アイスティの氷が「カランッ」と音を立てた

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アイスティの氷が「カラン」と音を立てた

 今日の気分は最悪だったが、それにも増して今日の天気予報は、全く、うんざりさせるには充分過ぎた。なんなら、「うんざり」のお釣りが来るくらいに、だ。

「北東の風強く、雨。一時雨風強く、所により雪が混じることも・・・」

 テレビの気象予報士の抑揚のない言葉を聞き流しながら、昨夜のことを思い出して頭を抱え、再び自己嫌悪。

 昨日の電話で、何であんなこと言ったんだろう。言わなきゃよかった。


           ◇


 クリスマスを目前に控えた12月19日、午後7時を少し回った頃。大学正門脇にある何時ものカフェバー『ブルーアイズ』。

 サークル仲間と打ち上げで飲みに来たり、夕飯に日替わり定食780円を食べに来たりと、なんだかんだで週に3回は通っている行きつけのお店だ。

「おっ、いらっしゃい」

 髭のマスターTomyさんが何時もの笑顔で迎えてくれる。

「珍しいね、彼女と一緒?」

「いえいえ、彼女だなんて、怒られちゃいますよ。サークルの仲間で、先輩の彼女さんですよ」

「あれ、ほんとだ、確か橋本君の彼女の、ええっと・・・」

「加奈です。高瀬加奈」

「ああ、そうそう、加奈さんだったね」

 Tomyさんは僕に彼女が居ないことは知っていてこんなことを言うのだから、性質たちが悪い。

「大変失礼しましたね。席は奥のテーブルでいいかな?」

 カウンターから一番奥のテーブルを指し示された僕ら二人は、先に、僕はクアーズ、彼女はモスコウ・ミュールをそれぞれ注文してから席に就いた。

 僕は席に就くなり煙草に火を点けて、如何にも平静を装って「で、どうしたの?相談って何よ?」と切り出した。

 実のところ、僕の心臓はバクバクだ。だってそうだろう、先輩の彼女とはいえ、サークル一で学年一の美人と言われている加奈に呼び出されて、「相談があるの」って言われたら、別に変な下心なんか無くても、気持ちは舞い上がってしまう。

 多分僕は人から思われているよりも純粋で、遊び人でもない。しかしながら、他人からのイメージを大切にする僕としては、何とかクール且つスマートで軟派な自分を演出しながら毎日を過ごしているのだ。

 要は唯の格好つけ野郎だ。

 そんな僕の心の内を知ってか知らずか、加奈は僕に訊ねる。

「私も、煙草、吸ってもいいかしら?」

「あ、ああ、勿論」

 知らなかったなぁ、この子って煙草吸うんだぁ。

 別に煙草を吸う女の子のことをどうこう思ったことは無い。

 唯、『煙草を吸う女の子とキスすると、男とキスしてるみたいな気分になるぜ』、そう言っていた友人の言葉を思い出し、『それは少し嫌かもなぁ』位には感じもしたが、今まで大して女の子と付き合ったことも、キスの経験も殆ど無い僕にとっては、余りピンと来ない問題でもあった。

 しかも、どんなに美人で可愛いからって、親しい先輩の彼女なのだ。

 手出しなんて出来る筈もない。

 単純にドキドキするのは僕が格好つけた、それを見透かされることに恐怖を感じていたからだろう。

 加奈はバージニアスリムの細い煙草の先に火を灯すと、特に吸い込むでもなく、火の点いたそれを灰皿に置いた。

「あのね、今日ね、彼と別れてきたの、橋本くんと・・・」

 ???

