59 嘘


「でも、志穂の流産を信哉が知ってたっていうのは、私もついさっき知ったのよ。妊娠の嘘は美香さんが勝手にやったことだけど、流産の嘘は二人で一緒につくことになるから自分も同罪だって……本当に流産した姉ちゃんに申し訳ない、先に謝らせてくれって言ってきたそうよ。本当は誰にも言うべきじゃないと思ったでしょうけど、そのことがあったから、唯一志穂にだけ話したのよ」


 言葉を失った。あの信哉が? 他人でしかない一つの家族のために悪役を買って出たばかりか、それを演じ切るために残酷な嘘をつくことについて姉に仁義まで切ったというのか。馬鹿正直にも程がある。


「だから、彼女の妊娠が本当だと思い込んでたときも、堕ろさせるみたいなことは一度も考えなかったんですって」


 私の脳内では、やっちゃってできちゃっただけの愚息でしかなかった。それに乗っかって楽をしようとしている甘ったれにしか見えなかった。できちゃった結果、彼なりに父親になる覚悟を決めたのであろうことを、想像してもみなかった。


「ショーンはね。嘘がわかって彼女には愛想を尽かしても、彼女の家族だけは最後まで守りたかったの」


 我々は美香の両親に、結局一度も会ってはいない。先方の会社のホームページで写真を見た程度だ。


 彼らから見れば信哉は、婿養子にして家業まで継がせるつもりでいた相手。それが大事な一人娘を結婚前に妊娠させ、いざ流産と見るや手のひらを返して逃げ出した。そんな輩がやからあの両親の目にどう映ったかは想像に難くない。


 婚約破棄を申し出た信哉は、どれほど地べたに頭を擦り付け、どれほど罵倒されたことだろう。思い浮かべたその光景にはしかし、どこか見覚えがあった。


――その程度の覚悟でお前は一体、何を背負って立つつもりだったんだ?


――俺が言った通りだろ! 人様の商売に入るのも、家庭を持つのも百年早いんだ!


――さっさと流れてくれてめっけもんだったな!


 苦味のある唾液が、飲み込みきれずに行き場を失う。


 ろくに言い返してこない息子に対し、私はいつも二言三言余計に苦言を浴びせてきたのではなかったか。あの晩とて例外ではなく、信哉は終始押し黙っていたから……。


「ショーンが家を出たのは、非難から逃げたと思ってるんでしょ? 違うのよ。そのまま家にいたら、いつかしゃべらされてしまうからよ」


 リサは興奮気味に先を続けようとしたが、絡みつくような嗚咽おえつがそれを阻んだ。私の視界の端で目尻を拭い始める。


「知ってた? ねえ知ってた? 自分の息子がそういう男だって、一度でもちゃんと知ろうとした?」


 胃をつかまれ、絞り上げられるような心地がした。病室のベッドに横たわる信哉の姿が脳裏にちらつく。


――ああ、これだったのかもしれない。


「正直で、勇気と覚悟があって、お前は素晴らしい。誇りに思え、そのままでいろって、言ってあげたことある?」


――あいつの……。


 正直さや真摯さがこんなにも評価されない。ずるくてあざとくてしたたかな人ばかりが勝ち上がっていく。汚いやり方を避けていたら生き残れない。人間の社会とはそういうところだ。


 しかし、神だけは違う。表面だけを取り繕うことに価値を置かず、いつだって本心を正しく見抜いてくれる。


 狂言流産の事実を伏せてまで相手の家族の円満を保ったのと同様、あいつは入信を我々から隠すことで己の選んだ道を守ろうとしたのだ。


「私が子供を産みたくないのはね、こういう目に遭わせたくないからよ。親になることってこんなに難しいんだ、こんなにうまくいかないんだっていう実例を嫌ってほど見てきてるから、とても自分にできる気がしないの。血を分けた子孫ってものをちゃんと理解して正しく扱うことがいかに不可能かを思い知らされてるから、これ以上被害を出したくないの。自分一人、何とか平穏に一生を終えようと思うだけでやっとやっとなの」


 リサの細い顎が震えていた。麻子がリサの肩に手を添え、ゆっくりと語りかける。


「いいんじゃない、それはそれで。It'sそれで OKいいの。. Yourあなたの opinion考えで. Youあなたが decide決める。. That'sそれで fineいい.」


「言えばわかるものをなぜ言わないって、そんなの横暴でしかない。話してみようかなって思うのは、話せばわかってもらえるっていう前提があってこそでしょ?」


「わかったから、ほら、過呼吸になっちゃうわよ。ね、落ち着いて。ちょっとあなた、お水」


「あ、ああ」


 慌てて立ち上がり、キッチンの流しにあったグラスに冷水機から水を注ぐ。


「疲れたよねえ。ずーっと頑張ってきて。しんどいしんどい」


 居間では、麻子が日本語のままでリサをなだめている。


「結婚してまだ何年も経たないのに、旦那さんが急にこんなことになっちゃったんだもんねえ」


 その言葉にはっとした。それに続き、唐突に思い出した。たくさん話しかけた方がいいとわかっているのに挨拶程度のことしか話せない、というリサの言葉を。


 話しかけて意識だけが戻ってしまうのがかわいそう、という気持ちもあるだろう。しかし、それ以上に……。


 意識が戻っても、重い障害が残ったままだったら? 信哉の面倒を一番近くで見ることになるのは、現実的に考えれば配偶者であるリサだろう。介護生活は、最悪一生続く。


 いっそ死んでくれたら。


 そんな不穏な考えを抱いても不思議はない。長年連れ添った夫婦でも十分ありうること。しかも、私が麻子と過ごしてきたような時間を、リサは信哉とまだ過ごせていないのだ。だが、そんな発想が浮かんでしまう自分をきっと、リサは許せないのではないか。


 最愛の父を亡くしたときに信仰から離れた彼女が、一人の酔っ払いの無謀運転のせいで動かずものも言わなくなってしまった夫の元に毎日通い、人目を忍んでモスクに出入りしている。そこには一体どれほどの感情の波が、どれほどの心の揺れ動きがあったことだろう。


 それを経て、今この瞬間。を長年苦しめた憎き舅と対峙して、彼女の内面はどれほど煮えたぎっているだろう。


――知る努力、か……。


 目に見えず、手に触れられないものを信じるには、まずそれが何であるかを知ろうとすること。端っこがつかめたときこそが信じるチャンス。


 ああ、これらは何も、宗教や神に限ったことではないのかもしれない。



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