3 びょうき


 携帯が痙攣けいれんし、電話帳に登録のない着信を知らせた。

 俺は出た。


『人間でありたいなら、己を他者に管理させるなかれ。

 楽になりたいなら、すべてを他者にゆだねろ』


 完全な俺の声に聞こえる。

 俺は目をつむることによって眩暈めまいの気配が通り過ぎるのを待った。


 携帯にもう一度目を落とした。先程の着信の履歴りれきは、そこに残っていなかった。


 仕事に行く。広告代理の仕事。数字とにらめっこする。クライアントに連絡する。数多の雑務をこなす。退勤する。

 デートに行く。大抵は上手く行く。数回成功し、だがどこかで振られる。

 親友に連絡する。慰めの言葉を受ける。帰宅する。二、三時間眠る。


 そのすべての時間に監視の目があることを意識する。




 その日は居酒屋の個室になっている席についた。

 喧騒けんそうがない状況に俺は多少視線を泳がせた。


 話題はいつも通り、俺の愚痴ぐちと、親友の近況報告。


 そのうち不意に、酔った親友が、「お前は呑気のんきでいいよな」と俺に笑いかけた。


 ――俺は、はしを放り投げた。


「呑気? 俺が? 本気で?」


 親友の頬の赤みが、一瞬にして引いた。


「本当に? 監視っ、監視されてるのに。いつも他人の目がある。平凡でならなければならない。これは戦いだ」


「ど、どうしたっ……?」


「己を他者に管理させるなかれ。なら、自分で自分を管理するしかない、できなきゃ連れ戻されるんだ」


「……は、どこに? 誰も連れ戻したりしないだろ……。

 待て待て。え、元カノと関係がこじれてるのか? それとも何か……」


 親友は、テーブルの上の酒とつまみを遠ざけ、前のめりになった。


「違うんだよ、監視してるんだ奴らが!」


「落ち着けって! 落ち着けよ、誰も監視なんかしてない」


 親友が目をすがめ、唇を噛み、俺を正面に見上げた。


「な、あのさ、これは悪口じゃなくて茶化ちゃかしてもなくて、本気の心配な。

 ……いいか、本気で心配して言うぞ」


 彼は、こぶしを固く握り込んだ。


「……お前、病気、なんじゃないのか? 確か……えっと、統合失調症、だっけか……? 

 監視されてるとか、そういう妄想が頭から離れなくなってしまうような病気、俺、聞いた事あるよ」


 病気。俺は口の中で唱えた。


 親友が「ちょっと待てよ」と俺に告げ、携帯を操作した。

 ネット上に、精神病理に関する簡易な説明文があった。


 幻覚げんかく幻聴げんちょう監視妄想かんしもうそう。――。


 いくつかの症状が、俺の確信していた事柄と合致がっちした。

 つまり、俺は監視されていると確信していたが、そう確信してしまう病気が存在することを、この場で知った。


 親友が申し出た。


「明日、精神科行こう。俺も付き添うから」


 俺は「……ああ」と呻いた。





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