42 信心
「リサにとっては父が一番の理解者でしたから、しばらくはノイローゼのようになって、あの子、通院してたんですよ。お薬ももらって」
「神に裏切られた。そう思っただろうね、彼女は」
サフィナが一瞬、言葉に詰まる。
「ええ、そう……かもしれません」
「でも、君も同じ悲劇に見舞われたわけだけど、信仰をやめはしなかった。そうだね?」
「私は……逆です」
「逆?」
「父の死を境に、神様をより近くに感じるようになったというか……ヒジャブを
それはまた随分と両極端だ。
「父はもともと宗教に対して懐疑的なところがありました。生まれ育った家庭も決して信心深くはなかったし、母の影響で、四十を過ぎてようやくイスラムに
そう言われて考えてみれば、信心度の変化というのは意外によくあることなのかもしれない。いろんなレベルの信者が存在するぐらいだから、個人の一生を通じた変化も何ら不思議ではない。第一、我が息子がその好例ではないか。私自身の身に起きたことがないからぴんと来ていなかった。
「お医者さんからいよいよ危ないと言われて、私たちもダッカに集まりました」
サフィナの話では、父親は最期が近付くにつれ、家族への感謝と謝罪を述べながら、幾度となく神に言及したという。美しいこの世を生み出してくださり、素晴らしい家族を与えてくださり、それなのに自分は良き
そんなある明け方。アイシャよりも早くお祈りを終えたサフィナが父の傍に行くと、部屋の中に人の気配があった。父は誰もいるはずのない空間を見つめ、顔中に幸福を湛えて「ありがとう、ありがとう、なんて素晴らしいんだ、スブハナ・アラー」と呟いたという。「スブハナ・アラー」というのは、完璧なる神に栄光あれ、という意味らしい。
「急いで母とリサを呼んで……戻ったときにはさっきの気配は消えてました。代わりに何とも言えない、いい匂いが漂っていたんです。花でもないし、果物とも違う、これまでに嗅いだことのない
サフィナはその香りを呼び覚まそうとするかのように長い瞬きをした。
「人が死ぬときには天使がやってくるそうですし、天使は良い香りを残していくことがあると聞きますから、父とはこれでお別れになるのだと覚悟を決めました。実際、呼吸と心臓が止まったのは、それから間もなくです。でも、後から聞いてみても、その匂いのことを誰もおぼえてないんです。父の容態に気を取られてたせいかもしれませんが、全く気付かなかったと」
何か霊的なものだったのだろうか。
「そんな忘れがたい体験を与えられて、全面的な崇敬の念が生まれました。神様は間違いなく存在していると、最終的な確信を持ったという感じでしょうか」
人の死に目に不思議な現象が起きたり、死にゆく人が人知を超えた何かを目撃したりというのは、日本でも聞く話だ。
「そうか。お父さんは良い場所に行けたってことだね」
しかし、サフィナが返したのは手放しの歓喜ではなく、「そう願います、イン・シャー・アラー」という言葉だった。
「もし天国に行けるとしても、その前に何らかの罰が必ず下ります。晩年の父は良いムスリムだったと私は思いますが、完璧な善人なんてあり得ませんからね。外面はきちんとしているようでも、人は罪深い生き物。胸の内には何かしら罪を抱えているものでしょう?」
その言葉が私に向けられたものではないと知りつつも、グサリと痛いところを突かれた気がした。胸の内の罪。人知れず心の奥を湿らせている後ろめたさ。神を信じる信じないは別にしても、耳の痛い話だ。
「人の心を知るのは神だけ。驚かれるかもしれませんけど、殺人を犯した人ですら、心から罪を悔いて神に
「うーん、それは納得いかないなあ」
「ええ、私たち人間から見れば受け入れがたい部分もあります。もちろん、後で反省さえすれば罪を犯していいよという意味ではありません。それぐらいに私たちの能力も想像も超えたところで判断されるっていう例なんです。例えばほら、ヒジャブを被っていなかったり、お祈りや食事のことを守っていなくたって、心のムスリム度は誰よりも素晴らしいかもしれないでしょう? 心の中の状態こそ、一番大切なんですよ」
何だろう。子供の頃から飽きるほど見聞きしてきた考え方のようでいて、全く新しい何かのような印象を受ける。目を背けてきたものをとうとう直視させられるような、何とも穏やかでない気分が残った。
「心は見えませんから、私たちには他の人間の善し悪しを判断することはできません」
「神のみぞ知る、か」
半ば独り言のような私の呟きに、サフィナは「その通り」と大きくうなずく。
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