40 主


「彼は本当に素晴らしいムスリムです。僕らも見習わないといけない」


 ファイエドはしみじみとそんなことを言い、


「まあお座りください」


と、ソファーを勧めてくれる。


「まず大事なポイントとして……神は我々の祈りを決して無視などしません。各自のベストを尽くして誠心誠意祈ったなら、必ず神に届いています」


「ただし、望んだものが与えられるとは限らない」


「ええ。それを与えることが僕らにとって実は有益でないのかもしれない。理由は何となく思い当たることもあれば、考えてもわからないこともあります。祈りというのは、願い事を叶えてもらうための注文システムではありません。神は人間の願いを叶えるという約束など、はなからしてないんです」


「それでよく祈る人がいなくならないね」


「もちろん、叶うとは限らないと知りつつ祈り続けるのは楽じゃない。ですが、これもテストのうちなんです」


 この世のあらゆる出来事はテスト。やはりそこに帰結するのか。


「祈りは最も基本的な義務です。人間は神の奴隷……と言うと語弊がありますが、人間の想像力をはるかに超える神の慈愛と慈悲に抱かれ、手厚いケアを保証されたしもべなんですよ。祈ることは、神とのつながりを築き維持するための、いわばリマインダーです。最低限の必須事項でこそあれ、プラスアルファの善行ではない」


「なるほど」


「人は簡単に忘れる生き物ですから、最低でも一日五回はそれをしないといけないわけです。たまにね、攻撃的な無神論者なんかが祈りが叶わないことを騒ぎ立てて、ほらやっぱり神は存在しないんだ、と得意になってますがね。願ったことを叶えるなんて神は一言も言ってない。ただし、奴隷として神に尽くすことは必ず報われます」


「死後の世界で、だね?」


「そういうことです」


 この世で叶うとは限らない。しかし、あの世で褒美が与えられる。それをこうも信じ切って生きている人が目の前にいるという事実が、未だに不思議だ。


「うちのローハンがね、お祈りをして、もし神様が願い事を叶えてくれたら毎日欠かさずにやる、なんて言い出したことがありまして」


「ははあ」


 私にはよくわかる言い分だ。


「子供たちは学校やあちこちでいろんな文化にさらされます。その影響をいとも簡単に受ける。神を試すなんてとんでもないと言って聞かせましたが……あの年齢じゃまだ難しいですね」


 あの無邪気な少年も、この父親のように疑いなく信心に傾倒する日が来るのだろうか。


「真摯に一貫して語りかければ、神はその何倍もの恩恵を与えてくれる。息子さんはさすがですよ。シンが何気なく口にすることには、彼自身が体得した実感がこもってるんでね。非常に面白いし、勉強になります。彼が目を覚ましたときに、じっくり聞かせてもらうといい」


 それに続いて案の定、「イン・シャー・アラー」が発された。


「イン・シャー・アラー。神がそう望めば、か」


「その通り。ムスリムでない人からは、何かにつけて『イン・シャー・アラー』と神任せにするのは責任逃れだと非難されることもあります。でも、我々人間の意思や希望は神の意思には絶対に敵わないという基本理解がある。私はこうする、この件はこうなる、と言い切ることに抵抗を感じるものなんですよ」


「神が回復を望まなければ、信哉はこのまま死ぬ。そういうことだね?」


「残念ながら……それを否定する権限は僕にはありません」


「正直でいいね。いや、皮肉じゃなく、本当に感謝するよ」


 甘い言葉を聞かされたところで、現実が変わるわけではない。


「みんな、シンには生きてほしいと思ってますし、あれだけの立派なムスリムを神が悪いようにするはずがないと信じてます。ただしですね、前にも言いましたが、彼が事故に遭ったことは何の罰でもない。そして死もまた、罰ではありません」


「うん。そういうことになるみたいだね、どうやら」


「もっと言えば、死が必ずしも最悪の事態とも限りませんよね?」


「ああ、例えば、命は取りとめても、体や知能に重い障害が残るかもしれないしね」


 あるいは、リサの言うように意識が戻り、動かぬ体に閉じ込められる可能性もないとはいえない。


「そう。死はそういった苦難からの救いとなることもあります。神が救うと決めたからこそ死が訪れることもあるかもしれない。我々人間は科学や医療の限りを尽くしますが、それを超えたらもう神の領域なんです。信じて委ねるしかない。あとは祈るだけというのが僕らの思想です」


 なるほど。叶うとは限らないと知りつつ祈り続ける。それはまさしく、どんなときでもあなたを信じますという奴隷の服従宣言だ。その構造が今、クリアに見えた気がした。



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