母と私の三十年
野森ちえこ
生の先にあるもの
令和三年の夏、母が死んだ。
小細胞肺がん。その診断からほんの一年。
七十七歳の誕生日を迎えてすぐのことだった。
肺がん全体の十パーセントから十五パーセントを占めながら、ほかの肺がんとくらべると治療法の進歩が遅れている疾患なのだという。そして、発見がとてもむずかしく進行が非常に早い。
初回に限っては抗がん剤や放射線治療がとてもよく効くのだけど、ほぼ確実に再発する。再発後は抗がん剤や放射線治療も効きにくくなるため、予後がよろしくない肺がんの代表格らしい。
検診から精密検査、診断、入院と通院での抗がん剤治療で約半年。原因不明の失神発作と、そのせいで起こった圧迫骨折から通院がむずかしくなり、在宅での緩和ケアに切りかえて約半年。
早かった。ほんとうに早かった。
母のがんは発見された時点ですでにステージ四。末期だった。
骨転移もしていて手術は不可能。背骨にはかなりおおきな転移腫瘍があるため、いつ下半身麻痺になっても不思議ではないと説明を受けた。
そのときわたしが最初にやったことは、介護職専門の派遣会社への登録だった。
自分には絶対無理だと思っていた介護の仕事だけれど、近い将来、確実に母の介護が必要になる。それならば働きながら介護スキルを身につけようと、わたしはその道にはいった。迷ったり悩んだりしている時間などなかった。
介護の仕事は母が他界した現在もつづけているのだけど、これが案外わたしに向いていたらしい。派遣から直雇用になった会社の援助もあるので、今後は働きながら資格取得を目指していこうと思っている。
さて。前置きが長くなりました(前置きだったのか)
カクヨムコンに新作を投入するつもりはさらさらなかったのだけど、先日ひさしぶりにテレビをつけたとき(普段はあまり見ない)、たまたま肺がん検診のCMが流れているのを目にしましてね。
はたしてなにかの役に立つのかどうかわかりませんが、母にも『あとになって思えば』という予兆らしき症状がいくつかあったので、この機会にひとつのケースとして簡単にまとめておこうかなと。ついでに、わたしと母の話もすこしだけ。
(一)咳
肺がんといえば――の症状だと思われますが、二、三年まえから、一回出だすとなかなか止まらないということが時々ありました。が、もともと気管支炎持ちだったのと、半年に一回かかりつけの病院で受けていた健康診断での『肺はきれい』という医師の言葉もあって、本人もわたしもほとんど気にしてませんでした。その時点で精密検査を受けていればあるいは――と思わなくもないけど、それは今だからこそ思うことの代表ですね。
(二)むくみ
以前よりもむくみやすくなっていたようで、顔が腫れぼったい。足がだるい。ということがすこしまえから増えていたのですが、これもまた年のせいだろうとたいして気にかけず。
(三)失神
全身くまなく検査をしても最後まで原因がわからなかったのだけど、こちらもがんが発見される二、三年まえから一、二回ありました。
数秒から数分で意識は回復。本人には倒れた記憶が残っていなかった。
(四)脱力
これも結局原因不明のままだったんだけど、突然下半身が脱力して歩けなくなるということも三年ほどまえに一回ありましたね(こちらは頚椎症からきていた可能性も)
(五)異音
がんが発見されるひと月ほどまえから、猫がのどを鳴らすような『ゴロゴロ』という異音が胸やのどから聞こえることが時々ありました。診断されたあとに主治医から聞いたところによると、腫瘍に圧迫されて気道が狭くなっていたらしい。
なんにせよ、持病がたくさんあった母はこまめに通院していたし、前述したとおり半年に一回はかかりつけの病院で健康診断も受けていました。異変があればその都度検査していたしね。
それでも手遅れになるまで見つからなかったわけです。
たぶん『肺がんである』という疑いを持って調べないと、なかなか早期発見にはいたらないのでしょうね。知らんけど。
そういう意味では、やっぱりがん検診というのは有効なのかなと。
タバコは三年くらいまえに母娘ともにきっぱりやめていたんですが、母は若いころからヘビースモーカーでした。
やめたのもべつに健康のためとかではなく、値上げにつぐ値上げで、我が家では高級品になってしまったからというだけだったんだけど。
母娘そろって特に禁断症状などもなく、拍子抜けするほどあっさりやめられたのは意外でした。
