35 御業


「お祈り中って、他のすべてを忘れて集中する、って感じね。さっき、子供たちが走り回っちゃったりして大変な騒ぎだったけど、みんな無視してお祈り続けてた」


という麻子の感想を、英訳して伝える。


「そうですね。周りの呼びかけに反応したり他のことを考えてたりすると、祈りが無効になりますから」


 格好だけやっても意味はないのだ。何というか、さすが宗教、と言いたくなる。


「信哉は、随分大勢の人によくしてもらってたみたいだね。手取り足取り教えてもらって、精神的にも支えられてる様子が目に浮かぶようだよ」


 ところが、ファイエドはいたずらっぽい笑みを見せた。


「と、思うでしょう? 実際、助けられてるのは僕らの方ですよ」


「えっ?」


「神の意思を目撃する。その瞬間、感謝と畏怖いふに震えるような思いがするんです。シンの存在がまさにそれだ」


 思いがけぬ発言に、いや、目を潤ませてすらいるファイエドの姿に、我々は目をぱちくりさせる。


「……どういうこと?」


「言葉も文化も全く違う遠い土地からやってきて、慣れない生活の中で、神を信じるか、と問われる。そこで信じようと決意するのは並大抵のことじゃない。いや……もう随分長いこと信じていたのだと自己認識した、と言った方がいいかな」


「何だって?」


 長いこと神を信じていた? 信哉が?


「結婚がきっかけにはなったけど、決して突飛な発想じゃなかったし、急な変化じゃなかった。彼はそう言いました」


 ……その言葉を噛み締めてみても、味は伝わってこない。そんな感覚だった。


 小学校低学年の頃だったか、どこかで怪談を聞いてきて幽霊を怖がり、「お化けが出ませんように」と、誰が教えたわけでもないのに寝る前に手を合わせていたことはあったが……あれが原点だったとでも?


「去年のラマダン中にいろんな話をしました。学生の頃、イスラム圏の旅行記だとか、イスラム教に改宗した日本人のエッセイを読んだりして、何となく興味はあったそうなんです。キリスト教の行事の由来について見聞きするのと同じような距離感で、単純に異文化の一つとして気になってはいた、と」


 言われてみれば、あいつはバックパッカーの体験記みたいなものをよく読んではいた。憧れるなら自分でもやってみればいいのに、信哉は何につけても「きつい・汚い・危険」を避けたがり、過酷な旅に出ることは一度もなかった。


「それに、旅先で訪れた教会とか、日本のお寺の静けさに身を委ねることを心地よく感じたり……宗教というもの自体に何らかの魅力を見出してたみたいですね。いずれ自分にとって宗教が日常になる日が来るかも、と漠然と思ってたそうですよ」


 そう、なのか。家でそんな話をしたことはついぞなかったが。


「だから決して大事件ではなく、ついに時が来た、と感じたと言うんです。これが神の御業みわざでなければ一体何でしょう。シンは神に選ばれたとしか思えません。いるんですよ、ときどきそういう人が」


 ときどきそういう人がいることは否定しないが、あいつがそうだとは……いくら何でも買いかぶりすぎだろう。それなりに入れ込んでいることはどうやら間違いなさそうだが。


「もちろん障害がないわけじゃない。僕やサフィナや……モスクに来てる他の信者たちが幸せそうに教義を守ってるのに、自分にとっては苦痛の方が大きい。なんて未熟なんだろうと悩んでましたね」


 私は、信じられないような、信じたくないような思いで耳を傾けていた。それがまさに「改宗者ならではの苦労」ではなかろうか。


「そういえば、リサもそんなことを言ってたな。信哉は入信自体を悔やんではいないけど、簡単ではないんだろうって」


「そりゃあ簡単なはずがない。僕らだって決して簡単だとは思ってないんですよ。朝早くから起きて祈ったり、仕事を抜けてモスクに行ったり、袖なし・短パンの女性たちから目をらしたり、許されている食べ物だけを選んで食べたり……バングラデシュに住んでいればまだしも、ここはハラルじゃない食べ物や文化であふれてますからね」


 確かに、コテコテのイスラム圏と比べればハンデが大きいだろう。


「コーランを勉強したり、人の悪口を慎んだり、怒りを静めたり……やることはいくらでもあります。すべてを完璧に守れる人なんていませんからね。表面的なことだけならいざ知らず、心の中まで正しくムスリムたろうとすることは、一生かけて取り組むべき課題なんです」


 宗教とは何でもそうかもしれない。心のあり方が生きざまに直結する。



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