かです。でも、何とかなると思っています。本当にありがたいことなのですが、家族のように娘のことを想ってくれている方が何人かいます。そういう方々に甘えて、娘のことを背負わすのはいけないと思うのですが、その方々は多分、断っても勝手に娘を守ってくれるような人ばかり。本当に困ってしまうくらいに、優しくて、暖かい、どうしようもない人ばかり。だから、その方々には私も遠慮なく甘えるつもりです。ですから、心配はしていません、と言えます」
私はマー坊やお母さん、純子たちのことを思いながら話しました。すると自然と笑顔で話せました。そんな私の表情を見てか、浅井さんも表情を和らげました。そして、
「分かりました。本当に差し出がましいことを言ったようで、恥ずかしいです」
と、言います。
「いえ、私は浅井さんにお会いできてよかったです。浅井さんとならきっと、まなみはやりたかったことが全力で出来る。そう思えました。どうか、まなみのことを宜しくお願いします」
私は座ったままですが頭を下げました。
「私の方こそ、まなみさんがいれば、私のやりたかったことが出来ると思っているんです。まなみさんのことは私が全力で守ります。お約束します。ですから、どうかまなみさんを私に預けてください。お願いします」
浅井さんも頭を下げていました。
浅井さんが帰るときに、玄関まで見送りに出た私に言いました。
「まなみさんの出発は、九月二十六日の予定です。それまではほとんど自宅でやってもらえることをお願いしていきますが、どうしても大阪の事務所に出てもらわないといけないことが、何日かはあると思います。でも、東京まで出ることはないと思いますので、ほとんどお傍にいて頂けると思います」
「本当にいろいろとお気遣いいただいて、ありがとうございます。浅井さんはいつ頃向こうへ行かれるのですか?」
私は言葉を返しながら聞きました。
「明日出発します」
「えっ、明日ですか?」
「はい。ですから、かおりさんにお会いするのは今日が最後のチャンスだったので、お会い出来て良かった。お話しできて本当に良かったです」
素敵な笑顔でそう言ってくれました。
平成十七年七月十三日
今週の姉はずっと調子がいいようです。昨日私の不在時に、私の上司が家に来たとのこと。何で来たのかは、姉も上司も話してくれませんが、二人ともそのことには上機嫌です。私の不在を確認してまで訪れたことに疑問はありますが、特に気にしないことに。姉は本当に私の上司が気に入ったようです。姉は私の上司を男性だと思っていた様子。ま、女性だとも言ってなかったし、名前を見ただけだとそう思われるんだけど。で、退職した私を呼び戻してまで仕事をさせようと言うのは、ひょっとして? なんてことを考えていたようです。私の年齢から上司や先輩と言うことは妻子持ち? それだと困るけど、独身ならそのままもらっちゃって、とか考えていたそうです。勝手に私をあげちゃわないでって感じ。とにかく調子は良さそうでした。
今日は定期診察の日です。予約通りに病院に行くと、すぐに診察室に通されました。いきなりエコー検査が始まります。一通り先生が診た後、説明が始まりました。いつもは控えめながら、にこやかな表情で話す先生がまじめな顔です。告げられたのは、よくないことでした。一昨日の血液検査の内容、CT検査の内容、今日のエコーの内容。総合的に診て、かなり悪いと。もう姉に隠す段階ではないと判断したようで、姉の前でそう言います。もうすでに、普通の生活が出来る状態を超えていると。それから少し、これから生活の中でなお一層気を付けるべき点などを説明されました。私はおそらく顔色をなくし、悲壮な表情をしていたと思います。ですが診察室でも「そうですか」等と、相槌を打ちながら他人事のように聞いていた姉。薬局前の待合まで来て椅子に座ると、
「そんな顔しないの。みんな変な顔で見てるよ。まなみの方が病人みたい」
と言って、くすっと笑います。そんな姉を見て、私は少しイラつきました。なんでそんな風にしていられるのかと。でも、思い直します。姉の気遣いなのだろうと。
「姉さん、ほんとは無理してない? どこか苦しいとか、気持ち悪いとか、痛いとか」
私は聞きました。本当は心の方で無理していないか聞きたかったのですが。
「ううん、この二、三日はどこも何とも。あ、体全体のだるさとかはあるよ。今日も帰ったら、しばらく横にならないと動けないと思う」
そう言う姉。
「ならいいけど、さっきの先生の話はショックだったから」
そう言う私に、姉は話し始めます。
「私は、今の私自身が、奇跡のように感じてるの」
「奇跡?」
「うん。まなみは、お父さんが最初に倒れた時のこと知らないでしょ。東京にいたから」
