酸鼻の極 3

 司城探偵事務所は死んだ両親が残した古い一軒家を一部改装した。娘と二人暮らしなので、事務所を借りるよりは自宅を事務所にした方が都合がいい。

 依頼内容はもっぱら浮気調査で、久留島の殺人事件を追いかける傍ら淡々とこなしている。もっとも、事件を追いかけるために新聞社を辞めて構えた事務所である。情報収集を兼ねて立ち上げたホームページに事件の情報提供を呼びかけるページを作っていたが、釣れた有力な情報はほとんどない。

 司城は自宅の玄関から少年を招き入れ、洗面所のドアを開けた。風呂場と洗濯機が置いてある廊下を通り、奥のドアを開けると一段低いこじんまりとしたスペースが広がる。ソファと卓、作業用のデスクだけでいっぱいの応接間が司城の事務所だ。

「ちょっと散らかってるけど──あれ?」

 振り返ると少年がいない。

「おい、入っておいで」

 司城は洗面所で立ち止まっている少年に声をかけた。彼は不安げな顔を少し緩めた。

「からくり屋敷みたいです」

「そんな愉快なもんじゃないよ。倉庫を改装しただけ。ここしか場所がないからな」

 司城は彼をソファに促し、そこで待ってなと言い残して事務所を出る。台所へ向かい、ケトルに水を入れて湯を沸かし、来客用のマグカップにインスタントコーヒーの粉末が入ったスティックを差した。湯が沸いたら、ケトルとマグカップを持って事務所へ戻る。

 少年は大人しく待っていた。

「それで、君はどこの誰?」

 向かい側に座ってコーヒーの準備をしながら訊くと、少年は抱えていた通学バッグを脇に置いて、学習ノートを引っ張り出した。

志々目ししめ椎羅しいらといいます」

 ノートの表紙に書いた名前を見せながら言う。おそらく、人に名乗る際は文字を見せる癖をつけているのだろう。これがなければ聞き返すところだった。

「ほぉ、かっこいい名前だなぁ……んで、志々目くん。さっそく本題に入るが、君を匿うっていうのはどういうこと?」

 その問いに、椎羅は拍子抜けしたように両目を開いた。

「いやまぁ、その事情から聞こうかなって。そりゃ、君の不思議な力とやらで久留島玲香のことが分かるっていう話の方が俺にとっちゃ大事だが。でも、そのことと君の家出はつながってるんだろう?」

 すると、椎羅は首肯した。司城はコーヒーを混ぜて椎羅に渡した。彼はいただきますと行儀よく言い、おそるおそる口をつけたが、すぐさま眉をひそめる。

「苦かったか。そりゃすまんかった。君みたいな若い依頼人なんて来ないもんで」

 鼻で笑うと、椎羅は嫌そうにマグカップを見て卓に置き、話を始めた。

「僕は叔母と暮らしてます。それまで僕は母と二人で暮らしてて、母が死んだ後に父も死んだと聞かされています。それからは叔母と暮らすようになったんですが……」

「ふむ」

 司城はコーヒーを一口含んだ。

「叔母は占い師をしてます。〝ししめ星羅せいら〟っていう。霊能力みたいなものを持ってるようで、未来を視るんだとか。その人が……この目を潰したんです。僕が八歳の時でした。占いの結果、僕の目は災いを呼ぶとかなんとか」

 椎羅は淡々としていたが、わずかに言い淀んだ。コーヒーの苦味からしかめた顔のまま。

 一方、司城は思わぬ言葉に唖然とした。

 椎羅の神妙な顔つきには大人をからかおうとする素振りはまったくない。

 家出の原因は叔母の虐待か。そう推察するも、口を挟まず先を促した。

「それから角膜の移植手術を受けることになりました。手術費用は叔母が出してくれたんですが、それもまぁ腑に落ちないんですけど……それからも叔母は情緒不安定みたいで、たまに僕を殺そうとします……そんな生活をしているうちに、僕の目は知らない景色を視ていました。六年前の夏、二十二時頃だったと思います」

