36 テスト


「シンは心の綺麗な人間です。今に誰よりもハッピーなムスリムライフを手に入れますよ」


――ムスリムライフ、か……。


 幸せだと胸を張って言えるようになるまで日本の家族には明かさない。そう語った信哉の思いが、今ようやく微かに伝わってきた気がした。


 しかし、幸不幸以前にまずは生きなくてはならない。今も一人病室にいる息子を思う。イン・シャー・アラー、とお決まりの言葉を呟くファイエドに、ちょっと意地悪な質問をしてみたくなった。


「信じる者は救われる、と宗教は言うけどね。それが本当なら、信哉はなぜこんな目に? 何教徒でもなかったあいつがわざわざ入信して、曲がりなりにも教義を守ろうとしてたわけだよね? そんな人間が事故で命すら危うい状況になって、不信心な私の方がピンピンしてる。おかしいだろう? 本来、罰するなら私の方じゃないのかな?」


 ファイエドは、その疑問はごもっとも、と大きくうなずいた。


「しかしですね、まず、これは罰じゃありません。あらゆる事故も、病気も、苦難も、死も、神の罰と捉えるべきではないんです」


「ほう」


「じゃあ何なのかといえば、テストなんですよ」


「……テスト?」


「そう。大前提として、人間にとってこの世のすべてはテストなんです。全員にあらゆる困難が降りかかる。ときにそれは困難の形をしていないこともあります。例えば、突然大金が手に入ったり、絶世の美女から言い寄られたりね。我々が正しく対処できるかどうかが試されてるわけです」


 つまり、試練と言い換えてもいいだろう。


「ただし、与えられるテストの回数や難度は、皆均等じゃない」


「ああ、あれだね。神はあなたが乗り越えられない試練を与えはしない、っていう」


「その通りです」


 志穂が通っていた幼稚園がたまたまプロテスタント系で、保護者もたまに説教を聞く機会があった。私や麻子には賛同できない教えも多々あったが、それはさておき、キリスト教とイスラム教の教えにはある程度共通点があるのかもしれない。


「一つひとつの事象をどう捉えてどう行動するか。それらすべてを神は見ています。理不尽な事故に遭うこともある。これもテストのうちです。シン自身にとってもそうですし、僕らみんなにとってね」


「テストの合否がつまり、天国と地獄ってことかい?」


「そうです。我々は死後の世界がこの世の付け足しみたいに思ってしまいがちですが、本当はあちらがメインなんですよ。この世はテスト段階にすぎない。この世で裁かれていないように見える罪も、あの世で必ず罰されます」


「テストねえ」


 私の感覚からすれば、フェアじゃないといういきどおりがどうしてもぬぐえない。それがどうやら顔に出ていたらしい。


「そうは思えない、という方ももちろんいるでしょう。僕らはそう信じている……というより、僕らにとってはこれが真実そのものなんですが、世の中にはそうでない考え方もたくさんあります」


「そうだね」


「意外かもしれませんが、イスラム教は強制しない宗教です。だから押し売りのような布教は正しくないんですよ。僕らにできるのは、正しい教義を知り、情報として提供すること。あとは自ら守る努力をして模範となることぐらいです」


「そうかもしれないね。でも、相手が身内となったら、そうそう放ってはおけないんじゃないかい?」


 ファイエドの笑みに苦みが混じった。


「リサのことですね」


 私はうなずいた。この世の罪があの世で必ず裁かれると信じ切っている身で、リサのような反逆児を間近に見るのはさぞかしもどかしいだろう。


「僕とサフィナは親同士が親しかったもので、リサのことは子供の頃からよく知ってます。人一倍努力家ながら誤解されやすく、世の中に対する怒りを抱いている。でも、形だけ真似するよりはよっぽどいい。彼女は表面だけ取り繕うってことができない……というより、嫌いなんでしょうね。それが救いです。正直すぎちゃうんだと思いますよ」


 正直すぎる……どこかで聞いたような話だ。


「こればかりは時が来るのを待つしかありません。すべては神の意思次第。とはいえ、良いムスリムと日常的に接することは何よりの薬ですから、ありがたいことですよ。本当ならリサがお手本になっていろいろ教えてあげられたらいいんですが、この分だと逆になりそうですね。つくづくラッキーな夫婦です」


 信哉の影響でリサが変わることを期待しているのは、母アイシャだけではないようだ。


「この世のすべてには意味があります。幸にも不幸にも必ず。シンが僕らの家族に加わったことにも、事故に遭って意識を失っていることにもね。すべては神の意図によるんです」


 一つはっきりしているのは、私と麻子には、そこに神の意図を見出す習慣はないということだ。あらゆる出来事の背景には、人間の故意または過失、でなければ偶然がある。それが我々にとっての真実だ。


 そんな家庭で育った信哉が、一体いつ境界線を飛び越えたのか。


 いつ、そして、なぜ。



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