酸鼻の極 5
翌日、椎羅は学校に休むことを告げた。叔母にも連絡したかは不明だが、学校とは話がついたらしい。自前のパーカーとジーンズ姿で朝食の席につき、絵莉から目玉焼きを何枚も焼いてもらっていた。さすがに食べきれないと苦笑する彼の様子から、殺戮衝動は微塵も感じられない。
司城はさっさと絵莉を学校へ送り出し、椎羅を事務所に呼んだ。
「これ全部読んでいいから」
卓にファイリングした資料をどっさり置くと、椎羅は目を白黒させた。
「すごい……こんなにたくさん。やっぱりプロなんですね……」
感嘆を漏らす椎羅はさっそくファイルを手にとって一枚一枚ページをめくっていく。
「椎羅」
声をかけると、少年はハッと顔を上げた。
「どうした、そんなキョトンとして。名前で呼ばれるの嫌だったか」
すると椎羅は首を横に振った。
「いえ、別に……」
そう答える声がどこか嬉しそうだった。
咳払いして場をもとに戻す。
「もし、河井や君の言う通りにまた同じように事件が起きるとしたら……それでも次が一体誰なのか調べようがない。ただ河井の証言から、君たちは同じドナーの臓器で移植手術が行われたんだと推測する。言ってること分かるか?」
椎羅はコクリと頷いた。「よし」と呟き、後を続ける。
「記憶転移という話がある。これは臓器移植手術を受けた者が元のドナー提供者の記憶が移るという現象だ。例えば、心臓移植を受けた者が受ける前には嫌いだった食べ物が好物になるような。または男性の臓器を移植された女性が男っぽくなる。提供者の顔が夢に出る、などといった現象があるらしい」
「それって……」
「河井は記憶転移のことも言っていた。彼はその可能性を信じたんだろう。自分は提供者の記憶を継いだのだと思い込み、家族を殺そうとした。その提供者が実はとんでもない殺人鬼で夢に出て河井を唆した、とかな……精神的に病み、本当に自分が殺人鬼になったと思い込んだんだろう、というのが俺が出した結論だった」
「だった、ということは今は別の可能性を考えているわけですね?」
椎羅が神妙に言う。司城は静かに「あぁ」と頷いた。
「君の目がなければ、俺はそう考えただろう。そうなると、俺の今までの調査は水の泡ってことになるが……もっとも提供者の情報はない。入手困難。河井が残した資料にもなかった」
仕事に貪欲な河井ですら提供者の情報を入手することはできなかった。当事者なのだから当然ではある。代わりに彼が心療内科を受診していたことを知った。電話で確認を取ると、やはり河井は記憶転移の説を考えていたようで心療内科医にその相談をしている。ただ、なんの解決にも至らなかったのか相談は一回きりだったらしい。
「そんで、いろいろ漁ったらこんなもんが出てきた」
司城はテキストファイルに残されていたものをプリントアウトし、椎羅に見せた。
元の持ちヌシはだれだ?
女か。あの女だ。
こわい。こわい。こわいこわいこわい……
ゆめにデてくる女。おんな。かおはわからない。こわい。
どうしてこわいのか、それもわからなくて、こわい。
書きなぐった文字からかろうじて読み取れたのはそれだけで、それ以外は文字の体を為していなかった。この文字郡から、よほど切羽詰まっていることが読み取れる。しかし、提供者は女だと確信を得ているようだった。
「椎羅は提供者らしき〝女〟の夢を見ることはあるか?」
自分で聞いておきながら滑稽だなと呆れる。対し、椎羅は残念そうに首を横に振った。
「それじゃあ次の質問。久留島、足立、河井の三人が事件を起こす前に何か予兆のようなものはあったか?」
「予兆……えーっと、視界は急に僕の意思に関係なく変わります。その人の感情は分かりません。ただ目の前の映像が、テレビのチャンネルが切り変わるような感覚で」
そう言いながら彼は肩を落とした。
「僕、事件を防ぐとか言いながら無能ですね。この目で事件の様子を視ても、その場にいなければ意味がないのに……」
「何言ってんだ。河井の遺言を視たんだろ。それが予兆ってやつじゃねぇの?」
落ち込む椎羅の頭を掴むと、彼は思い出したように勢いよく顔を上げた。
「そうか……あれが予兆。でも、久留島さんも足立さんもそんなのは視えませんでした」
「河井はかなり葛藤していたんだ。おそらく衝動は何度もあったが、実行に至らず自分の意思で食い止めていた。しかし、自力で抑制がきかなくなった頃に遺言を書いたんだろう。それが椎羅の目とリンクした。反対に久留島と足立は抑制する間もなかったんだ。殺戮衝動が記憶転移のせいだという説でいくならな」