「うん」
「私が最初に倒れた時と一緒。痛みが走って、動けないし声も出せない。息も出来ないような感じ。まなみがいなかったら、どうなってたか」
「⋯⋯」
「そんな感じで倒れたお父さんは、その後どうだった?」
「え? え~と、しばらく入院してたよねぇ」
「そ、しばらくどころか、そのまま一か月半ほどずっと。そして、退院が許されたんだけど、五日で病院に戻ることになった。そしてそのまま二か月ちょっと⋯」
姉は伸ばした足元を見つめて、思い出すように話します。
「退院してたの五日間だけ? 一か月くらい家にいたんじゃなかったの?」
私はそう聞いていた記憶があるのでそう言いました。
「ああ、そっか、まなみには、内緒にしてたんだ。東京から、いちいち帰って来させるのは悪かったから」
「そんなこと考えなくて良かったのに」
姉は、そう言った私に少し微笑んでから続けます。
「まなみに連絡したのは、お父さんが最初に意識をなくしたとき。今のうちに会っておかないと、もうお父さんと話す機会がなくなるかもと思ったから」
「そうだったんだ」
「そんなお父さんの状態と比べると、今の私って奇跡じゃない? 最初に数日入院しただけで、もう二か月以上も普通に過ごせてる。みんなに助けられてだから、普通とは言えないかもだけど」
そんな風に言う姉。優しいしゃべり方です。私は少し落ち着いた気分で、
「その奇跡、ずっと続けてね。諦めないでね」そう言いました。
「当然、私、欲張りだから」
姉は微笑みます。
家に帰って昼食を少し食べてから薬を飲むと、宣言通りに姉は横になり、寝てしまいました。その日の先生からの電話は、いつもより早い時間に掛かってきました。私は二階の部屋で電話に出ます。泣きたくなると言うより、怖くなる内容でした。姉はいつ急変してもおかしくない状態。まだそれなりにでも普通にしていられるのが、不思議なくらいの状態だと。何かおかしなことがあったら、すぐに病院に連れて来ること。夜中だろうと気にせずに。そう言われました。電話が切れた後、しばらく動けませんでした。今日はこう言うことを言われるのではと、覚悟はしていたつもりです。でも、実際言われると動揺して、固まってしまいました。落ち着きを取り戻してからパソコンを起動させ、マー兄に今の内容をメールで伝えました。電話は姉や綾に聞かれるタイミングが多いため、少し前からメールで伝えています。綾がパソコンのメールソフトを開いてもいいように、サイト上のメールを使うところまで気を使っています。画面を閉じた頃、階段下で足音がしました。姉が部屋から出た様子。下へ降りると、居間にはいません。気配をうかがうと、トイレにいるようです。姉は居間に戻って来るとソファーに座り、
「お茶頂戴」
と、言います。私はコップに常温の麦茶を注いで姉の前に。
「ありがと」と言う姉に、
「気分は悪くない?」
と、声を掛けました。
「エアコン効きすぎで、のどがカラカラ」
と、姉。そう言って麦茶を飲むと微笑みます。変わらない姿でした。
平成十七年七月十八日
この週末は海の日を含めて3連休。先週キャンセルした旅行に行こうと当初は言っていましたが、それも取りやめになっています。3連休の最終日の午後。私は部屋で受験勉強中。床のテーブルでは、珍しく優美が勉強しています。と言うか、夏休みの補習を回避するために、課題として出された問題集に取り組んでいます。期末テストが悪かったようです。連休中ずっとここでそれをやっているので、何とか終わりそうですが、旅行に行ってたらどうするつもりだったのか。優美が後ろにのけぞり、そのまま床に寝ころびます。一時間に一度くらいは起こる現象。すると、しゃべり始めます。なので、私も一時間ごとに休憩。
「あやもさあ、二十日で学校終わりでしょ? 次の日プール行こ! プールで夏休み開きしよう」
「その日は模試がある。二十一日でしょ? 私の夏休み開きは模試だ」
「げ~、暗黒の夏休みだ。闇に落ちるよ」
「人の夏休みを闇にするな」
「じゃあ、その次にする?」
「だめ、二十二日から月末まで、集中講義受けるから。そこのカレンダーに予定書いてあるでしょ」
優美はのそのそと壁に掛かったカレンダーの前に行って見ます。
「あんた異常だわ。ほとんど塾かなんかで埋まってるやん。一回しかない高三の夏休みを何だと思ってんの」
「高三の夏休みってそんなもんじゃないの?」
「う~ん、いい大学行こうって人はそうかもやけど、私は行けるところに入れればって感じやから」
そう言いながらテーブルに戻って来ます。
「私をそっちに引き込もうとせんといてね」
「あやは今でも行けるとこ沢山あるやん」
「優美の学校だって進学校やん。まわりはみんな勉強してるんやないの?」
