酸鼻の極 2
「これで全部です」
すべてのダンボールを車に積むと、河井の妻が静かに言った。玄関先で佇む彼女の顔はやつれている。
「いや、すいませんね。こんな忙しい時に」
「いいえ。とんでもないです……お力になれれば、あとはもうそれで……」
みるみるうちに彼女の痩せた瞼から涙が溢れていく。翳った瞳が溺れていき、彼女は「すみません」と声をうわずらせて顔を伏せた。
司城は目のやり場に困り、車に積んだダンボールを一瞥した。そして会釈する。
「……では、また落ち着いた頃に伺います」
「はい。ありがとうございました」
その声を背にしてジャケットを翻し、車に乗り込む。サイドミラーを見れば、河井の妻は玄関先まで出てきて見送っていた。
いい奥さんだな。そんなことを思い浮かべ、やるせなくなる中、エンジンをかけて発進した。静かな住宅街を出て大通りに入り、そこでようやく肩の力が抜けた。
司城の妻、
信号が赤になり、司城は河井が死ぬ間際の出来事を思い返した。
河井節生、四十七歳。人畜無害そうな顔立ちからは想像もつかないが、冷徹で辣腕な記者だった。仕事が趣味と断言するほどであり、彼の中ではライフワークと化していた「大学生殺傷事件」の調査が司城と出会うきっかけだった。
彼は先の事件と、三年前に起きた「中野区一家四人殺害事件」の関連性を見つけたが、その矢先に急死した。持病を持っていたが、死因は自死だった。
『司城、おまえにすべてを話す』
その電話は唐突で、日曜日の昼下がりのこと。司城の娘、
『お前には、全部話すから、俺の頼みを、聞いてくれないか?』
声はかなり震えていた。瞬時に録音ボタンを押して聞く。
『いいか、やっぱり俺の見立ては正しかった。被疑者たちも俺もそうだが、移植手術を受けてから人が変わったようになった。記憶転移ってやつかな、これはお前にも話してこなかったが、俺は手術後、たまに女の声を聞くことがあった』
女の声──それは穏やかで柔らかい声音だったが、何故か河井には恐ろしく感じていたという。
『その女の記憶がいつの間にか流れ込んできて……俺の意思じゃない。きっと、そうなんだ。段々その女の思考になっていく感覚だ。分かるか? 自分の中に他人がいる感覚。まるで霊にでも取り憑かれたみたいになる、ことがあった。あるんだ』
河井はしばらく咳き込んだ後、息を整えて悩むように唸った。
『だって、昔の俺はあんなに娘たちと接してこなかった。それがどうだ、張り切って授業参観に出るわ、PTAも引き受けるわ、おかしいだろ。
司城が知る限り、河井節生という男は愛想のいい顔で他人の弱みを握り、情報をかっさらう詐欺師みたいな人間だった。家族に構うことなく仕事に打ち込み、取材先が県外だろうと海外だろうとその日のうちに飛んでいき、情報をたんまり稼いでその帰りに一人で温泉や観光に出かけるなんてザラにあった。娘の遊戯会や発表会に興味はなく、運動会にも行ったことがない。そんな男が病を患い、手術をした後すぐに人が変わったようになったのだ。病気のおかげで心を入れ替えたというのも立派な動機だろうが、家族ファーストになった彼とその笑顔に不気味さを覚えたのは確かだ。
『ほら、
『なぁ、落ち着いて話せよ』
久留島という名前を聞き、つい苛立ちまぎれに口を挟むと河井は唾を苦しそうに飲み、また勢いよく話し始めた。
『あいつらも移植手術を受けていた。きっと同じ人間──そいつの臓器を使われたんだ。俺たちはドナーの情報を知ることはできない。でも同じ人間なはずだ。分かるんだ。感じる。他にもいるかもしれない。いる。きっとそうだ。俺たちと同じような人間が、いる。いるはずなんだ』
いつもは理路整然と話す彼だが、とにかく焦っているのか怯えているのか判然としないほど言動が乱れているのは明らかであり、司城は根気よく耳を傾けた。
『分かった、分かった。それで?』
『あぁぁ、なんだろうなぁ……なんかこう、無性に誰かを殴る映像が頭に浮かぶ。娘と遊んでいる時にもそう。急に娘の頭を掴んで床に打ち付けたり、したくなる。キッチンで妻が料理してる時も、包丁の音が聞こえたらそれを奪って全員を、こ、ころ、殺したく、なる……なぁ、おい! 司城、聞いてんのかっ!』
唐突に声を荒らげる河井。司城はすでに尋常さを感じ取り、通話状態のまま家を出て車に乗り込んだ。スピーカーにし、エンジンをかけると河井の小さな悲鳴がした。
『すまん、ごめん。司城。ごめん。お願いだ、怒らないでくれ』