苦々しく付け加えると、椎羅は「ですね」とゆっくり納得した。
「つまり、次の事件がもし起こるとするなら予兆もある可能性が高い。河井みたいになんとか抑制してくれればいいが……」
後半は独り言のように呟いていた。その時、司城のデスクに置いていたスマートフォンが着信音を鳴らした。松崎だ。
「すまん、出てくる」
事務所を出ると着信が止み、外に出てかけ直す。松崎はワンコールで出た。
『あ、司城先輩。言われたもの、調べましたよ』
「おぉ、サンキュー。あとでメール頼むわ」
『もうしました』
「さすが松崎くん。仕事が早い」
『いいから、大物俳優のスキャンダルってやつを』
松崎はせっかちに言う。司城は「そう言えばそんなこと言ったな」と笑ってごまかした。電話口から深い溜息が聞こえてくる。
『そんなことだろうと思ってましたよ』と言い捨てて電話は切れた。その素っ気なさにイラつくも、すぐに事務所へ戻る。そのままデスクに行き、届いているメールをチェックした。
いわゆる大御所と呼ばれる芸能人や著名人と繋がりのある占い師のリストだった。ししめ星羅の名もしっかり載っている。抱えている顧客はモデルやタレント、アーティストなど。市議会議員の名も複数あり、思わず声を上げそうになるが堪える。
腕は確かなのだろう。テレビや雑誌の取材は一切受けないようで、一般的な知名度こそ低いが信頼に足る占い師なのだと想像する。ますます想像とかけ離れていき、司城はチラリと椎羅を見た。彼は久留島玲香の調書を真剣に読んでいる。
司城はまた事務所を出て別の後輩に連絡を入れた。ちょうどリストの中に入っていた女性モデルのマネージャーに知り合いがいる。
だが、そこでも似たような話が出た。
やはり、ししめ星羅は看板に偽りはないようだ。穏やかで優しく、人の心に寄り添うようなアドバイスをしてくれるが、メディア露出が苦手でテレビ出演や執筆などのオファーはすべて断っている。顧客に著名人が多いのは、地元の有力な占い師であることとメディア露出しないことが厚い信頼を得る理由なのだろう。反対に公開されている情報以外のことはほぼ分からない。それは甥の存在を隠すにはうってつけであり、ある意味では椎羅の証言と合致していた。
著名人から重宝される占い師はメディアからオファーが殺到しそうなものだ。わざわざ九州から関東に進出しておいて露出を断っていることも怪しい。つまり、彼女は甥への虐待を隠したいのではないか。
「椎羅」
声をかけると彼はやや間を空けて顔を上げた。
「飯食いに行こうぜ。ちょうど昼飯時だ。腹減ったろ」
「はい」
二人は事務所を出て車に乗り込んだ。助手席に人を乗せるのが久しぶりなことに気がつき、乱雑に散らかった資料やペンケース、充電器などを後部座席へ放り投げる。
美鶴が生きていた頃はごくたまに家族三人で出かけていた。今では絵莉も自転車や公共交通機関で出かけていく。司城は自嘲気味に笑った。
「シートベルトしたかー?」と、エンジンをかけて発進させながら訊くと、「シートベルト……」と椎羅が慌てふためく。彼の脇にある留め具を指してやりながら車を走らせた。
「車、乗ったことないのか?」
「助手席は初めてです」
「ふぅん。君の叔母さん、本当に君のこと気にしてないんだな……よくもまぁグレずにここまで育ったもんだ」
「はぁ……」
椎羅は気の抜けた声で返事した。まるで他人事のようだ。
「叔母さんが車持ってないなら乗る機会もないだろうが、それにしたって
「はぁ、まぁ……」
「そういや叔母さんの両親はどうなんだ。君の祖父母に当たる人は」
「あぁ、祖父母……いません」
椎羅はなおも他人事のように答える。
「普通はいるんですよね。祖父母って。でもいないと思います。叔母さん、言ってましたし。私には両親がいないんだって」
「叔母さんも孤児なのか?」
「うーん……僕の母親と姉妹なんですけど。ただ叔母は本当に僕と会話したくないみたいだし、質問したら……また何をされるか分からないし」
声が小さくなっていく。チラリと見やると、椎羅は無表情ながら拳に力を込めていた。十四歳にして自分の不幸に耐えようとしている。それがあまりにも痛々しく思えて、司城は言葉に詰まった。
自分が彼と同じくらいの歳には、くだらないことで友達と騒いでいたものだ。両親に反抗し、祖父母に小遣いをせびり、自分は特別な存在なのだと驕っていた。そんな当たり前の生活を知らない椎羅が気の毒になってくる。
