47 進展


 今がチャンスかもしれない。私は思い切って切り出した。


「信哉は……改宗の理由について何か言ってたかな? きっかけは結婚だとしても、最終的には自分の選択と言い切れるようになったわけだろう?」


「ええ」


 リサはしばらくテーブルを見つめていた。


「ムスリムにならない理由がわからなくなった。そう言ってました」


――ならない理由……だと?


 息子が口にする言葉として、しっくり来なかった。


 考え込む私を、ページを繰っていた麻子がつつく。


「ねえ、これ」


「ん?」


 麻子がノートを指差す。


「土葬のことが書いてある。『復活時に体必要』、『魂は体にはないので虫は感じない』……」


 虫への言及に、思いがけず笑いを誘われた。いつだったか、テレビでどこぞの土葬の話が出たとき、ミミズだの何だのが大嫌いな信哉は、日本人でよかった、火葬以外考えられない、と安堵していたものだ。


「イスラム教では、土葬以外は認められてないんです。私の知識も正確とは言えないんですけど……最後の審判、つまり世界の終わりの日に死者が皆よみがえって裁きを受ける、そのときに魂を戻すための体を残しておくとか、人間を焼くことは罰として神のみが行うべき行為だとか、そういった意味があるみたいですね」


 そう信じている人々から見れば、日本で火葬が主流であることの方が恐ろしいかもしれない。


「ショーンは、最初は虫が怖いって言ってたんですけど、ミミズが這い回るのを感じるってことは、焼かれる熱さも感じるってことじゃない? って言ったら、ああ、それもそうだなあって」


 リサの論理的指摘にあっさり屈する様子が目に浮かぶ。


「最終的には、去年のラマダンをここでみんなと過ごしていろいろ思うところがあったみたいで……土葬の覚悟だけは決まった、って笑ってましたよ」


 つまり、土に埋められた遺体にはもはや魂が宿っていないのだと、信じるに至ったのだろう。私は、息子が真の信仰に一歩近付くさまを目撃したような心境だった。土葬でも大丈夫な理由を連ねた先には矢印があり、その先にでかでかと「OK!」の文字。


「これは一つの意思確認になるんじゃないか? 延命とは直接関係ないけど、死後のことをイスラム式でやってほしいっていう希望なわけだから、参考にはなる」


「そうね。何なら、土葬についての話はサフィナたちも聞いてたから、証人になれるでしょうし」


 一歩前進だ。もちろん、ちゃんと意識が戻って、こんな意思確認は不要になってくれるに越したことはないが。


 ノートのその後の部分には、ファイエドが説明してくれたハラルの概念について少し詳しく書いてあり、それ以外は概ね何かしらの記事や動画から得た気付きだった。


「これ、よかったらしばらく持っててくださいな」


 リサはノートを我々に託した。自分が持っていてもどうせ読めないから、という理由ではあるが、彼女にとってはいろんな意味で大切なものだろうに……。その預け先として信頼してくれたことが妙に嬉しかった。




 そんなやりとりを知っているはずもなかろうに、まるで事態の進展を喜ぶかのごとく、翌日の信哉には再び微かな変化が見られた。


 これまでにも、リサがマッサージやひげりをしてやっているときに手足が動くことはあったと聞いている。それについては脊髄反射だとニールズ先生から言われているし、比較的よく見られる現象らしい。


 しかし今日は、高齢者がするように口をもごもごと動かしたのだ。それだけではない。まっすぐ天井を見上げていたはずの目が、いつの間にか少し窓側寄りを見つめていた。改めて見直せば、頭の角度も先ほどとは少し変わったように見える。いや、気のせいか?


 ニールズ先生が不在だったため、似たような年格好の代理の医師がやって来て、やはりひと通り決まったチェックがなされた。結果は、眼球は物の動きを追っては来ない、だから意識があるとは言えない、というものだった。


 我々もそれを聞いたところで、もはやがっかりはしない。医師はそう言うけれども、これはきっと回復の兆候。


 そう希望を持って、誰もが日々信哉に話しかけてくれている。ファイエドたちをはじめ、モスク仲間や近所の友人、リサの同僚などが代わる代わる病室を訪れ、信哉を、そして我々を励ましてくれているのだ。これもあいつの人徳か。


 母さんの血を引いてよかったな、と、心の中でそっと声をかけた。



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