司城は黙ったままでいた。河井がすすり泣く。
『な、おかしいだろ。その映像がはっきり浮かぶんだ。ビジョンっていうのか、あぁ、今もそうだ。手が震えておかしい……おかしい。今日はとくに、酷い』
河井は腕の震えを抑えようとしているのか、たびたび奇声を上げた。どんどん彼の息遣いが獣じみていき、獰猛さを帯びていく。
『河井。お前は今、家にいるのか?』
『うぅぅ、うぅん……そう、家。今、みんなはいない』
どうやら彼の妻と娘二人は出かけているらしい。司城は彼の自宅へ向かった。電話はつなげたままにしておき、河井の奇声を聞きつつ声をかけた。
『医者には見せたのか? お前、具合が悪いんだよ。薬は飲んでるのか? もしかしたら移植の影響で……』
『ああああ、もう嫌だ! 限界だ! 実はな、もうこんなことが一年続いてんだよ。最初はこんなんじゃなかったのに……』
冷静な言葉は届かない。河井は嘆く一方だった。
『もう、もう、我慢の限界だ一家心中する。するしかない。死のう。みんなで死のう。そうしないとダメだ。でも、せめて、痛くないように、殺さないと。母さんに見つかる前に……あ』
唐突に河井の声が正常になる。そして、彼はそれまでの葛藤がなかったかのように高揚した声で言った。
『みんなが帰ってきた。じゃあな、司城。今から死んでくる』
結果、間に合わなかった。しかし、河井の一家心中は未遂に終わった。
現場へ行けば、妻と幼い娘たちが抱き合って風呂場にこもり、泣いていた。リビングへ続く廊下は綺麗なもので、しかしドアを開ければ血の海で。
滴る鮮血を辿ると、キッチンの壁にもたれかかって微笑む河井の姿があった。赤黒い血の中には脂肪や内臓がこぼれている。リビングには真新しい七輪が置いてあり、練炭自殺を図ろうとしたようにカーテンはガムテープで固定されたのが不幸中の幸いか、この惨劇は人目に触れることはなかった。
後で聞けば、娘の泣き顔を見た河井は正気を取り戻したそうだ。妻に娘たちを連れて逃げろと言い、自分はキッチンで内臓を取り出すように何度も腹に穴を開け、絶命した。取り出そうとした内臓は腎臓と膵臓で、それは彼が六年前に移植手術を受けた臓器だった。
背後からけたたましくクラクションを鳴らされ、我に返る。司城はハンドルを切って事務所を目指した。
河井はこうなることを見越していたのか、自室に遺言を残していたという。それは家族に宛てたものと司城に宛てたもの。そこには、これまで調査した情報をすべて譲ることと必ず事件の真相を暴くことを託した内容が記されていた。
河井の妻、佐知が実家に戻るというので引っ越す前に資料を引き取ってほしいと連絡を受けて向かったのである。
車庫に車を停め、ガレージを閉めた後また車に戻って早速資料をあさる。持ってきていたノートパソコンも起動させ、段ボールの中にあった資料を一つずつ取り出した。几帳面とは言えない河井なりに事件の概要をファイリングしたもの、あとは大量のCD−ROMと32ギガのUSBが数本。そのすべてをひとつひとつ確認していく。途方もない作業を予感し、飲み物でも部屋から取ってこようかと考えるもその場から動かずにまずはデータを開いていく。
すべてのデータを引っ張りだし、自分のノートパソコンに移し替えるだけで三時間は経過していた。さすがに狭い車内でじっと同じ体勢でいるのがつらくなり首を回す。重たいデータを移行させる間、司城は物思いに耽った。
河井の発狂は、確かに久留島
六年前の十月三十一日、二十二時頃。事件の被疑者である久留島玲香はバイト帰りだった男友達、柴田
その後、逃げ出した女性を追いかけて背中を刺傷させ、かばった男性とコンビニアルバイト男性が取り押さえた。一一〇番通報をしたのはコンビニ店長であり、その間、事件発生から十数分程経過している。警察の到着がその約十分後であり、その頃すでに美鶴は絶命していた。背中から肺を突き破り、そのほか数十カ所に渡って刺されたが死因は失血死。また、柴田征太も出血多量で重体となり、搬送先の病院で死亡。
警察は久留島玲香を殺人容疑で拘束、逮捕しようとしたが、逃げた先の川へ飛び込み死亡した。
被疑者死亡という最悪な結末を迎え、当時の現場状況や彼女の精神状態、犯行動機などがあらゆる専門家によって憶測され、ワイドショーでも取り上げられたものだが、どれも納得のいく答えは見つからなかった。また柴田征太と久留島玲香の仲は比較的良好だったことから、殺害の動機が不可解なままである。