優美は公立の学校ですが、この学区では上から2番目の学校です。私も本命だった今の私立女子校に受かってなかったら、同じ学校に行ってました。と言うか、優美がこっちに合格してくれてれば、今も同じ学校だったのですが。
「そういう子多いよ。でも、私の勤勉意欲は中学時代に燃え尽きちゃったの」
そう言ってまた寝転ぶ優美は、どっか行きたい、遊びに行きたいを連発します。
「ノブ誘って遊びに行けばええやん」
と、私が言うと、
「ノブ~? 彼女おるから無理無理。さすがの私も、彼女おる奴にはちょっかい出さへんって」
そう言いました。私はびっくり。
「あれ? 彼女って、あの時の? 買い物付き合っただけで、そんな気ないって言うてたやん」
「その気ないのに付き合うわけないやん。あ~、あれは想定外やった。まさかのまさかや」
以前のヨーカドーでの目撃事件。優美の読みに反して、相手は同じ学校の同級生だったとは聞いていました。でも、買い物に誘われただけ、ってことで終わったと聞いていました。その後があったとは。ま、考えればその女の子も、気がない相手を休みの日に買い物に誘わへんやろうし。それって完全にデートやもんね。って、デートしたことないから分らんけど。
「へー、そうやったんや。じゃあ、ノブの夏休みは、彼女と一緒に受験勉強かな」
「それいい。彼氏と一緒やったら私も受験勉強する」
優美はそう言うと私の後ろに来ました。そして私の肩に手を置き耳元で言います。
「あや~、彼氏欲しい。探して来て」
「あほ」
私は肩をゆすって振りほどきます。
目を覚まして起きていくと、台所のテーブルにマー坊とまなみが向かい合って座っていました。少しふらふらする眩暈のような感覚がありますが、ばれないように歩きます。二、三日前からこの感覚は有りますが、まなみには黙っています。おはようと、声をかける二人に答えながら、私は手前側に座るマー坊の隣に座ります。
「お腹減った。少し食べたい」
と、まなみに言います。時間は一時半を過ぎていました。
「ちょっと待ってね。温め直すから」
と、席を立ってレンジに向かうまなみ。
「三連休ずっとこっちにいたけど、仕事大丈夫やの?」
私はマー坊に言います。
「今週は大した工事やってないんや。その証拠に一回も電話掛かってこうへんし」
「ならいいけど」
「それに、前からそろそろ一人で現場管理やらそうと思ってたやつがおるから、そいつに任せていくようにしてる」
「マー坊のとこって何人いるん?」
「今は俺入れて七人」
そう言うことを話してる間に、まなみが私の前に食事を出してくれました。最近はお粥のようなものばかり。こういうものの方が、私が沢山食べているようでそうなったみたい。
「お昼に合わせて作ったから、ちょっとふやけてるかも。おかずは残り物ばかりで申し訳ないんやけど」
まなみがそう言います。そのお粥はなんだか変わったいい匂いがします。それに見た目も洋風? ニンジン、ブロッコリーが鮮やかに目を引きます。おいしそうです。私がそれを眺めているのを見て、
「ちょっと趣向の違う味付けにしてみた」
と、まなみ。最近出るようになったお粥、なんだか普通の料理のようで美味しいのです。最初は阿部のお母さんが作ってくれていると思っていたのですが、なんと全部まなみでした。大学から含めて約十年の、一人暮らし時代に編み出した技だとか。スープなり出汁を作ったら、具材とお米を入れて弱火にかける。そのままお風呂とかを済ませると、出来上がっていると言うお手軽料理らしい。本当は、炊飯器を洗うのが面倒で始めたらしいけれど。私は一口食べました。
「チキン?」と私。
「チキンスープ風だけどね。それにササミと玉ねぎ、にんじん、ブロッコリー」
「おいしい、ニンジンもブロッコリーも柔らかくていいね」
「よかった、私もあんまりやったことない味付けだったから、食べてくれるか心配してた」
まなみはそう言いますが、本当に美味しかったです。目の前に並べられたおかずの中のオムレツに箸を出すと、
「それは綾と優美の合作。ちょっと微妙だよ」
と、笑いながらまなみが言います。刻んだウナギが見えているので、ウナギ入りのオムレツだと思いながら食べます。
「チーズ? と、ウナギ?」私が言います。
「微妙でしょ」
「う~ん、結構ありかも」と私。
「俺も意外にええなと思ってたけど」
と、マー坊。するとまなみは、
「うそー、私は一口味見して却下したけど」
と、言いながら、一口つまみます。
「あれ? 冷めるといけるかも」
私たちは笑いました。お茶碗に軽めに一杯程度の量でしたが、完食しました。
「良かった。結構食べたね」
「ありがと、おいしかった」
そう言う私に、
