54 境界
「シンが事故に遭ったことにも、命を取りとめたことにも、意思疎通や身動きができないことにも、すべてに意味があるんですよ」
その「すべて」を、脳裏の走馬灯が容赦なく映し出す。
初めて会う義理の娘に連れられ、しばらく音沙汰のなかった息子とようやく「再会」した。本人の意識が戻らぬ中、義理の家族からあいつの入信や彼らとの交流ぶりを聞き、あいつの新たな一面に触れた。
そう気付いた瞬間、「知る努力」というリサの言葉を思い出す。
幼い頃からずっと、何を考えているのかよくわからない息子だった。私は親として懸命に推測し、取るべき態度や行動を取ってきたつもりだった。しかし、こうして息子が何を思い感じているのかが本当にわからない状態に置かれてみて、私は初めてこいつの心中に真剣に思いを
もしかしたら、と考える。彼らが神と呼んでいるものは、私を何らかの方向へ引っ張って行こうとしてはいまいか。
実際ここへ来てからというもの、イスラム教という未知の価値観に触れ、世の中に対する私自身の見方も少しずつ変わりつつある。宗教について、神について、これまでになく思考を巡らせる日々。
何より、我が息子のもう一つの姿を見た。神と向き合おうとするあいつの
「何か信じがたいもの。その端っこがつかめたと感じるような瞬間があるものです。そんなときこそ、信じるチャンスだと私は思いますね」
私は、表向きはイマームの言葉に真摯に耳を傾けつつも、内心では努めてそこから距離を取ろうとしていた。傾き揺らぐ足場を、何とか踏みしめて立とうとした。それでもなお押し寄せてくる、光の
――ここへ、導かれた? 信哉の元へ……。
得体の知れない妙な興奮と苛立ちに、私は反射的に
「神に、話しかけてごらんなさい」
イマームの穏やかな声。こんなときなら、そうしてみようかという気になる人もまあいるだろうな、と、他人事のように思う。いや、他人事であってくれなくては困る。
「祈りには正しい作法があります。ただし、一番大切なのは心のありようです。作法を知らずとも、神に問いかけ、語りかけることは誰でもできる。神はすべてに耳を傾けているんです」
この感覚は一体何だろう。「ムスリムにならない理由がわからなくなった」という息子の心理に、あと一息で手が届いてしまいそうな気がした。しかし、信哉と違って私は、不意に近付いてきたこの新しい世界に押し流されまいと、自分の今まで通りの立ち位置にしがみついている。
この境目を、あいつは越えたのだ。
今、神を信じる。ムスリムになる。その選択肢を排除している理由は何だと問われたら、答えは一体何だろう。
日本に生まれ育ち、このまま老いていこうとしている、ただそれだけで、宗教を勝手に遠い世界のことと決め付け、その実、自ら遠ざけてはいまいか。息子は日本を出たことで、異文化に触れたことで、あるいは生涯の伴侶となるリサと出会ったことで、そんな曖昧な境界をはっきりと越えたにすぎないのかもしれない。
安易な手段としての入信でなかったとすれば、さぞかし悲壮な覚悟があっての一大決心だったに違いないと私は思い込んでいた。だからこそ、そうまでして脱したいほどの地獄を生み出したのが私でないことを確かめたかった。
実際のところは、信哉にとっては何でもなかったのではないか。婿養子に入ることを一大事と思わなかったのと同様、ファイエドが評したところの「人生に対する柔軟さ」のなせる
私には清水の舞台に見えても、あいつは跳び箱一段ほどの覚悟も必要としなかった。いや……清水の舞台から、大騒ぎせずに黙って飛び降りてみる。そういうことが実はできる奴なのではないか。わかりやすいハングリー精神は、どうつついても出て来ない。だがその分、大きな変化をも受け入れてやっていける強さがある人物。
世紀の新発見のようでもあり、心の奥底ではずっとわかっていたことのようにも思えた。
「あの……最後にもう一つだけお聞きしてよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
麻子を連れてこなくて正解だったな、と思いながら、その問いを口にする。
「信哉は……私の息子は、もし、もしですよ。もしこのまま死んでしまったら、どこへ行くんでしょう? つまりその……イスラム教には天国と地獄がありますよね?」
イマームは軽く首を振り、ゆっくりと、
「別世界のことみたいに言わないでください、
その確信ぶりが、まるで
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