天賜の肉 2
母との最初の記憶は公園で遊んだ雪の日だった。長靴に入った雪が冷たくて驚き、それから足がじんじん痛んだ。きっと泣いたかもしれない。母が優しく長靴を脱がせ、足をさすってくれた。
あの頃、住んでいたのは雪が静かに降り積もる場所で、雪の季節がくるたびに悲しくなる。しかし、母は雪が好きだった。今にして思えば、母が生まれ育った場所では降雪が珍しいからだったのかもしれない。
母は嫌がる椎羅を連れて外に出て、二人で静かに雪だるまを作って遊ぶのが好きだった。楽しそうな母の笑顔はもうほとんど思い出せないのに、笑い声と椎羅の名を呼ぶ声だけは忘れられない。
そんな母には妙な癖があった。
自分の額を椎羅の額にくっつける。そうすると、椎羅はどんなに愚図っていたとしてもすぐに眠りに落ちていた。額をくっつければ、それ以降の記憶はない。母との記憶はすべて穏やかで幸福に満ちていた。しかし、そんな日々も長くは続かない。
椎羅が小学校二年生に上がった年、母が突然いなくなった。探しても探してもどこにもいない。
『おかあさん』と何度呼んでも母が返事をすることはなかった。
椎羅は近所を駆けずり回った。あまり話したことのない近所の家々の戸を叩いたが、彼らは椎羅の顔を見た瞬間に戸を閉める。『よそへ行ってくれ』と冷たく言われる始末だった。
『おかあさんがいなくなった』『おかあさんをさがして』そう強く訴えても住民は誰ひとり椎羅に見向きしなかった。
あの女、災い、異常者、そう呼ぶ大人たちの怖い顔と言葉を繋ぎ合わせて察するに、どうやら母は住民たちから嫌われる存在だったのだろう。
町で一番大きな家に行くと、意地悪な男と女がいる。困ったことがある時、食べ物をもらう時、決まってこの家に行くことがあったので顔を出したのだ。この男女は仲が良く、おそらく夫婦なのだと当時は思っていた。男の方は志々目圭介といい、女の方は福子といった。彼らは椎羅を家に入れると部屋に閉じ込めて、自分たちは居間でヒソヒソと何かを話していた。
椎羅は大人たちの言葉を拾い、繋げて考えた。
『あの子の面倒を見なきゃいけない』『どっちが引き取る?』『お前が見ろ』『それしかない』
どうやら、そういうことらしかった。と同時に、母はもうどこにもいないということを悟った。やがて、椎羅は福子とともに隣県へ引っ越すことになる。
「──それから、福子は『ししめ星羅』という名前で占い師を始めました。僕は新しい生活に馴染めず、母を呼んで泣いてました。そのたびに暗い部屋に閉じ込められるんです」
彼の瞼がわずかに痙攣する。
「小さい頃は押入れに詰め込まれました。つっかえ棒で出られないようにされたり。風呂の中に入れられたまま、蓋をしめられてたり……よく気絶してたので、曖昧にしか思い出せないんですが……でも、最悪な日々だったのは刻みつけられてる」
オブラートに包もうと努力している節があるものの、悲惨な生活を強いられてきていたことを想像できてしまう。絵莉は顔をしかめたまま何も言えなかった。
「でも、その頃にはもうなんだか痛覚も麻痺していて。痛いとか、怖いとか、そういうのがなくなって、状況に慣れて。始まったら終わるのを待つだけというか。泣くことも、できなくなっていましたね……」
時折声がつっかえ、椎羅は黙り込んだ。とっさに絵莉は彼の手を握る。
「もういい。分かった」
つらい経験をしてきた人ほど、過去を話したがらない。それは口に出すことすら恐ろしく、当時の状況を思い出してしまうからだ。絵莉もトラウマを背負っているから気持ちが痛いほど分かる。もうこれ以上は酷な気がした。何より、自分が彼の過去を受け止めることに自信がない。しかし椎羅は、絵莉の手をやんわり離して苦笑いを浮かべて続ける。
「気がついた時には、僕の目は見えなくなっていました」
「………」
「叔母が思い切り僕を放り投げたのは覚えてます。そのせいで、打ちどころが悪かったのかもしれません。気絶して……目覚めたら僕はベッドに寝かされていて。目は包帯を巻かれていたみたいで……そして、移植手術するからって言われて、次に目が覚めると今度は病室が見えました」
言いながら椎羅は首を傾げた。顎をつまみながら考える。
「どうしたの?」
「いや、おかしいですよね。目を傷つけてすぐ移植手術ができるなんて」
「う、ん……いや、日本の医療事情を詳しくは知らないけど、そういうのって結構待たなきゃいけないんじゃないかな……」
絵莉も言いながら考える。心臓移植した久留島玲香は長年、適合する心臓を探していた。莫大な費用もかかる。そう簡単に適合する臓器が見つかり、すぐにでも手術ができるものだろうか。これではまるで──
「計画的? まさか君の手術は割と前から決まってた……?」
絵莉の言葉に、椎羅も顔を上げて頷いた。