 あれ、いきなり何の話をしだすのかな、この人は。

 0・1秒で2択だ。「え、どうして?何で?」と恍けるか「へぇ、そうなんだぁ、何かあったの?」と促すか。

 ところが、だ。口をついて出てきた言葉は

「だと思ったよ。何となくだけどね」

 僕こそ一体、何を言っているのだろう。

 完全に嘘だ。

 そんなこと思ったことは一度も一瞬もなかった。橋本さんと加奈は誰がどう見てもお似合いのカップルで、サークル内どころか、学内に於いても他人の入り込む余地はなく、先輩が先に大学を卒業したら、加奈の卒業を待って必ず結婚まで行くのだろうと、僕だけでなく多分周りの皆が思っていたはずだ。

「やっぱり分かっちゃってた?」

 加奈はそう言って、笑っているのか泣きそうなのか、僕からはよく判断できない表情を浮かべて、今しがた運ばれてきたモスコウ・ミュールを一口飲んでから、「フゥ」と小さく息を吐いた。

 僕もクアーズの瓶をちびりと口に運んでから、2本目の煙草に火を点けて吸い込むと、加奈の方にかからない様に顔を横に向けながら煙を吐いた。

「分かるさぁ。君達見てたら」

 僕はまた適当なことを言う。

 多分、恋愛ドラマや映画の見過ぎだ。

「そっかぁ、そうだよね。やっぱり牧野君にはお見通しだよね」

 何が、どの辺りが、『やっぱり』なのか、僕自身は『さっぱり』分からないのだけれど、この先は恋愛の達人宜しく、演じ続けなければならない雰囲気なのは理解した。

「でも、思ったより早かったような気がするよ。だってクリスマス前じゃない」

 どういう意味だよ、と自分で突っ込みたくなる。「思ったより早い」とか「クリスマス前」とか何も関係ない気がするし、自分で吐いた台詞に呆れながら、それでも何となくそれっぽいしたり顔で、左の眉毛を少し上げながら、クアーズをもう一口。

「うーん、そう、クリスマスなのよねぇ・・・。でもクリスマス前が良かったのかも・・・」

 魔法の言葉『クリスマス』。

 キリスト様の誕生日。イブは誕生前夜祭。

 キリスト教徒でもない僕等にとって、本来はどうでもいい日の筈なのに、子供の頃はプレゼントが楽しみで、ここ数年はドラマのような恋愛をしてみたいと思いつつ、毎年アルバイトに勤しむクリスマス。

 現実はさておき、『クリスマス』っていうのは、その言葉だけで魔法なのだろう。

「そっか、そんなもんか。クリスマス前が大事ってことだね。そうかもしれないね。今日は付き合うから、何があったか、話したくなったら話せばいい。僕からあれやこれやとは、訊きはしないから」

 加奈は少し笑って見せて、「ありがとう」と言った。そして「今日は酔っぱらっちゃおうかな。愚痴とかいっぱい言っていい?」と言い足した。

「いいよ。けど、君が酔っぱらったら、置いて帰るよ」

「ひどーい」

「嘘だよ、君のこと放って於ける奴なんて居ないと思うよ。俺だってそうだよ。そんな奴居たら会ってみたいね」

「うそ?ほんとに?」

 僕は、魔法に罹った・・・。



 人に「何か面白い話をして」と言われると非常に困る。

 勿論、ネタとしての笑い話は幾つか用意している。小話風の話から笑えるクイズ、それに自分自身の奇天烈体験談やら、自虐ネタ。

 でもそれって、話の中の掛け合いで面白くなっていくものだったり、会話をしながら思い出して成り行き任せでのネタのチョイスだったりする訳で、面と向かって「面白い話」プリーズと言われても、話の持って行き方がまるで分からない。

 まぁいいや、先週実際に起こった、ちょっとほっこり笑える話でも、唐突にしてみよう。

「こないだね、友達3人で動物園に行ってさ、ユウイチとロンと俺と3人で。そんで、まぁ、普通に動物見ながら動物園を周ってたわけ。そしたら、俺らの前に親子連れが居てさ、母親と男の子、何歳くらいかなぁ、3つくらいだと思うんだけど、その子が可笑しくてさぁ。動物園に淡水魚コーナーが有るんだけど、そこにピラルクだっけ?アマゾン川とかに居るやつ。まぁ兎に角でかい訳。そんで俺らが『でかいねぇ、すごいねぇ、でも不味そうだねぇ』なんて言いながら水槽覗いてると、その子が水槽に近付いてきて『ママぁ、ママぁ・・・ナガイ!』って。俺等、『長い』って何だよ!って。呆気にとられちゃってさ。子供の感覚って凄いなって思って、可笑しくって暫くその子の後を付いて行くことになったんだけど、今度はダチョウの柵の前でその子の母親が『○○ちゃん、あの鳥さんは何て鳥さん?』って訊いたのね。そしたらその子ジッと考えてから『ちゅぢゅめ』だって。ロンなんか爆笑しちゃってさ」