それはともかく、かかりつけ医には喫煙者だとは思えないくらい肺はきれいだとずっといわれていたし、コロナ禍にはいったころには『いい時期にやめたね(喫煙者は重症化リスクが高まるから)』ともいわれたらしいですが。
まあ喫煙歴が長かったですからね。がんになるなら肺がんだろうなと思っていたんですが、そのとおりになりました。
ちなみに、母もがん治療や入院にともない認知機能がいっきに低下してしまったんですが、『認知症という病気はない』のだとか。ではなんなのかといえば『症候群』なんだそうな。
わたしも介護の仕事をするまで知らなかったんだけど、アルツハイマー型とか、レビー小体型とか、血管性とか、もととなる『病気』があって、その『症状』として認知症があるらしいです。
だからなんじゃいって話だけど。
根本的な治療が困難な認知症と、治療可能な認知症があるというのは、つまり原因となる病気のちがいなんだね。たぶん。
*
看護や介護をはじめとした訪問サービスはもちろん利用していたのだけれど、基本的にはわたしひとりの自宅介護で見送ったというと、同業の人にほど驚かれるような気がします。
食事、排泄、更衣、体位変換、服薬管理、酸素管理――全介助するその労力を、実感として想像できるからかもしれません。
わたしはべつに、親の面倒を見るのがあたりまえだとは思ってません。恩返しだとか義務だとか、そんなふうに考えたこともありません。だってわたし、生まれてきたことに感謝なんて一度もできたことないもの。
ただ、暴力親父のもとから命からがら逃げだして三十年以上、ずっと母とふたりで生きてきたわたしにとっては悩むまでもないことで、とても自然なことだったんです。
しいて理由をあげるなら、親だからではなく、母が母だったから――でしょうか。
生まれてきてよかったと思えるようなことは今のところないけれど、母の娘でよかったとは思っているから。
これまでにもエッセイやらなんやらで何度か書いているので、普段から交流していただいてる方のなかにはご存じの方も多いと思いますが、わたしが育った家は虐待家庭でした。
いろいろ複雑な背景もあったり、あらためて語ろうと思えばそれだけで十万字いきかねないので割愛しますけども。
暴力や存在否定から逃れたところで、自己肯定感なんてゼロどころかマイナスだったし、とうとつにやってくる自殺衝動に何度冷や汗かいたかわからないし、まあなんやかんやあったわけです。
そんな三十数年。わたしが生きる理由に、母の存在がありました。
浪費家だった母の母(わたしから見たら祖母)に代わって妹たちを育てるため、十五の歳から夜の町で働いてきた母の人生は波乱と苦労ばかり。
わたしが死ねば、それはそのまま母の悲劇になってしまう。それはイヤだな。とりあえず母より先に死ぬわけにはいかないなと思ったら、なんとなく自殺衝動との折りあいもつくようになりました。
逆にいえば、母を見送ることができたなら、あとはどうでもいいと思っていたところがあります。
それを感じていたのでしょうか。
母に『死にたい』なんていったことはないし、そんなそぶりを見せたこともないのだけど。
最後、母がわたしにいった言葉は『生きて』でした。
このときほど母親ってすごいなと感じたことはないかもしれません。
そして、死にぎわの言葉が持つ力もまたすげえなと、現在進行形で感じています。
ひとまず死ぬまでは生きようと思うようになりましたから。
*
死なない人間はいないし、生きていれば人は必ず老いる。
身寄りがいないからって孤独だとはかぎらないし、家族がいるからって孤独じゃないとはかぎらない。
職場の人たちや利用者さんたち、その家族。それぞれの事情やカタチにふれるにつけそんなことを思うのです。
死にざまは生きざまだといいますが、きわめて死に近い人たちと日々接しているためか、生の先にある死というものも最近よく考えるようになりました。
母もまたわずか一年で逝ってしまったけれど。
とてもとても早かったけれど。
悲しみよりも安堵のほうがおおきくなるまえに。
後悔もできないくらい疲弊するまえに。
もっと生きていてほしかったと思えるあいだに。
悲しいと感じることができるうちに旅立ってくれて、見送ることができてよかったのだと。
今は心から、そう思います。
きっと天国にいる母へ――
死ぬまで生きたら、また会いましょう
母と私の三十年 野森ちえこ @nono_chie
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