4 おわかれかい



 行動をプログラムされたロボットのように、俺は電車に乗り、降り、歩き、自宅に帰った。


 幻覚。幻聴。監視妄想。――。


 俺の下顎したあごが、舌を嚙みそうになるほど震えた。気がつけば全身が震えていた。


 ――もう俺は監視されていない。盗聴されていない。


 本当は始めから、監視されていない。盗聴されていない。


 よって、気を抜いて良い。熟睡じゅくすいして良い。

 人間味ある挫折を選択しなくて良い。

 他者の成功の基準を自己に投影させなくて良い。

 物置部屋の書類を処分して良い。


 俺は、物置部屋の書類を次々とシュレッダーにかけ、ゴミ袋に詰めゴミ捨て場に置きに行った。

 日付をまたいで、休みなく作業した。


 すべての書類を処分した頃、朝日がカーテンの隙間から伸び、壁と天井に光の筋を作った。


 ワイシャツの脇と背中に汗が染みた男の姿を見出した。


 しかし、俺の口元は笑みを形作った。


 かすれた吐息がカサカサの唇に当たれば、それは笑い声となった。





 早朝、宅配物が届いた。差出人の名に覚えがない。


 段ボール箱を開ければ、時計をしたぬいぐるみがあった。


 ずっと昔に行方不明となっていたぬいぐるみ。


 俺は棚の上の置時計を捨て、ぬいぐるみをそこに置き換えた。


 俺はカーペットに座りこみ、身動ぎせず、時計のぬいぐるみを見つめた。


 これは、幻覚。幻聴。監視妄想。――。


 携帯が着信を知らせた。


『書類はあれで、すべてか?

 ――そうらしいな。これでやっとお前を座敷牢に呼び戻せる。

 


 親友の、声だった。


 俺が親密になり、今も親しくある唯一の男の声だった。

 明日――つまりは今日、来院に付き添う、と打算ださんなく申し出た彼だった。


 俺の全身に鳥肌が立った。


 これは、幻覚。幻聴。監視妄想。――。





 十七人目に親しくなった女が、俺が鍵をかけ忘れていたために、家に上がりこんだ。


 彼女は、昼食を食べに行かないかと誘い、そこで俺は時刻が十二時に近い事に気づいた。


「……ちょっと、訊いていい?」


「なーにー?」


「そこに、ぬいぐるみある?」


 俺は棚の上を指差した。


「え、……ほんとだ。どうしたのこれ」


「見える?」


「ん? 見えるよ」


 俺は眩暈がし、しかし、自分の思い込みを疑う必要性を忘れていなかった。


 やがて、思い至る。


 ――幻覚は幻覚でも思い込んでいた可能性を見落としていた、と。


 その時計のぬいぐるみはずっと棚の上に存在し、しかし、それを俺は認識できていなかった可能性……。






 俺は彼女への質問を重ねた。


「……これ、ぬいぐるみ、前は、あった? いつからあった?」


「私たった今見つけたよ? 前はなかった。

 それよりさ、聞いたよー? 今日実家帰っちゃうんでしょ?

 だからお昼は豪華ごうかにしようよ、お別れ会、ね」




〈完〉





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