「あはははっ、かわいいっ。私も聞きたかったぁ。会ってみたかったよぉ。『ちゅぢゅめ』って」

 おお、クリーンヒットだ。

「そんで、まだその先があって、ダチョウの次に陸ガメの柵があって、そこってカメに触れるくらい低い柵なんだけど。そこでその子が一番近くに居た結構大きなカメに興味持っちゃって、『かめさーん、かめしゃーん』って話しかける訳。もうそれだけでかなり面白いんだけどさ、少し揶揄ってやろうと思って、俺が超低い声で『は~い』って言ったら、その子目をまん丸くしてキョロキョロしだして、『ママっ、ママ』って」

「あははははっ、牧野君ひっどーい。でもその子かわいいっ、可笑しくてお腹イタイwww」

 やったね、走者一掃の2塁打くらいかな。

 本当は返事をしたのはロンだったのだけれど、そこはまぁまぁ。

 僕は2本目のビールを飲み干した後、ジン・ライムを貰い、加奈は酔っぱらう気満々なのか、既に4杯目のカクテルはロングアイランド・アイスティー。

「心理ゲームやる?」

「うん、やるやる」

 止せばいいのに、調子に乗り過ぎだ、自重しろ、って誰か言ってくれる人が居たら良かったのに・・・。

 クリスマス装飾の薄暗い店内に、お酒と煙草とテーブルのキャンドルの灯りでアクセルべた踏みのスピード超過だ。

「今から言う質問の答えを、紙に書いていって」

「うん、わかった」

 加奈にテーブル備え付けの紙ナプキンを1枚と、Tomyさんに借りたボールペンを手渡してスタンバイOK。

「じゃ、始めよう。では先ず、貴女はこれからリゾートに行きます。想像してください。リゾートに一人旅です」

「はい。なんか、ワクワクするね」

「いや、そこは『なんか、オラ、ワクワクすっぞ』だろ?」

 自分でも驚くほど野沢雅子風に上手に出来たと思ったのだけれど、加奈は一瞬凍りついた様に僕を凝視した。

 スベッたか?

「上手ぅ。超、悟空なんだけどぉっ」

 ああ、上手くいきすぎたのね、自分でもここ最近ではクオリティの高い発声だったと思ったから、それはそれでホッとした。

「それでは、気を取り直して。さて、貴女はそのリゾートに何色の服を着て行きますか?そして、その理由を3つ、形容詞で書いてください。形容詞で3つです。形容詞が思いつかない場合は、『○○だ』みたいな形容動詞でも構いません」

「はい」

 加奈は少し考えながら、ペンを走らせる。

「はい、先生、出来ました」

「先生って・・・まぁ良いでしょう。3つ、書けましたね?」

 ワザとらしい、如何にもな真面目顔を作って頷く加奈に、僕も何だか楽しくなってきて、質問を続けた。

「では2問目です。一人旅ですが、それじゃあ寂しいでしょうから、ペットを1匹だけ連れて行って良いことにします。何を連れて行きますか?但し、これは空想の話なので、犬や猫に限らず、どんな動物でも良いことにします。例えば像でもシマウマでも良いですし、イルカも、何ならドラゴンも可とします。そして先ほどと同じように、その理由、何故その動物を連れていくのか、理由を3つ、形容詞でお書きください。どうぞ」

