53 偶然


「申し訳ないが、私はそれらを偶然と呼ぶ人間です」


 神につかえる彼の信仰心を、決して否定したり見下したりするつもりはなかった。ただ、納得したふりをするのもそれはそれで不誠実な気がした。


 イマームは何ら気にさわった様子もなく、落ち着いた調子で答える。


「目に見えず、手にも触れられないものを信じるには、まずそれが何であるかを知らなければならない」


「それはまあ、そうでしょうな」


「宗教を抜きにしても、例えば、何たる偶然だろう、とか、偶然にしてはできすぎだ、などと人々は言うでしょう? つまり、無神論者にとっても、偶然が生み出すこの世のあらゆる事象というのは不思議でときに恐ろしいものであるはずです。神を信じる者たちはそれが神の業であることを知っているにすぎない」


「偶然の恐ろしさ、ですか……」


 それは、我々も感じることがあるが。


「ではお聞きしましょう。あなたは今、なぜここにいるんです?」


 急に問いかけられて戸惑う。


「なぜって……先ほどお話ししましたが、息子が入信した理由が気になって」


「いや、この町に、この国に、という意味です」


「ああ、それは……」


 とっくにご存じでしょう、と口に出かかったのを抑える。


「息子が事故に遭って重体だと聞いたものですから」


「そうですね。息子さんを訪ねてこの地にやってくる必要性が生じたわけだ」


 持って回ったような口ぶりにいささかれながら、「その通りですが何か?」と言いかけたとき、私は何やら奇妙な感覚に襲われた。


――必要性?


 その言葉に、突如脳内で再生され始めたのは、日本をつまでの慌ただしい時間。しばらく開けていなかった重い箱の蓋が何かの拍子に外れてしまったかのように、まざまざと思い出される。思わぬ連絡を受け、急いで航空券を取って、麻子と飛行機に乗った。あれはまさに、必要に迫られての行動だった。


 連絡が取れなくなった息子。あいつのことだからそのうち臆面もなく顔を出すだろうと踏んでいたが、気付けば三年以上が経っていた。私はその間に七十を過ぎ、もう会うことはないのかもしれないと感じ始めた。ただ、直接のやりとりはないものの、志穂がSNSでたまに書き込みを見かけている。それさえ保たれていれば、どこでどうしているかぐらいはわかると思った。


 しかし、結婚も、入信も、米国移住も、信哉は巧みに隠しおおせていた。自分が幸せだと言い切れるまではそっとしておいてほしい、という信哉らしからぬ理由で。


 そのまま何もなければ、我々は「信哉はカナダにいてとりあえず無事らしい」と信じ、連絡が取れぬまま一体何年が経過していたことだろう。現住所を知り得たところで、重体とでも言われない限りすぐに現地に飛ぶはずもない。そのうちに誰かが欠けないという保証もなかった。


 だが現実を見れば、我々は今ここにいる。甥っ子の披露宴をきっかけに私がSNSのアカウントを作り、そのお陰でリサと連絡がつき、信哉が事故に遭ったと知って、あいつを訪ねる必要性が生じたせいで。


「連れて来られた……とでも?」


 呟いてしまってから、私は自分が発した言葉の意味を噛み締める。イマームはひゅっと眉を上げ、目を細めた。


「実に、そう見えますね」


 不気味な寒気さむけに襲われ、ぶるっと頭を振る。恐れていた逢魔おうまがときを不意に迎えてしまったような心地がした。


「いえ、私自身がそう信じているとはとても言えません。イスラム教徒ならきっとそう解釈すると思っただけです。この数週間、彼らの考え方を教えてもらう機会が多かったもので」


「そうですか。それは貴重な機会を手になさいました」


 イマームが小声で「アルハムドゥリラー」と呟く。意味は確か、神に称賛あれ……だったか。


 思えば、ここまでの道のりは答えの見えない問いの連続だった。なぜうちの息子がこんな目に。これから一体どうなるんだ。我々はどうしたらいいんだ。それらに今、一筋の光が差したように感じられたのは気のせいだろうか。


 実際には、何一つ解決などしていない。何一つ。しかし、ファイエドといい、このイマームといい、なぜこんなに穏やかでいられるのだろう。死に損ないの植物状態にある、絶望に程近いあいつを思うときに彼らはなぜ。


 いや、考えるまでもない。結局血のつながっていない他人なのだ。我々と同じ思いでいるはずなどない。……それが私の普段の思考だよな、と、どこか客観的に己の心持ちを眺めているもう一人の人格を感じる。誰なんだ、これは一体。


 混乱した脳が、イマームの呟く「スブハナ・アラー」の一言をかろうじて捉える。完璧なる神に栄光あれ。


 信じる者の強さを、これほどまでにひしひしと感じたことがあっただろうか。


 誰だって、信じられたらどんなに楽だろう。命すら助かるかどうかわからない状況で、神はこいつを決して悪いようにはしない、と信じることができたら。



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