この事件を受けて、被害者の柴田征太の両親が遺族の会を立ち上げた。司城をはじめとするPTSDに苦しむ被害者たちが集まったものだが、今ではろくに顔を出していない。
そうこうしているうちにようやくデータの移行が終わった。溜息をつき、飲み物を取りに行こうと車から出る。裏口から鍵を開けていると、玄関チャイムがピンポンと鳴り響いた。
「……宅配か?」
しかし、とくに何か頼んだ覚えはない。絵莉は今、高校で授業中だ。
居留守を使おうかと思ったが、玄関チャイムが立て続けに三回鳴る。仕方なくガレージに戻ってシャッターを開けると、そこには紺色のブレザーを着た痩せぎすの少年がいた。
「鳴らしたの、君か?」
訊くと少年は用心深く頷いた。絵莉の友達だろうか。
しかし、今年で十七歳になる絵莉とこの少年は同年代には見えない。痩せているからか、それとも童顔だからか、目力は強く凛々しい顔立ちをしているもののあどけなさを浮かべている。
「なんの用かな。君、学校は?」
不審感あらわに訊くと、少年は挙動不審に目を泳がせた。よくよく見てみれば、彼が持っている大きな通学バッグに「Junior High School」と書かれている。
「中学生がどうしてこんなところに? 冷やかしかい?」
少年はなおも迷うように口を結び、司城の背後をじっと覗き込んでいた。急いでシャッターを下ろす。すると、少年がようやく口を開いた。
「ここ、探偵事務所ですよね?」
「あぁ、そうだよ、司城探偵事務所。事務所兼自宅。つっても、ほとんど依頼受けてねぇけどな。今忙しいんだ」
子供の依頼を聞くほど暇じゃない。遠回しに「依頼拒否」を促してみたが、少年は通学バッグのベルトをぎゅっと握りしめ、周囲を伺ってから一歩近づいた。
「司城さん。僕を匿ってくれませんか?」
「は?」
司城は拍子抜けした。どんな依頼かと思いきや、その遥か上をいくものだった。
「んー……? 匿うって、つまりそのー、君をうちにってこと? 家出か?」
すると少年は「えぇ、まぁ」と口ごもる。
「ははぁ、なるほど。残念だが他所に行ってくれ。友達の家とかさ」
「友達はいません」
食い気味な返事に、司城は気まずくなり眉をひそめた。
「あー……そう……じゃあ、警察は?」
「もっとダメです」
その答えに司城はため息をついた。
家出の理由はなんとなく察する。親またはきょうだいと喧嘩した、家に居づらい、そんなところか。しかし一時的な反抗期で知らない家へ転がり込み、しかも個人経営の探偵事務所を選ぶ理由が分からない。
「なんでうちなんだ?」
「ネットで見ました。あの六年前の事件を追いかけてるって書いてあったから」
少年はポケットからスマートフォンを出した。司城探偵事務所のホームページ画面を見せてくる。それでも要領を得ないので首を傾げる。
「えーっと、六年前の事件……君、何か知ってんの?」
軽い口調で問うも、少年は神妙に頷く。
「僕はその当時、失明したんです。でも移植手術を受けて治りました。その日から、変なものを視るようになりました。久留島玲香が人を殺している映像を、視ます。その他にもありました。僕は六年前の事件を視たんです」
少年の淡々とした説明は突拍子もないものだった。司城は頭を掻き、それまで多少は愛想よくしていた顔を歪めた。イライラと訊く。
「なんだそりゃ。霊能力ってやつ? 悪いが、オカルトは関係ないと思うぜ。んなもん、あるわけ……」
──俺はこうじゃなかったって。何か別のやつに俺の体を乗っ取られてるんじゃないかって。
河井の言葉がふっと思い浮かび、すぐに口をつぐむ。
霊能力や驚異的な力とやらが本当に存在するのだろうか。
久留島玲香も足立隆治も河井も化物に体を乗っ取られ、発狂したとでもいうのだろうか。ということは、そのわけも分からない超常的な現象のせいで美鶴は死んだのか。
少年の目を見る。黒目がちな瞳が真剣で、司城の背筋を痺れさせた。
「……でも、匿うってどういう意味だ?」
「それは……えぇっと……」
唐突に濁した。少年は目を伏せて言葉を詰まらせる。そのままフェードアウトしようとするので、司城は煩わしくなり、沈黙を破った。
「あー……とりあえず話だけは聞こう。上がりな」
たちまち少年は顔を上げ、不安そうな顔つきのまま会釈した。
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