「何でもいいの?」

「何でも良いよ。♪ミミズだってオケラだってアメンボだぁってぇ。そう言えば、オケラって本物見たことないなぁ。どうでもいいか、そんなこと」

 加奈はクスクス笑いながら「牧野君ってほんと、面白いよね」と言いながら、紙ナプキンに文字を書き込んでいく。途中で手を止め「絶対に3つ?」と訊いた。

「いや、別に2つでも良いけど、3つくらい書いた方が結果は分かりやすいかな」

「じゃ、4つでも良いの?」

「良いよ」

「じゃ、5つ書く」

 なんじゃ、そりゃ。

「出来ました、先生」

「はい、では最後の問題です。良いですか、よーく考えて、でも思い浮かんだことを正直に書いてくださいね。心理ゲームは直感が大事ですからね」

「はーい、先生。お願いしまーす」

 僕だけでなく、加奈もおかしなテンションだ。

「貴女はそのリゾートでスポーツをします。これも何でもいいです。そのリゾートはほぼ完璧な設備が整っていて、マリンスポーツもウィンタースポーツも季節を問わず楽しめます。球技でも良いし、登山だってOKです。そして、スポーツが決まったら、その理由を3つ、お書きください。今回は形容詞縛りは無くて良いです。そのスポーツを選んだ理由を分かり易くお書きください。はい、どうぞ」

「スポーツかぁ、苦手なんだよねぇ。どうしよう?」

「どうしようって言われてもねぇ。でも、これ空想の話だから、何でも出来るし、別にスポーツに拘らなくても、何かのレクリエーションって考えても良いんだよ。好きな遊びとか、得意なこととか」

 うーん、これは少しエグイ答えを誘導してしまった可能性がある。答え合わせは見ないことにしよう。

 加奈は思いの外真剣に書き込んでいた。

 いやいや、これでは最後の質問の答えは、いよいよ見ることが出来なくなった気がする。

「先生、お待たせしました。出来ました」

 加奈がそう言って書き込んだ紙ナプキンを僕に提出しようとしたので、僕は両掌を向けて断って、「この心理ゲームやったことある?」と今更ながら訊いてみた。

「無いけど」

「じゃ、やっぱり僕は見ないでおくよ。自分で当たっているか確かめて。これ、結構当たっちゃうから、僕が見ると・・・かもしれないから」

「ええ?そんな感じ?」

「そう、そんな感じ。では、答え合わせを行います。第一問。服の色は実はあんまり関係ありません。理由の3つが、貴女がなりたい自分、人からどう思われたいかのイメージです。どう?当たってる?」

「・・・当たってる・・・かも」

 本当かどうかは分からない。でも少し彼女は瞳を見開いた様に見えた。

「そうですか、そうですか。それは良かった。では次の問題の答え合わせです。これはちょっとあんまり良くない意味でタイムリーかなぁ。でも、行くね。第2問目も、ペットの動物はどうでも良いです。3つの理由は、貴女が彼氏に対して思っていること、若しくはこんな彼氏がいいなぁ、っていう思いです」

 もっと当たり障りのない、「貴女のプライドの高さ」とか、「夢や希望の実現度」とか、心理クイズは結構沢山ネタは持っていたのに、考えなしに何故にこのネタを選んでしまったのか、少し後悔しながら加奈の様子を伺った。

「ヤバイ、牧野君、当たってるよ・・・どうしよう」

 おかしな雲行きになってきた。加奈は少し唇を尖らせ、そして眉を八の字にして困ったような、そして泣き出しそうな声を出した。

「ありゃりゃりゃりゃ、ごめんごめん。俺が考えなしだった。でも、こんなの唯のお遊びで戯れだから。そんな気がするだけで、大丈夫、実は大して当たりはしないよ」

「でも、当たってるの。思ってたこと、そのまんまなの」

「よし、今日はここまで。第3問目の答え合わせはまたにしよう。心理ゲームなんて唯の気休め、笑えないならやるべきじゃない。ほんと、こんなくだらないもの、誰が考え出したんだ?フロイトか?心理学?夢診断?ペテン師だ。フロイトなんて、揚げパンにしてしまおう。」