 彼は低い声音で言うと、ごくんと唾を飲んだ。司城も同時に固唾を呑む。

「男の人の背中が視えたと思ったら、次は座った女の人の背中を視ていました。真っ赤な血が飛んだら、目の前がぐらぐらして酔いそうになりました」

 それは、幾度となく目を通してきたストーカー殺傷事件の概要そのものだ。

 椎羅は緊張気味に司城を見つめた。言葉の中にはわずかな自信のなさが端々に含まれていて頼りないが、訴えようとする必死さは感じられた。

「それからまた数年後、あの事件と同じように目の前が知らない場所に変わりました。その時は、女の人と口論しているようでした。五十歳くらいの人です。その女の人を突き飛ばして頭をテーブルの角に打ち付けるような映像になって……別の若い男の人も同じように死んで……その後、水の中に潜っていって終わりました。これが数ヶ月おきにありました。調べたら、東京の中野区で事件があったんです。足立隆治たかはるっていう人が犯人の」

 司城はもう相槌を打つことも忘れていた。じっと少年の目を見つめる。すると彼は困惑したように目を泳がせた。まだ他にもあるのではないか。そんな気がしてならず、司城は唾を飲み込んで口を開いた。

「次は小さな女の子の顔を見た、とか? ひと月前くらいに」

 訊くと椎羅の指がかすかに動いた。まばたきをし、ゆっくり頷く。

「はい……授業中でした。ノートをとっていたはずなのに、僕の視界は数学の公式ではなくて、いつの間にか『司城』という名前を書いていました。そのしばらくした後、泣き顔の小さな女の子が視えて、消えました」

 それは河井の視界そのものだ。司城は腕を組んで天井を仰いだ。

「最後に視えた視界の人、その人の知り合いが司城さんで、調べたら探偵事務所が検索で引っかかって」

 ようやく事の次第が飲み込めた。同時に、椎羅もまとめに入る。

「僕はこの目がなんなのか調べたいんです。でも、叔母には言えません。また潰されるかもしれないし……こんなこと誰にも言えないから、司城さんなら事情を知っているかもしれないと思いました。匿って欲しいというのは、すみません、言葉がうまく言えなくて。叔母から逃げたい気持ちはあったので」

 椎羅はうまくまとめきれず「すみません」と再度謝った。

 これが単純な家出だと笑い飛ばすことなどできない。すべてを信じることはできないが、椎羅の言葉を虚言だと判断するのは早計だろう。まず、彼を叔母の虐待から守る必要性がある。

 司城は無精髭を触りながら唸った。

「なるほどなぁ……あぁ、全部は信じてないよ。それに見知らぬ未成年を家に置くのも問題だしな、さすがに。でも、その話が本当なら君の叔母さんは君を探すこともしないだろうな」

「しないです。あの人はそういう人だから」

 食い気味に言う椎羅。対し、司城は苦笑せず悩んだ。

「うーん、時間の無駄にならなきゃいいけどなぁ……俺も忙しいし。でも、君の目が本物だっていうんなら利用しない手はない。難しい。非常に難しい……」

 純粋そうな少年の前で構わず無神経に呟くも、椎羅は少し冷めたコーヒーをちびちび飲むだけで気にしていないようだった。

 ──まぁ、使えそうになかったら、さっさと警察に引き渡せばいいか。

 その時にもし警察に何か言われても言い訳できるほどの材料は用意できる。ともかく、情報源になり得そうな重要人物をここで逃がすのは惜しいと思った。天秤が傾く。

「分かった。しばらくここにいたらいい。依頼料は出世払いということで……」

「本当ですか!」

 椎羅は身を乗り出した。その勢いに情けなくも圧され「おぉ」と頷けば、椎羅は生真面目に頭を下げた。

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 顔を上げる椎羅の顔は安堵に満ちていた。その年齢にしては頼りない体つきだと思ったが、事情を聞けば納得がいく。満足な食事もできていないのだろう。おそらく、彼の本心は自身の目について調べることよりも叔母から逃げることの方が重要だったのかもしれない。

 司城は少年を見つめながら、ズルズルとコーヒーをすする。

 念の為、彼の身辺を洗うことにしよう。そう決めて、コーヒーを飲み干した。

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