55 痛み


 イマームはふと笑みを見せた。


「それにしても、面白いことだ。父子で同じ質問をなさる」


「えっ?」


 彼の目尻がますます下がる。


「シンにも聞かれましたよ。僕の両親や姉や、大勢の親戚や友達は、改宗しないまま天国に行くことはできるのか、と」


――あいつがそんなことを……。


「どんなに善行を尽くしても、神を信じないというただそれだけで地獄に落ちるのではたまらない、と言ってね。いくら神様でもそれはひどい、などとぼやくんですよ。今あなたが座っているその椅子に座って、あなたと同じように眉をぎゅーっと寄せて」


 そう言われ、いつの間にか眉間にしわが寄っていたことに気付く。


「あなたの質問への私の答えは、息子さんに伝えたものと同じです。すなわち……死後に誰がどこへ行くか、それは人間にはわかりません」


「そう、ですよね」


 その返答は予測がついていた。わかっていながらつい聞いてしまうのは、心から信じている者の強さにすがりたいからかもしれない。


「神を信じて心身を捧げることは、コーランでかれている基本事項です。それを守らないことが大きな罪であるのは間違いありません。そう伝えたら、シンは悲愴な顔をしていましたが、まあ無理もない。自らの愛する者が神を信じない。これは信者にとって大変な痛みですからね」


 あいつの痛み……か。その心配の種に私が含まれているというのは、密かな驚きだった。


「ただ、彼はその痛みによって奮起したようなところもありましたね。ご両親やお姉さんにとっては自分が最後のとりでになる。入信にまでは至らないにしても、彼らが少しでも神の存在を意識し始めることがあるとすれば、それは僕の影響によるものかもしれない、と。その唯一のチャンスとして機能できるようになりたい、とね」


 浮かんでくるのは相変わらず覇気のないあいつの声と話し方だが、言っていることの中身自体は一つの「気概」であるように思われた。思いがけぬ発見がカッと熱を帯び、目の奥を突く。


 我々が知り得なかったこの三年半の信哉を知れば知るほど、それ以前の信哉をも私がいかに知らなかったかが露わにされていく。幼子おさなごのように心細く、無力を感じた。


「もちろんシンには、彼自身もまた改宗したからといって何を保証されたわけでもないことは念を押しておきました。はたから見てあの人は天国に行くだろう、地獄に行くだろうと思っても、その通りになるわけじゃありませんし、そもそも人間が人間をそんな風に分類すべきではありませんからね。我々人間は、日々誠心誠意、己を磨くのみです」


 イマームは、刺繍ししゅうの入った長い上衣を手で示した。


「私だってこんな格好をして皆の前に立っていますがね。何も偉いことはない。完璧とは程遠いんですよ。行動だけなら偽ることもできましょう。しかし、神には心の中まで丸見えですからね。メッキのような上辺だけの信心のふりは通用しません。心で神に従うというのは限りなく難しいことです」


 私は、信哉には嫌われていると思ってきた。接点を持とうとすればするほどぎくしゃくする。かといって、怠けていれば会話が完全になくなりかねない。そんな危機感を覚え、つい小言ばかりを浴びせる日々。死後の行き先を案じてもらえるような立場にはない……はずだった。


 結局私はあいつのことを何一つわかろうとしていなかったのかと思うと、ぐったりと倦怠感に襲われた。



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