 僕は精一杯加奈を笑わせようと努力はした。酔った頭で出来る限り。

「なに?揚げパンって?」

 少し笑ってくれた加奈にホッとしながら、僕は続ける。

「ん?中国人の留学生が言ってたんだ。面白いから何処かで使おうと思っていたんだけど、今初めて使えたよ。使い方合ってるか知らんけど」

 加奈はもう一度クスッと笑ったが、酔っぱらっているのか、少し甘ったれた声の調子でこう言うのだ。

「ダメだよ、ちゃんと3問目教えてくれるまで帰らないんだからぁ」

 そう言われて、僕はふと腕時計に目を遣ると、既に11時を過ぎていた。

 その時、加奈の携帯電話がまた振動した。『また』というのは、これまでも何度か携帯電話に呼び出しバイブレーションは鳴っていたのだが、その都度「良いの、大丈夫」と言って、加奈は電話に出なかった。

 しかし今度は携帯電話を手にして、画面を開き、ちょっと指を動かして何かの操作をすると、僕の方にその画面を見せて寄越した。

 それを見てすぐにピンと来た。それが橋本さんからのLINEだということ。何度も掛かって来ていた電話は、多分、橋本さんからだということ。

『今どこ?誰かと一緒?連絡ください』

 加奈は僕の表情を伺うようにしながら携帯電話をバッグに仕舞うと、「どう思う?」と訊いてきた。

 どう思うも何も、そんなもの見せられても困るだけで、本当の僕は色々とお子ちゃまな訳だから、気の利いた答えなんて持ち合わせてはいない。

 それでも何か一言。

 そして口を突いたのが、

「揚げパンにしちゃおっか?」

 一瞬キョトンとした加奈が、直ぐに声を立てて笑い出す。

「あははははっ、それっ、正解かも」

 目を瞑って振ったバットだったのに、勝手にボールが芯に当たってしまった。万年ライパチがミラクルを起こして、満塁ホームランだ。

 僕の理性(というよりも、格好つけなだけのビビり根性)が、一気に吹っ飛んだ。

「仕方ないなぁ。では、第3問、答え合わせを致しましょう。但し、終わったら今日は帰ろうね?」

「えー?今日は付き合うって言ったじゃない。・・・でもいいや。じゃぁ、3問目」


 3つ目の質問の答えは、それを聞いている加奈の表情や仕草なんかもあまり見たくなかったので、僕は敢て斜に構えて煙草をふかしながら、左斜め上の空間に向かって喋る感じだった。

 心理ゲームなんて、唯の戯言だ、当たりっこない、なんて言ってみたり、思い込もうとしたり、でも、何処かで当たるんじゃないかと、都合のいいことは信じてしまいたい、酷い結果だと心に傷を受けてしまうんじゃないかというちょっとした恐怖感もあり・・・

 加奈の答えに全く興味がない振りを装いながら、煙草を灰皿に押し付けて、今度はこれ見よがしに大きなポーズで腕時計を確認した。

「さて、お勘定してくるから、帰る支度しておいて」

 それまで敢て加奈から目を逸らしていたので、僕の声に加奈が一瞬ビクッと電気が走ったような反応をしたのを見て、彼女が紙ナプキンを見詰めながら、何やら考え込んでいたことに初めて気付いた。

「あ、うん。お勘定、5000円、で足りるかしら?」

 加奈は財布から5000円札を取り出して僕に渡そうとした。

「ここはそんなに高くないよ。いいよ、ここは払っとくよ。今度、いつかご馳走してよ」

「うん、分かった。今度、絶対だからね」

 その時はあまり気にもならなかったが、「今度、絶対」って?よくよく考えるとおかしな言葉だ。だって、『今度』なんて有り得ないだろ?