聞けば彼は毎月食費を二万円だけ与えられ、その金で夕飯をやりくりしているらしい。自炊もできない育ち盛りの中学生に二万円だけ渡して放置している叔母、ししめ星羅の神経が理解できない。
司城は行きつけのラーメン店に入った。濃厚な豚骨醤油とラードの匂いで充満した店内はカウンターと小さな座敷があるだけ。座敷には近所の古空き家を解体している作業着姿の男たちで溢れていたため、二人はカウンターに座った。物珍しそうに店内を見渡す椎羅の顔はどことなく好奇心を浮かべているよう。
二杯のラーメンは数分も経たないうちに運ばれた。
「インスタント以外のラーメン、初めて食べました」
椎羅は満足そうに平らげて言った。チャーハンと餃子もしっかり腹におさめていく。どれも安くて早い、絶品とは言い難い品ばかりだが高級レストランにでも来たかのような椎羅の喜びように司城は面食らいながら笑った。
「司城さん」
珍しく椎羅から声をかけてくる。
「探偵って儲かるんですか?」
「なんだよ急に……いや、会社に勤めて給料もらうほうがいいぞ。その方が収入も安定するし。俺はもともと新聞社にいたんだ。でも美鶴が……」
そこまで言いかけて止まる。スープを飲み干し、息をついてから口を開いた。
「妻が死んでからは、小五の絵莉を抱えて二人で生きていかなきゃいけなくなってな……何もかも急だったもんだから準備もできてないし」
家庭を顧みない夫であり父だったろう。美鶴が復職する前なら、三人で休日に出かけるくらいのことはした。だが、それも面倒だった。できれば休みの日くらい出かけず寝ていたかったし、家族なんて煩わしいものだと思っていた。とにかく家に金さえ入れればいいだろうという気持ちだった。そもそも家庭を持とうと考えたのは両親のためだった。父が病死した後、母を安心させたい一心で上司から紹介してもらい、美鶴と結婚したが幸せだったのは最初だけ。愛情を注ぐなんて柄じゃないし、美鶴とは何度も衝突した。絵莉が生まれてからますます仕事にのめり込んでいた。母も亡くなった後はさらに家族をないがしろにした。それがいけなかったのだろうか。
飽きるほど当たり前に続くと思っていた日常が一瞬のうちに崩壊し、自分の愚かさに気がついた。いつの間にか家族はかけがえのない存在だったのだ。
「情けないことに、美鶴が死んでから絵莉がまっすぐ育ってるんだってことに気がついてさ……絵莉の面倒を見るために会社辞めて探偵やってるわけ」
椎羅は真剣な顔で聞き入っていた。中学生相手に何を言っているんだろう。照れくさくなり、椅子を引いて立ち上がる。
「よし、帰るぞ」
「あ、はい。ごちそうさまでした」
椎羅も慌てて椅子を引いて立ち上がった。その時だった。彼は唐突に動きを止めた。
司城はそれに気が付かず、支払いを済ませて店を出る。椎羅が後ろをついてきていないことに気が付き、慌てて引き返した。
「おい、何やってんだ」
パーカーのフードを引っ張ってみると、椎羅は殺気立った目で振り返った。
「どうした?」
「……司城さん、視えました」
「は? 視えた?」
「はい。今、はっきりと」
一瞬、なんの話をしているのか分からなかったが、椎羅の青白い顔を見てようやく悟る。彼を引っ張って車に乗せ、素早く訊く。
「どこだ? 何が視えた?」
「エプロンした女の人に押さえつけられて」
「今はどうだ?」
「さっきの一瞬だけでした。なんか低い位置にいて……座ってるのかな。腕も視えました。折り紙の輪っかをつけてた。しわしわの腕……その人、老人です。なんか病院みたいな場所にいて」
それだけではまだ調べようがない。しかし椎羅は口を真一文字に結んで話そうとしない。顔は相変わらず表情が薄いが、動揺していることは伝わる。
司城は少ないヒントから思考を凝らした。
「病院……入院している老人か? いや違うな。エプロンだから……介護士か! ってことは介護施設だ!」
しかし、この地域だけでも介護福祉施設は多い。また、どこの施設か絞るには材料が足りない。片っ端から電話をかけていくには時間も手間も惜しい。
「椎羅、安心しろ」
いまだ放心状態の椎羅に言う。彼はゆっくりと司城を見た。
「君が視たのは事件が起きた場面じゃない。まだ事件は起きてない。ってことは、調べる時間がまだあるってことだ」
赤信号が青に切り替わる間際、椎羅の顔を見ると彼はすがるような目で頷いた。
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