44 ノート
ここです、と案内されたのは、二階建ての古びたアパート。二階の角部屋が信哉とリサの部屋だった。
中は意外に広い。リビングが十畳ほどあるだろうか。ベッドルームはきちんと別室になっていて、キッチンも使い勝手は悪くなさそうだ。
リビングの壁と向き合う形で黒のデスク。そこに一冊だけぽんと置いてあるA5サイズのノートが今日のメインテーマだと、すぐにわかった。
信哉の「イスラムノート」の存在をリサが知らせてくれたのは、胃ろうの話が出てから二日後のこと。リサは、信哉が日々の疑問や学びを書き留めていることは知っていたが、中身を見せてもらったことはないそうだ。今回、信哉の延命観の手がかりがあればと思って開いてはみたものの、大半が日本語なので何が書いてあるのかわからないという。
あいつは子供の頃から日々思ったことだの何だのをちまちまと書き付ける習慣があった。その点を考慮すると、これは単なる学習帳以上の機能を果たしている可能性が高い。つまりは、プライバシーそのもの。
私は留守中に自室を
信哉としても、妻にさえ読まれたことがない、多分に個人的な記録を親に読まれるのは不本意に違いないが、この際そうも言っていられなかった。いざ見込みがないと決まったらやめていいから胃ろうの処置をお願いします、と言えるよう、さっさとニールズ先生に根拠を提示する必要がある。
ソファーに座り、恐る恐るページをめくった。筆圧の弱い、ひょろひょろとしたあいつらしい文字が目に飛び込んでくる。何だか遺書でも紐解いているようで、涙腺が緩むのとしばし闘わなければならなかった。
「あ、ごめんなさい、コーヒー切らしてた。緑茶しかないけどいいかしら?」
「ああ、うん、ありがとう」
砂糖は入れないで、と言いかけて、日本人の夫を持つリサにそのリクエストは不要だろうと思い直した。初日のホテルだって、ダブルルームではなくわざわざツインを手配してくれたほど気の回る嫁なのだ。
「イスラムノート」の最初のページには、「
一番上が「Shahadah(信仰宣言)」。以前リサが言っていたシャハダのことだ。その下に、「Salat(祈り)」、「Zakat(施し)」、「Sawm(断食)」、と続き、最後の「Hajj」にだけ日本語の説明がなかった。電気ポットをセットし終えたらしきリサに尋ねる。
「ハッジというのは、メッカに行く巡礼のことだったかな?」
「そうです。経済的、体力的に可能であれば、最低でも一生に一度はしないといけないの。父は幸い、生前に母と行くことができました」
「そうか。よかったね」
「サフィナとファイエド
「へえ、そんなのもあるんだ」
次のページには、「Fajr」、「Dhuhr」、「Asr」……と、やはりイスラム用語的なものが並んでいる。
「あ、それはお祈りの名前と、タイミングとそれぞれの回数。義務の分が何セット、オプションが何セットって分けて書いてるの」
相変わらず几帳面なことだ。その後しばらくイスラム教の
「あ、お祈りの作法だね」
「そう。それと、お清めの手順も」
ところどころに線が引かれ、書き込みがしてある。お祈りの具体的な文言は、蛍光ペンで細かく色分けされていた。アラビア語をアルファベットで記したものとその英訳の、どの部分が意味的に対応するかを示しているらしい。
英語は一応得意科目だったし、ベンガル語もいくらか話せるようになったとのことだが、さすがにアラビア語まですいすい習得できたわけではなかろう。そう考えると、これらは紛れもなく努力の
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