第4章

48 ソラーラ


 三十年ぶりの右車線走行にもだいぶ慣れた。日本車といっても生まれは北米。ハンドルはもちろん左だし、スピードメーターはマイルとキロメートルの併記だ。


 アメリカでは道路標識がマイルだからメーターもマイルがメインとなり、キロメートルは内側に小さく書かれているだけ。ちなみに、カナダではメートル法が基本なのでこれが逆転する。


 今日は麻子を病室に残し、私は一人で車を走らせていた。目的地は、あのモスク。


 ファイエドは「いつ行ってもいい」と言っていたが、信者でもない私が突然訪れても入れてくれるのだろうか。急に思い立ったから、誰かに確認することもしなかった。まあいい。追い返されたらまた出直そう。


 何気なく通り沿いの風景を眺め、そういえば、と気付く。この小さなショッピングモール。金曜日のお祈りを見学した帰りに、リサのものらしき車を見かけた場所だ。咄嗟にウィンカーを出し、右折する。


 駐車場に入り、念のためぐるりと見回してみるが、今日はソラーラはいない。軒先をかすめるように車を進めながら店の看板を見ていくと、水着屋さんに、空手・テコンドー教室、自転車屋……いずれも、リサがこんなときに訪れるとは考えにくいテナントばかり。


 あれがもし本当にリサの車だったなら、彼女の本当の目的地はきっとこのモールではない。まあ、憶測でしかないし、真相を知ったところでどうということもないが。


 モスクに向かって通りをしばらく走り、見るともなしに目を向けた先に、


「あっ……」


 いた。左手の駐車場に、白のソラーラ。


「おいおい、冗談だろ?」


 このタイミングでお出ましとは……。あの赤い消臭剤。間違いない。ルームミラーにるすタイプの、クリスマスツリーをかたどった有名ブランドの人気商品だ。本人は車内にも周囲にも見当たらない。


 駐車場に入ってみると、「Natural自然 History Museum博物館」と看板が出ている。博物館といっても、田舎の観光案内所みたいな小さな建物。これはやはり、あのときのソラーラもリサだったと見るのが自然だろう。今日は金曜日ですらないが。


 駐車スペースの一つに車を入れてはみたものの、待ち伏せなどしていたら嫌がられることは目に見えている。わざわざ人目を避けて妙な場所に車を停める彼女を、ここで呼び止めるのは得策でない。しかし、私が今モスクに向かえば、いずれにしろ顔を合わせてしまうかもしれない。


 さて、どうしたものか。その辺の店で時間を潰すか? それとも、そこまで気を遣う必要はないのか?


 運転席で一人思案していると、視界に動くものが感じ取れた。……リサだ。


――しまった、遅かったか。


 少し距離があるからうまくいけばやり過ごせるだろうか、と、息を詰めてみる。


――ん?


 どこか様子がおかしい。折りたたんだスカーフらしきものを握り締めた拳が、不自然に固く見える。泣いてる? いや、泣いていた、のか。打ちひしがれたようなリサの顔がこちらを向いた。


――いかん、見つかった。


 その表情がたちまち驚愕に、さらに困惑へと変わる。こうなったらもう仕方ない。私は手を振って見せ、車を降りた。


「やあ」


 声をかけながら歩み寄ると、リサは大仰に肩をすくめる。


「ちょっと、何なの? ストーカー?」


 その冗談めかした調子と、いたずらっぽく笑う目尻に安堵した。


「いや、まさか。奇遇なこともあるもんだねえ。こんなところで会うなんて」


「ほんと。、ね」


 リサは博物館の看板を振り返り、「言い訳したければどうぞ」とでも言うように腕を組んで私を見つめる。


「いや、実はね。あのモスクにいるイマームにちょっと聞きたいことがあって」


「へえ、それは勤勉ね」


「特に約束してるわけじゃないんだけど、いきなり訪ねて行って会えるもんなのかな?」


 リサは反射的に答えようとする素振りを見せたが、思い直したようにこう言った。


「この時間ならモスクは開いてるし……まあ、すぐそこだから、行ってみたら?」


「そうだね。うん、行ってみるよ。ありがとう」


 イマームに何の用かと、リサは聞いてこないという確信があった。ほじくられたくないのはお互い様。


 そういえば、こんな風にリサのことは何だかよくわかる……気がする。信哉のことよりも、ずっと。


 なぜだろうなとぼんやり考えながら、


「じゃあ、後でまた」


と、リサに背を向ける。車に戻ろうとすると、その声が追ってきた。


「ねえ、一つ聞いていいかしら?」


「ああ、何?」


 力のある目が、こちらをまっすぐに見据えている。


Whyどう didnして't you止め stopなかっ himたの?」


「え?」


 聞き返しながら、内心眉をひそめた。


 私が、信哉を、止めなかった理由。今ここですべき話じゃない、という否定と、やはり事情は知っていたのか、ついにこの時が来たか、という思いとが入り混じる。



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