61 父さん
「ねえ、朝ご飯、食べました?」
「朝はシリアルをいただいてきたけど」
「あのね、よかったら、ちょっと味見してほしいものがあって」
リサはキッチンへ向かい、冷蔵庫からタッパーを二つ取り出した。蓋を開けはしたが、そのまま電子レンジに入れられてしまったから、中身は見えない。麻子と二人、顔を見合わせる。
間もなく、ピーッと電子音が聞こえた。皿に載せて出されたのは、ちょっと形が崩れ、
「卵焼き!
麻子が手を叩いて褒める。私と麻子の前に一皿ずつ置かれたのはもちろん、
「すごーい! いただきます」
麻子がまず、自分のをぱくり。
「うん、
私も一口。
「ああ、うん、うまいね」
おそらくは粉末だろうが、それでも
「よかった! 昨日作ったんです。今日あっちの家に持って行こうと思って」
麻子の皿からも一つ拝借する。
「うん、甘い。でも、こっちもおいしいよ。わざわざありがとう。二種類作るのは大変だったろう?」
「まあね。普段ならスクランブルにしちゃうとこだけど……一応、昨日のお礼のつもりで」
「ん?」
「今さらですけど……ありがとう、見なかったことにしてくれて」
ああ、あの博物館前でのことを言っているのだな、と思い当たった。
モスクに行ってるんだねえ、これはめでたい、ついにやる気になったか、お祈りもしてるのかい、おや、泣いたりしてどうしたの、といちいち首を突っ込まれるのをリサが好まないことはとっくにわかっている。
私は別にリサのイスラム回帰を熱心に応援しようというつもりはないし、こういうことは何というか……そっとしておくものだ。
もっとも、私は信哉のことは少々そっとしておきすぎたのかもしれない。
もっとぶつかってこい。なぜ
我が子という感覚をなかなか持てなかったがゆえに、腫れ物に触るように距離を取ってきたのではないか。親に対する子の態度など親次第だと、あれほど父に落胆した過去から私は何も学ばなかったというのか。
「見て見ぬふりができる人って周りにあんまりいないから……すごく貴重だし、嬉しかった」
母アイシャを筆頭に、バングラ文化の色濃そうな親戚一同を思い浮かべてみれば、実にそうなんだろうなと想像がつく。
「いや、何かする度にいちいち注目されるのは私も好きじゃないからね」
リサの黒い瞳が
「なんか、思い出しちゃった。父さんのこと」
「……そうか」
その言葉は、何よりの勲章に思えた。だが、私にこれを受け取る資格はない。
そんな私の思考を打ち消すかのように、リサは真正面から抱きついてきた。突然のハグの意味は、耳元でささやかれた「Abba」という言葉に込められていた。
リサは照れてしまったのか、その意味を英訳してはくれなかったが、同様にハグを受けた麻子が「
慣れないハグを返しながら、我が子を抱き締めている感覚だった。といっても、そんなことはもう何十年も起きていないが……。家族になれた。そんな気がした。
しかし、私が今最も家族にならなければいけないのは、リサではない。
「病院、今日は一緒に行くかい?」
「そうね。ショーンがびっくりするかも」
「そうだな」
あいつに意識めいたものがあると、我々は無意識のうちに信じている。さっさと目を覚まさないと元交際相手の秘密を彼女の家族にバラすぞと脅してやれば、慌てて体を動かし始めるだろうか。そんな不謹慎なことすら考えてしまう。
息子の入信は私の功績でも何でもないが、私まで何か大きなものに支えられている気がしてくるから不思議だ。偉大な
ずっといびつなままだった信哉との関係。修復する時間などいくらでもあると思っていた。その中で微かに意識したのは、私自身の寿命。
運動不足ですね――健康診断の度に言われ続けて三十年近く経つ。まさか息子の命が先に危うくなるなど、誰が予想し得ただろう。明日何が起きるかは誰にもわからない。今
息子に、会いに行かねばならない。
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