第一章 酸鼻の極
酸鼻の極 1
書斎で仕事をしていると、たまに覚えのない記憶がふわりと過ぎる。
まただ。
そう呟き、
くる。身に覚えのない恐怖が襲いかかる。その予感は的中し、彼は固く目を閉じた。
意識が奥深くへと引き摺り込まれ、暗い道を歩いている映像が脳内に広がった。前方には若い男の背中がある。その男のことを思うと胸が張り裂けそうになるくらい苦しくなる。
彼を殺さなければ。殺さなければ。好きで堪らないけれど、その好意は彼に伝わらない。ずっとそばにいられたら幸せなのだろうが、思いを伝えるのが怖かった。そんな時、彼は最近親しい女友達がいるということを聞いた。許せなかった。確かに彼は誰にでも分け隔てなく接しているし、誰にでも優しい。けれど、私のこの好意を悟らないくせにあの女とはやけに親しくてイライラする。身勝手かもしれない。でも、私が初めて好きになった人だから。身を引くことはできない。忘れたくても忘れられない。自分が自分じゃないみたいだ──と、そんな思いが溢れて咽せ返りそうになった河井はその場に突っ伏した。
殺さなければ。歩調が速くなっていくにつれ、その意思が一つにまとまる。刃物で背中を刺す感触が生々しく、手のひらに広がった。と思えば、今度は重たいボールのようなものをテーブルの角に打ち付けていた。人の頭だった。明確な殺意が巡る。殺さなければ。その意思に支配されていく。殺さなければ。自分に逆らう者は皆殺しだ。殺す。ころす。ころす、ってなんだ。
もはやその言葉すら不可解になっていき、河井は目を開いた。
息が荒れ、冷や汗がキーボードに滴り落ちている。どうやらキーボードの上で寝ていたらしく、頬が痛い。全身から汗が噴き出していた。
季節は夏。外はカンカン照りで殺人的な猛暑だが、室内は二十五度と快適な気温に設定している。それにも関わらず、全力疾走した後のごとく熱が上がっていて、疲労感で押しつぶされそうになる。
以前は眠っている間にこういった悪夢を見ることがあったが、最近は起きている時でも急に意識が別のところへと引っ張られるような感覚に陥っていた。医者に何度掛け合っても原因不明。なす術がない。自分は酷い精神障害を起こしているのだと思うようにしたが、日に日に酷くなる症状に振り回され、ストレスを感じていた。
ともかく、このことを書き留めておきたい。同じ文字が大量に打ち込まれたパソコンのディスプレイには目もくれず、手元に置いてあるメモ用紙を引き寄せる。その時、背後の扉から控えめなノックが聞こえた。
「パパー」
五歳の次女だ。椅子を回転させると、娘は背伸びしてドアノブを掴んで引っ張って開け、顔を覗かせた。
「どうした?」
娘の手前、先ほどの悪夢を顔に出すまいと無理矢理に笑顔を作る。
「パパ、おしごとおわったー? ママがごはんできたよーって」
明るい声で駆け寄ってくる娘。河井は全身の汗から遠ざけるように両手で制した。娘が不思議そうにキョトンとする。
「パパ、またどこかいたい? だいじょうぶ?」
「うん、大丈夫。ごめんなー、汗びっしょりで臭いから」
「そっかぁ」
娘はそれでも構わないらしく父の腹に顔をうずめた。仕方なく頭を撫でると、娘は嬉しそうに笑った。頭の両側からぴょこんと飛び出すツインテールを見つめながら、河井は娘を愛おしく思う。
──かわいい子ねぇ。
どこかからか声がした。柔らかい女の声音。それは羨むような響き。
──この子、ほしいなぁ。
「……パパ?」
撫でる手が止まったからか、娘が不審そうに顔を上げる。
「ほんとにだいじょうぶ?」
「あぁ……うん、ほらもう行きなさい。パパは後で行くから」
そう言って娘を抱き上げて部屋の外へ出す。ドアに背を押し付け、ゆっくり息をついて気を落ち着かせる。
明らかにおかしい。自分は一体、どうしてしまったのか──思い当たることはあるが、あまり考えたくないことだった。
先ほどまで娘がうずめていた腹をさするも、異常を感じることはできない。原因は脳ではなく、内臓にあるのではないか。そんな突飛な妄想もいよいよ現実味を帯びていく気がして背筋が凍る。しかし、こんなこと誰に打ち明ければ──
「パーパー! ご飯できたってばー」
ドアの向こうから妻の怒った声が聞こえ、ハッと我に返る。
「はいはい……」と呟きながら河井はようやく家族が待つリビングへ向かった。
それから数ヶ月後、河井家は恐ろしい惨劇の現場と化す。
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