 実際にさほど気にもならなかったので、僕は椅子に掛けていた自分のコートを掴んで、そのまま入口近くのレジカウンターに向かった。バーカウンター前でTomyさんと目が合ったので「お勘定お願いします」と言うと、彼は何となく「やれやれ」みたいな表情をして寄越した様に見えたけれど、気のせいだったかもしれない。

「じゃぁ、今日は5800円」

 Tomyさんからお釣りを受け取っていると、そこへやって来た加奈が、いきなり僕の左腕に抱き着いてきた。

「おわ、どうしたの?酔っぱらいか?」

「酔ってないもん」

 加奈は可愛らしく口を尖らせる。

「じゃ、マスター、ごちそうさま」

 僕が挨拶すると、加奈も「ごちそうさま、おやすみなさい」と言って、Tomyさんに手を振った。

 完全に酔っぱらいの仕草だと思った。

 店を出る時に振り返って目にしたTomyさんの表情は「大丈夫か?」と言っていたように見えたのだが、これもやはり気のせいだったのか。

 店の外に出ると酷く寒いのだろうなぁとの予想に反して、頬に当たる冷たい空気が、とても心地よかった。

 僕が酔っているのかな。うん、きっとそうなのだろう。でもキンと冷えた空気のお蔭で若干正気に戻ったかもしれない。

「ねぇ、牧野くぅん、もう一軒行こうよ」

 僕は少し考える風にして見せてから、「いや、今日は帰ろう。送っていくよ」と返した。

「牧野君のケチ」

「ケチって、何か言葉の使い方おかしくない?」

「じゃ、意地悪」

「まぁ、どっちでもいいけど。送っていくよ」

 今度は加奈がちょっと考える仕草をしてから、「じゃぁ、いいよ。お喋りしながら家まで送ってもらう」と言って不満を表してるのだろうか、子供みたいに頬を膨らませた。

 何なんだ、可愛すぎる。頭がクラクラして、理性のネジが再び吹っ飛びそうになる。

 加奈のことは、知性ある落ち着いた女性とでもいうのだろうか、もっと大人の女性だと思っていた。

僕の勝手な思い込みではあるのだろうけれど、彼女は何時も橋本さんと一緒に僕等を見守ってくれる、お姉さんみたいな存在に感じていたというのが正直なところだ。実際は彼女と僕は同い年の同級生ではあるのだが、先輩と付き合っているというだけでそんな風に見えたのかもしれない。

 しかしどうだろう、今目の前に居る彼女は、お酒のせいもあるだろう、よく分からないけれど、辛い?別れ話のダメージが有るのかもしれない、にしても、か弱く、抱き締めたくなるくらい可愛らしい女の子にしか見えなかった。

「ねぇ、牧野君、聞いてる?」

「ん?」

 不覚にも2、3歩先を歩く加奈にぼんやり見とれていた僕は、振り返った彼女の言葉に不意を突かれた。

「え、ああ、うん、聞こえなかった」

 僕は正直に答える。

「酔ってるのは、あたしじゃなくて、牧野君じゃないの?」

 確かに、今しがたそう思っていたところだ。

「・・・見惚みとれて、居たんだよ・・・」

 今度はハッキリと自分の言葉を選んで、僕は話していた。

「うん、知ってた」

 加奈はにっこりと笑ってそう言うと、「月が綺麗よ」と空を見上げた。

 僕も同じように加奈が見上げた方向に目をやると、そこには白く輝く少し欠けた月が有った。

 冷たく澄んだ冬の空気は、月を寒々しく、しかし神々しく輝かせている。

「綺麗だけど、あたし、お月さまって、嫌いなんだ」

「どうして?」

「分かんないけど、昔から。でも、多分、お父さんが死んじゃった時、月がとても綺麗な夜だったからかな」

 加奈の家が母子家庭だったことは何となく聞いていた。確か橋本さんがそんな話をしていたと記憶している程度で、詳しいことは何も知らない。唯その時、確かお酒の席で、橋本さんは酔っていたのか、『俺、加奈のお父さんの分まで、彼女のこと、大切にしたい、守りたいんだ』と僕に力説していたのを思い出した。

「でもね、本当は、お父さんは死んじゃったんじゃなくて、出て行っちゃったんだ。お母さんとあたし達のことが嫌いで、出て行っちゃったの。そう思うことにしてるの、本当は何処かで生きてるって。あたしがいい子にしてたら、何時かまた会いに来てくれるんじゃないかって、ずっと思って・・・可笑しな子でしょ?」