「はい、デザートもどうぞ」
と、薬を入れた箱を手渡してきます。私はそれを受け取りながら、
「あ~、大きなお肉をガブっと食べたい」
と、言います。
「姉さんが想像する大きさかどうかわかんないけど、夜はビーフシチューだから、ある程度大きなお肉を柔らかく煮込んどくよ」
「うそうそ、いいよわざわざ」
「ちがうよ、もう決まってるの、ビーフシチューは。優美のリクエストでね」
そう言うまなみ。
「今夜は家に帰るけど、帰る前にここのを食べたいらしい」
と、マー兄。優美ちゃん一人いると、なぜだかみんな優美ちゃんペース。三人顔を見合わせて笑いました。
薬を飲んでしばらく話した後、姉は部屋で休みました。私は綾たちに声をかけてから買い物に出ます。マー兄はそのタイミングで、早めに帰ると言って名古屋に向いました。学校が夏休みに入っていく時期。夏休み中の改修や改造やらの工事で忙しくなってくるようですが、出来るだけ顔見に来ると言って帰って行きました。買い物から帰ってから、お母さんを呼んでのビーフシチュー作り。姉の要望を満たすために買ってきた、大きな塊肉を見て呆れるお母さん。それでも、今から作り始めてもこのくらいなら柔らかくなるかなと、かなり大きめに切り分けてくれます。煮込みを始めてから一息つくと、姉の部屋から声が聞こえます。覗きに行くと、また同じ映画を見ていました。十年くらい前の邦画。ヒロインの女優と同年代なので、思い入れでもあるのかな。それ好きだねって言うと、うん、何回見てもいい、と嬉しそう。その姿に安心して居間に戻ります。実は昨日あたりから、姉がふらついているように見えていました。何度か聞いたのですが、大丈夫としか言いません。心配です。
夕食は賑やかでした。課題が終わったとか言う優美ちゃんのテンションが高い。最近彼女が食卓にいることが本当に多いので、私もなんだか、彼女が家族の一員のような感覚。ビーフシチューの出来は上々。お母さんのおかげではあるけれど、少し誇らしいです。姉も喜んで食べてくれますが、お昼ほどは食欲がない様子。お昼が遅かったからだと思っておきます。
食後二人が二階に上がると、姉がシャワーを一緒にと言い出します。これまでも体調が悪めの時は一緒にシャワーを浴びました。やはりあんまり調子よくないのかと思い聞くと、まなみと一緒に入りたいだけとか言ってごまかします。脱衣場にタオルケットを敷いてから一緒に入りました。入浴後の姉がすぐに座り込めるように、最近はそうしています。シャワー後、ソファーで涼んでいる姉は、明らかにふらふらしているように見えます。シャワーの時も思ったのですが、少し熱がある様子。計ってみると、七度四分。高めです。発熱時の薬を飲ませてすぐに寝かしました。十時ころ優美が帰って行きました。見送った綾がお風呂に入ってから姉の熱を計ると、七度四分、同じでした。姉は寝ていて目を覚ましません。台所を片付けてから、台所のテーブルで過ごしていました。ソファーに座ると熟睡しそうで怖かったから。それでもうたた寝。目が覚めたのは日付が変わったころ。姉の部屋を覗くと、眠っていますが少し苦しそうな顔。熱を計ります。八度七分。私は迷わず病院に電話しました。事情を説明するとすぐ病院にと言われます。私が車で連れて行くと言うと、救急車をサイレンや回転灯を付けずに向かわせてくれるとのこと。電話を切ってから着替えて、念のため入院の準備をします。寝ていた綾も起こして説明。一緒に行くと言いますが、熱が出た用心だからと思いとどまらせ、朝になったら電話で様子を知らせるから学校に行くように言います。綾の学校は携帯電話禁止ですが、母親の状態を説明して、学校にいる間は先生に預けておき、こちらからの着信があれば、先生が本人に伝えると言うことで持たせています。学校にいる間に何かあればそれに電話するからと納得させました。救急車は二十分ほどで来てくれました。
姉を救急車に乗せるために起こすと、大丈夫だと言いますがフラフラです。聞かずに、一人では立ち上がれない姉に手を貸して歩かせます。姉は出る前に、居間、台所の方を眺めて、しばらく動きませんでした。救急車に乗るときも、家の方を感慨深げに眺めています。気付くと純子さんが姉に腕を絡めていてびっくり。いつの間にか傍にいたようです。姉は純子さんと目を合わせてからもう一度、夜闇の中の我が家をしみじみと見ています。これが見納めと、目に、心に、焼き付けるように。そして、⋯それは本当のことになります。発熱が治まれば帰って来れると思っていた私には、姉の心が分かっていませんでした。
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