52 神意


「ただ、本人の動機が何であるにせよ、神がそうと決めなければこうはなりませんのでね。強いて言うならそれが真の理由、でしょうか」


 ファイエドもそう言っていた。あいつは神に選ばれたのだと。私は今でも「まさか」としか思えずにいる。


 麻子は、神なんてものはドラゴンだのペガサスだのと同じというのが信条で、信じたい人は信じればいい、息子が信じたいならそれでいい、というスタンスだ。


 リサは何と言うだろう。宗教を好んではいなくても、ムスリムとして生まれ育った彼女の価値観は、私や麻子とは明白に異なるはず。夫が神に選ばれた人間だという考えに、彼女は同意するだろうか。


 できる範囲で教義を守ろうとしていたところから、父の死、結婚、そして夫の意識障害にさらされ、リサの「イマーン」は今再び大きく揺さぶられているのではないか。この世は神が与えたテスト、というファイエドの言葉を思い出す。


「あの……リサをご存じですよね? 信哉の妻の」


「ええ、もちろん」


「実は、先ほどそこの通りの先で出くわしましてね」


「ああ、そうでしたか」


「僕より先にここに来てたとは、驚きましたよ」


 一か八かで鎌をかけた。


「まあ……彼女にとっても困難なときですからね」


 やっぱり。


「リサはお祈りをしに来たんでしょうか?」


「どうでしょうね。小部屋でしばらく過ごして帰ることもあるようですが、いつ来ていつ帰っているのかは私も把握していませんので」


 なるほど。結構な頻度で訪れていそうなニュアンスだ。


「あなたに何かご相談を?」


「ええ、まあ、ときにはね」


 彼は内容を私に明かす気はないらしく、私ももちろん詮索する気はない。


「私にできるのは、神の教えを引用することぐらいですがね。神の助けを得て道を見出す。人には結局それしかないんです。リサも暗闇を抜けて道を見出せるといいですね」


 イマームの「イン・シャー・アラー」には、今度はさらに二言三言のアラビア語が続いた。


「あなたもお辛いでしょうが、リサも辛い。しかし、すべては神の意思のもとで動いています。何事も、何となく偶然そうなることは決してないんですよ」


「すべてに意味がある、ですか」


 イマームは深くうなずいた。


「そうです、すべてに。ほら、息子さんをご覧なさい。ひょんなことからカナダに行き、そこでリサという伴侶を得、イスラム教を受け入れたわけでしょう?」


 ひょんなこと、すなわち私の激昂だ。私が追い出したことが、結果オーライだったと? 神や信者から見ればそうかもしれない。だが、その後あいつはこの町に引っ越し、間もなく起きたのがこの事故だ。私の腑に落ちない様子を、イマームは察知したらしい。


「どんな意味があるのか、人間にはわからないことの方が圧倒的に多い。しかし、神はときに、御手の内を垣間見せてくださいます。そんなとき、人はもはやひれ伏すことしかできない。リサだって、ずっとアメリカに留まっていたら、シンと出会うことはなかったわけですからね」


 彼の指摘通り、妙な運がいくつも重なって今があるのは間違いない。リサをカナダに向かわせたのは、サフィナによれば、従妹の離婚だった。それだけではない。リサがもし信心深ければ、クラブなんて場所に行くこともなかったかもしれない。酒を飲んで踊るような場所で遊んでいたのは、宗教なんて糞食らえという心理からだろう。彼女をそんな風にしたのは、父親の早すぎる死。


 誤解されやすい彼女が、一番の理解者だった父を失った。その結果、好むと好まざるとにかかわらず、ようやく親離れに至った、のかもしれない。もともと結婚願望は薄かったそうだが、男親を失って少しは気持ちが傾いたか? 夜の遊び場で出会った信哉を生涯の相手とまで見るのに、その経緯が一役買った? いやいやいや、さすがに飛躍しすぎだ。何にでも意味を見出そうとしていたらきりがない。



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