 僕は何となく笑って見せたが、可笑しくは無くて、僕はどうして良いか分からないだけだ。

「橋本さんも、そのこと知ってる?」

「ううん」

 加奈は首を横に振って「言う機会、無かった。言えなかった」と小さく言った。

 彼女の言葉がどういう意味か、僕には分からない。橋本さんが言っていた『加奈のことを大切にしたい、守りたい』という彼の思いを伝えようとしたが、喉まで出かかった言葉を飲み込んでいた。

「言えなかったんだぁ、彼には。3年も付き合ってたのに・・・」

「そっか」

 加奈の部屋がある大学の女子寮に向かう公園内を歩きながら、何時からか繋いでいた僕の左手と彼女の右手。僕が思わず加奈の手をギュッと握ると、加奈も強く握り返した。

「話、聞くよ。俺で良ければ。寮まであと少しだけど、遠回りしようか」

「うん。ありがとう、でも大丈夫。あと少しで大丈夫」

 加奈はもう一度僕の手を強く握りしめてきた。

「彼と一緒に居ると、苦しいの・・・。とても大事にされてるなって、分かるの、それは。でも、彼、何ていうか、どんどん先に進んで行っちゃうっていうのかな、あたし、置いてきぼりみたいな気持ちになっちゃうの・・・。良い人なんだよ、凄く。でもね・・・。あたしが悪いのは分かっているんだけど・・・あたし、そんなにいい子じゃないんだよ・・・」

 加奈は泣いていた。

 月に照らされた彼女の横顔の頬に、涙が一筋流れていく様を目にして、僕は立ち止まって、そっと右手の親指でその涙を拭ってあげていた。

 自分でも何をやっているのか分からない。

 今、感じていることは、目の前に居る加奈という女性をひどく愛おしく思っていることと、何故か橋本さんに対して嫌悪とまではいかないまでも、少なからずの拒絶感を覚えていたということ。

「分かる気がするよ、その気持ち。本当は分からないけど・・・でも分かる・・・」

 そう、橋本さんは重た過ぎる。真面目に考えすぎる。正直すぎる。そして何よりも誰よりもあいつは何時だって正しい。

 僕は彼にずっと嫉妬していたに違いない。それに今頃気が付いた。

「いや、加奈ちゃんは悪くないよ。橋本さんも悪くない、多分。でも橋本さん、少し悪いかな?けど、やっぱり二人とも悪くないから、俺が全部悪いことにしちゃえばいいんじゃない?」

「ありがとう、優しいね、牧野君・・・」

 加奈がそう言った次の瞬間、僕が抱き締めたのか、加奈の方から抱き着いてきたのか、それは本当に分からないのだが、軽く顎を突き出すようにして瞳を閉じ、唇の少し開いた美しい彼女の顔が僕の目の前に有った。


 何故だか、何時からだか、僕には分からなかったのだけれど、加奈は僕のことが好きなのだと言った。

 そして、僕も多分同じようなことを答えて、クリスマス・イブの日を一緒に過ごす約束をすると、僕は彼女の女子寮を後にした。自分が本当にそう言ったかは、実は自信がない。何といっても僕は完全に舞い上がっていた。

 分からないことだらけの1日だった。

 やっぱり『クリスマス』の魔法に罹っていたのだと思う。


 独り暮らしの学生アパートまでの帰り道を、僕は熱にほだされた様にふらふらと歩いた。

 部屋に辿り着いて、何気なく煙草を吸おうとコートのポケットを探ると、何やら紙キレが一枚、一緒に出てきた。

 紙ナプキンだった。

 ボールペンで文字が書かれた紙ナプキン。

『① ブルー

 ・きれい

 ・純粋

 ・さわやか

 ②像

  ・優しい

  ・かわいい

  ・でも本当は強い

  ・守ってくれそう

  ・余裕がある?

