第3章
37 胃ろう
到着から二週間少々が経った頃、今後の治療方針のことで話がある、と病院から連絡があり、来院日時を指定された。
これまでも毎日面会には行っているし、質問があったりたまたま通りかかったりすればニールズ先生とも言葉は交わしてきたが、呼び出されるのは初めてだ。ちょうど、信哉の顔のむくみがだいぶ引いたなと感じ始めたところだった。私と麻子とリサの三人で話を聞くことにした。
先生が言うには、怪我自体と手術からの回復という意味では一区切りがついたとのこと。脳の腫れを
「ガストロストミーの処置について、検討する必要があります」
お腹に穴を開け、チューブで胃に流動食を送り込む、と説明され、胃ろうのことであると理解した。
「胃ろうというのは、造設もその後の食事の投与も、技術的に難しいことではないんです。ただ、生命維持の補助という見方が強いものですから、常に倫理的な問題がついて回って判断が複雑になるんですよ」
それを聞いて思い出した。兄貴の奥さんの母親の最期が近かったとき、胃ろうをするしないで親族がさんざんもめたのだ。
「口から食べられなくて本来なら死んでいるものを、無理に生かす手段だから、という意味ですね?」
「はい、端的に言えばそういうことです。決断の決め手となるのは、まず回復の見込みがどの程度か。それと、ご本人が何を望むか。前にも言いましたが、息子さんはまだ若いし、脳の損傷原因が外傷でしたので、意識が戻る見込みは植物状態の患者さんの中では高い方です。胃ろうによって栄養状態が向上し、意識回復に備えてコンディションを整えられるという期待もある。それらを踏まえると、例外的にこの方針をご提案できる状況なんです」
「例外的」という部分を、彼は心なしか強調した。
「実は胃ろうは、始めるよりもやめるのが大変でしてね」
いざ胃ろうに切り替えて待ってみても意識が戻らなかったとする。さらに長期間を経て回復の見込みも低下した場合、チューブでの栄養補給を取りやめるには裁判所の許可が必要になる。その際に最大の焦点となるのが、患者本人の意向。つまり胃ろう措置の中止は、家族が望む場合でも、本人の意思を裁判で証明して初めて可能なのだという。
「というわけで、胃ろうを始める前にご本人の考えを確認したいんです」
本人の考え、か……。兄貴の義母に関しては結局、本人が人工的な延命を望んでいなかったことを理由に胃ろうの造設自体をしなかった。
「うーん、まさかこの若さでこんなことになるとは思ってもみなかったんで、そういう話は……」
と言いかけ、リサの方を見やるが、その表情は何をも語ってはいなかった。
「もちろん、今すぐじゃなくてかまいません。会話の中にヒントがなかったか、書き残されたものがないかなど、ご家族でゆっくり話し合ってみてください。さほど急を要することではありませんので」
先生が退席し、我々は顔を見合わせる。
「なんかあれよね。見込みがあるうちからこんな話……胃ろうにして確率上がるんなら、ごちゃごちゃ言わずにやるしかないじゃないね」
麻子が釈然としないのもわかるが、これは実際、やるやらないの議論ではない。日本ですら倫理論争になる処置を、アメリカの医療機関が警戒するのは当然だ。
といっても、仮に我々が反対したからといって医師が胃ろうの開始自体を取りやめるとは考えにくい。予後が改善される可能性があるからには、現時点では延命ではなく治療行為に相当するからだ。本人の意思が考慮されるのは、いざ導入した後に効果がないとわかった場合だろう。つまり、先方は早々と予防線を張ろうとしているだけのこと。
「こういう国なんだよ。やるものはやると決まってるが、やめるべきときにはごねませんとあらかじめ明言してくれってことさ」
そう日本語で告げておいて、今度はリサの方へと向き直る。
「さて、君はどう思う? 信哉とこれまでにそういう話は?」
「具体的な話はしたことないですね」
「うちでは、私や麻子についての話が出たぐらいだな。我々がいよいよになったとき、延命処置はしないでくれと。あれももう随分前だけど、志穂も信哉もそうだねと言ってたから、二人とも自分の場合にも延命なしと思ってるんじゃないかな」
そう考えるのが自然だし、そうでなければ話が進まない。
「そうね。チューブをつないでずっと生かしておいてくれとは言わないでしょうね」
リサもうなずく。妻の立場にあるリサと意見が合わなかったら厄介だったが、どうにかスムーズにいきそうだと
「ショーンは普段から、自分がみんなのお荷物になってると思ってるし……」
「ああ」
思い当たる節は多々ある。
「きっと今だってそう」
リサの言葉に、ドキッとして目の前の息子の顔を見る。先日の信哉の笑顔めいたものについては、リサにも知らせてあった。
「
もちろん、あり得ないとは言い切れない。私自身は、後で落胆したくないからこそ過剰な期待をかけないようにしているが。
「医学的には意識がないと診断されてても、実は意識があったって人、結構いるのよ。ショーンはもしかしたら本当に見えたり聞こえたりしてて、私たちがここにいることもわかってるのかも」
ああ、リサはそんな風に考えていたのか。
「いっそ意識がない方が本人のためのような気がしちゃう」
一瞬、聞き違いかと思った。
「……何だって?」
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