「そうかもしれません」
「ということは、福子ははじめからそのつもりで椎羅くんの目を」
潰す気でいたのだろうか。洋江の目を移植するために。
絵莉は背筋の毛がぞわりと逆立った気がし、思わず腕を抱いた。
「信じらんない。人をなんだと思ってるんだ……」
あまりの非人道的ぶりに悍ましく、また怒りで震える。一方、椎羅はあまり感情的にならず「なるほど」と奇妙な相槌を打っていた。他人事である。
「いや、どちらかと言うと僕以外の他人を巻き込んでいることがもっと問題です。洋江の、化物の臓器を計画的に他人の体へバラまく必要があったってことですから……」
その冷静な分析に感服した。絵莉は詰まっていた息を盛大に吐き出し、足を投げ出す。
「そうだよ……まさか君の母親が例のヒロエだとはね……」
絵莉は頭を抱えた。
黒田の夢日記に出てきた〝ヒロエ〟と一致したことに驚きを隠せない。
「君がそれを黙っていたのは、私が叔母だけでなく君まで殺すかもしれないって思ったから? それとも、私を遠ざけたかったから?」
訊くと彼は「どっちもです」と静かに答えた。絵莉は深く息を吸い、長く溜めた後、勢いよく吐き出した。
「なるほど、どっちも腹の探り合いをしていたわけだ……そういうの、もうやめよう。私もなるべく冷静に物事を見るようにする。努力するし、君の手伝いをしてあげる」
椎羅が不審そうに目を細めたので慌てて付け加える。彼は頷くと安堵したように微笑した。
「気持ちはありがたいです。でも、これは僕が始末をつけたい。母はどうして生まれ育った島を焼いたのか、その後に叔母と何があったのか……すべてを知った上で状況が悪化しないよう、始末をつけて、それから死にたいんです」
そう言えば、椎羅がこの事務所を初めて訪れた時のことを思い出した。
あの頃からずっと探しているのだろう。何故か父の横顔までがよぎり、絵莉は頭を抱えたまま笑った。それは髪の毛に隠れて見えなかっただろう。椎羅が気づく素振りはない。
彼を見ているとあのありふれた一日が懐かしくなる。そして、あの日々をもう取り戻せないことを思い知り、寂しくなる。
「死にたいなんて言うなよ」
おどけた調子を出したつもりだったが、椎羅は笑わない。絵莉は気まずいまま、調子を崩さず続けた。
「やっぱりさ、この件が全部終わった後も一緒に住もう」
絵莉は朗らかに言った。その提案に、椎羅は曖昧に笑うだけだった。
しばらく暖を取った後、二人は家を出た。外はすっかり真っ暗で、雪がちらつく。今夜もぐっと冷え込みそうで、暖を取って正解だった。
「それで、他にもいるって話だったね?」
絵莉はコートのポケットに手を入れながら訊くと、椎羅は「はい」と涼やかに答えた。
「黒田さんが亡くなった後、トリが飛び去る直前ですね。別の誰かと視界を共有していました」
「それが今日のニュースであった、高校生の死体ね……しかも一部でしょ? 指だけって。かわいそうに」
同情的に言えば、椎羅も「そうですね」と相槌を打つ。行方不明になっていた男子高校生の遺体の一部が発見された──報道ではその手口の残忍さから規制がかけられているので、あらかじめ松崎から聞き出したのだ。今からその現場へ向かう。
「ただ、まだ情報が足りません……向こうが高校生だってことは分かるんですけど。あとは、どうしてまだいるのか」
「なんでなんだろう? 臓器って他にも移植できる部位があるの?」
「部位って……人体の臓器ですよ」
椎羅がたしなめるも、絵莉はクスクス笑うばかり。
「不謹慎だったかな」
「心臓、肺、肝臓、膵臓、腎臓、小腸、角膜……それ以外にはないはずです」
「もう定員オーバーなのに、どうしたもんか……さっぱり分からんね」
絵莉は感情を込めずに言った。静かな住宅街を二人で並んで歩く。
信号で止まる。赤いLEDが眩しい。車の通りはないが、なんとなく二人は立ち止まった。
椎羅は目を閉じてアクセスを試みている。その間、絵莉は手持ち無沙汰なので、ただ信号機を眺めていた。両目に光を取り込む。
「絵莉さん」
椎羅の声がする。彼は絵莉の手を引っ張り、そのまま横へ押し倒した。
「何っ!?」
驚いて声を上げるも、椎羅は背後を睨みつけているばかり。絵莉も見たが、吸い込んだ光のせいで目が鈍っていた。
「いる」
椎羅が短く言った。
「いるって、」
「お出ましですよ。まさか向こうから来てくれるなんて」
そう言うと彼は立ち上がり、絵莉の前に立ちふさがって真正面を見た。
「そうなんだろ、七人目」
椎羅は真っ暗な道に問いかける。ようやく絵莉の目が人影を捉えた。
数メートル先で、ぬらりと光る刃物を持った人物が、いる。
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