32 お祈り


 それにしても……カーペットの埃といい、窓ガラスの曇りといい、掃除が行き届いているとは言いがたい。端の方には丸まったティッシュまで落ちている。祈りの場といえども、日常はこんなものなのか。荘厳な空気はまるで感じられず、近所の者同士が集まって寛ぐ寄り合いの場といった雰囲気だ。


 五分ほどでお祈りを済ませたファイエドが、前方にいる白服の一人を手で示す。


「あれがイマームと呼ばれるリーダー的な人です」


 リサが以前、神父さんのような立場と言っていたのがそれだ。ここのイマームは白髪の多い豊かなひげをたくわえ、サンタクロースを思わせた。年は私よりいくらか若いぐらいだろうか。


「これからコーランの一節を引用した説教がありまして、その後がお祈りです」


「あれ? 女性陣の方は? 別のイマームがいるの?」


「いや、彼があそこのマイクでしゃべって、女性部屋にはスピーカーで流れるんですよ」


 麻子は無事にスカーフを見つけて被っているだろうか、などと考えているうちに、マイクを通じて歌うような声が流れ始めた。見ればくだんのイマームが朗々とした声を詩吟しぎんのように響かせている。


「アザーンという、お祈りに向けたアラビア語の呼びかけです」


というファイエドの耳打ち。イスラム圏の国々ではモスクから大音量で聞こえてくるという噂のあれか。


 間もなく、イマームがしばらくアラビア語で何か述べてから、英語の説教を始めた。ところが、決まり文句なのか引用なのか、かなりの頻度でアラビア語のフレーズが挟まるものだから、どうにも理解しにくい。


 シャイタンと呼んでいるのがおそらくサタン、すなわち悪魔のことらしい。悪魔は人間の信心をあの手この手で邪魔しに来る。


 中でも、信仰を確立し長らく継続できている人や、逆に全く信じる気がない人のことはあまり相手にせず、信じようとして日々苦戦している者にこそ狙いを定めるという。お祈りや断食などの義務を怠らせようとしたり、婚外の恋愛や肉欲、禁止された食べ物などへと誘惑したりするのが彼らの生き甲斐だ、と。


 シャイタンの存在と彼らのもくろみをきちんと認識し、シャイタンから守ってくださいと神に祈りましょう、という趣旨のようだった。


 十五分ほどで説教が終わると、再びアザーンが響き渡り、部屋中の男たちが次々と立ち上がった。私もつられて腰を浮かせたが、


「後ろの方で座ってていいですよ。すぐ終わります」


というファイエドの言葉に従うことにする。


 イマームは皆の先頭に立って壁の方を向き、マイクを通じて何やらアラビア語で唱え始めた。そのうち、一同が一斉に両手を耳のそばに上げ、引き続きイマームの声を聞きながらじっとたたずむ。そのうちに、例の立ったりお辞儀したり土下座したり(厳密にいうと土下座から尻を上げた形だが)が始まった。


 祈りの文句は私にはもちろん何が何だかさっぱりで、唯一聞き覚えがあるのは、何度となく繰り返される「アッラーフ・アクバル」ぐらいだ。神は偉大なり、という意味であることは今や日本でも知られている。自爆テロなんかで犯人が叫ぶ言葉というイメージがついてしまったが、信者から見れば不本意なことだろう。



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