 ③スキューバダイビング

  ・やったことがないのでやってみたい

  ・美しい海の世界を見たい

  ・次に来た時は、好きな人と一緒に潜りたいなぁ』

 

 僕は煙草の入った反対のポケットから、今度は携帯電話を取り出して、電話帳を開いた。

 そして、『橋本先輩』を選択して、通話ボタンをタップする。

 思ったより早く、3コールで橋本さんは電話に出た。

「どうした?こんんな遅くに」

「あ、ども。夜分にすみません。牧野ですけど・・・」

「ああ、どうした?」

 僕は意を決した。

「橋本さん、明日、加奈さんのことで、お話があります。時間、ありますか?」

 橋本さんは何も言わない。

「今日、加奈さんと居たの、俺です」

 少し間があって、橋本さんは「分かった」と一言だけ言って、また黙ってしまった。

「明日のお昼、2講義目終わった後、12時半に何時ものブルーアイズで良いですか?」

「分かった・・・」

「では、おやすみなさい」

 僕は電話を切った。

 煙草の煙をぼんやりと見詰めながら、紙ナプキンに書かれた文字を、もう一度思い返す。

 なんだかんだで、これで良かった。その時はそう思った。

 頬にはまだ加奈の柔らかい肌の感覚が残っている。

 少し疲れた様な気がするけれど、心地良い疲れの様に感じる。もう寝よう。

 明日は明日で何とかなる・・・タバコの火を消して、僕はベッドに潜り込んだ・・・


           ◇


「僕の話はこれでお終い」

「え?なんでよぉ?その後どうなったの?加奈って子と付き合ったの?橋本先輩との対決は?」

 季実子はアイスティーのストローから口を離して、かなり食いつき気味に話の先を急かした。

「だから、僕の話はこれでお終い。だってこの先は考えてないんだ」

 僕はクスクス笑いながら、瓶のジンジャーエールをチビリと飲んで、煙草に火を点ける。

「ひょっとして、勘違いしてない?今の話、僕の話じゃないぜ」

「うそだぁ。絶対マサヒロの話でしょ?」

 僕は「よせよ」と大袈裟にかぶりを振って見せて、もう一口、今度はガブリとジンジャーエールの瓶を煽って飲み干した。

「君が何か面白い学生時代の話をしろって言うからさ。を物語風にアレンジして話しただけだよ。ほら、話の中の『僕』は『牧野』で、僕は岸本でしょ?ね?」

「怪しぃ。絶対、何か隠してるぅ」

「隠してるって言われても・・・。隠すも何も、半分が友達に実際に起こった話と、残りは僕の勝手な想像っていうか、創作かな。多分、こんな話だったんじゃないかなぁって。牧野と加奈ちゃんは今頃どうしてるか知らないし、多分、結婚して、もう子供だって居るんじゃないかって思ったりもするんだよ」

「ほんとにぃ?でも、私はその二人はやっぱり別れちゃって、えっと牧野君だっけ?」

「そう、牧野」

「その牧野君は今でも加奈ちゃんのことを忘れられずにいて、加奈ちゃんは未だにファザコンで男の人を振り回していて、ええっと・・・橋本先輩は・・・彼はきっと何処かでとても素敵な旦那さんになっていると思うなぁ。Tomyさんは相変わらず心配性のマスターだね、きっと」

「そっかぁ、じゃ、その線でこの先のストーリーを考えよっと。それにしてもファザーコンプレックスはひどくない?」

「え?でもファザコンだよね、その加奈ちゃんって子。それより、この先のストーリーって、本気で言ってるの?本当に作り話なの?」

 季実子のアイスティーのグラスの氷が「カラン」と音を立てた・・・。

「そういえば、3問目の答えって何だったの?」

「季実子もやる?」

「うん、やるやる」

「その代わり、1問目、2問目は答え知ってるから、知らなかった体で、正直に書いてね」

「分かった」

 夏少し前の午後、カフェのテラス席で、季実子と僕との何気ない休日。

 僕は季実子のことがこの世で1番好きで、彼女は多分、僕のことを2番目に好きなはず。彼女の1番目は、多分、彼女が飼ってるシベリアンハスキーのチョビンスキー。


          ◇


 『3問目は、貴女がSEXについて思っていることです。


  好き?


  そうでもない?


  興味がある?


  あまり得意ではないけど・・・?


  上手?


  上達したい?


  自信がある?


  初めて?


  ・・・それとも・・・?』






   おしまい

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