18 草食


 昔から正直で優しい子ではあるし、それは疑いなくあいつの長所だと私も思う。しかし、社会に出て一人立ちすることを考えたら、不安要素でしかない。こんなことならいっそ女の子の方がよかった、と何度も思った。


 小学校に入ろうと、中学に上がろうと、息子らしさの気配は一向に訪れない。こんなことではいじめられるのではと心配したが、「意外とうまくやってるみたいよ」という麻子の言に違わず、大きな問題はなかった。信哉がたまに連れてくる友達にも、優しくておとなしいタイプの男の子が結構いるという。


 そして意外や意外、信哉は女の子にもそこそこモテるらしく、中学から高校時代にかけてはバレンタインデーに一人で食べきれないほどのチョコレートをもらってきたし、女の子のグループに混じって遊びに出かけたりもしていたようだ。


 姉目線での志穂の分析によると、優等生とかスポーツマンタイプのわかりやすい人気者が単なる憧れで終わるのに対し、信哉は現実的に手が届きそうな「佳作イケメン」に属するのだとか。


 信哉が大学受験を控えている頃に「ゆとり教育」が始まり、就職活動に苦戦する頃には「草食系男子」という言葉が聞かれるようになった。うちに限らず時代の産物か、と思えばいくらか納得できる。我が家だけが特殊なわけではないし、私のせいでもない。ナンバーワンよりオンリーワン。そんな世の中になったのだ、と。


 だからこそ、心底驚いたのだ。「子供ができました」と告げられたあの日。本人は怒られるつもりで委縮していたが、こちらは嘘だろうと笑い飛ばしたい気にすらなった。三十代の童貞だって珍しくない時代。息子がその仲間入りをしてもやむを得ないと思っていた。しかし、心当たりのない話を改まって親にするはずはない。ただ一言尋ねた。


「確かなのか?」


 信哉は深くうなずいた。彼女が病院から超音波画像を持ち帰り、その日のうちに見せられたこと。発覚当初が妊娠八週で、今は十四週になっていること。うつむいたままそれらをボソボソと語った。


 こと自体を責めた記憶はない。実は私自身にも似たような経験があるが、必ずしもそれが理由ではない。相手も十分大人で、交際中における合意の上での関係だったのだから二人で好きにしろ。それが私のスタンスだった。


 ネックになったのは、その結婚が婿養子縁組を前提としていたこと。といっても、村上家を受け継いでほしかったわけではない。兄貴には立派な男の子が二人いるし、姓の存続を気にかけるほど大層な家柄でもない。


 ただ、どうしようもなく惚れ込んだ相手がたまたま一人娘でやむを得ず相手の名字を名乗るのと、できちゃったから結婚もいいかなあ程度の覚悟で相手の名前と親とビジネスを一度に背負うのとでは雲泥の差だ。甘すぎる、と思った。いかにも信哉らしい甘えだ、と。まず、婿になることと養子縁組の違いから話して聞かせなくてはならなかった。


 先方の家業は、山代やましろという名字を冠した製作所。各種のバネを作っている小さな町工場だ。エンジニアでもなく、まともなサラリーマン経験すらない信哉に何をさせるつもりなのか。


 信哉が言うには、営業から始め、研修の意味であらゆる業務に触れさせる。その一方で経営の勉強をさせ、ゆくゆくはすべてを任せたい。現社長である彼女の父親からそう言われている。その話から察するに、どうやら単純に信哉の人柄が気に入られたらしかった。あいつの「操縦しやすさ」は少なくとも決め手の一つだったろう。


 いずれ名前だけの社長にされ、陰で実力ある者に糸を引かれるものと私は見た。彼らが期待しているのはおそらく次の代。つまり信哉は「つなぎ」でしかない。先方の発想は決して異端ではないが、その「つなぎ」がなぜうちの息子でなければならないのか。そこに何の疑いもなく安住しようとしている我が息子こそが、私は不甲斐なくてならなかった。


 相手方の口車に乗り、一つ予定が狂った途端に逃げ出した息子を、私は未だ許せる気がしない。長男という存在に求めた「男らしさ」が最大限に裏切られた出来事だった。信哉のそんな過去を、この嫁は果たして知っているのだろうか。




 例の医師は、我々を励ますでも絶望させるでもなく、これまでとほぼ同じ科学的事実を淡々と繰り返した。重症患者の家族を前に、敢えて事務的な空気をかもしているのか、はたまたもともとそういう人間なのか。


 我々も素人なりにいろいろ調べ始めていた。ホテルの無料wifiを使い、日本から各々持参したパソコンに向かう。


 脳死との違いや回復の可能性については、概ねドクター・ニールズの言う通り。昨日彼が口にした「persistent持続的 vegetative植物 state状態」は、植物状態になってそのまま一ヶ月経過したものを指し、三ヶ月が過ぎると今度はpermanent永続性 vegetative植物 state状態という名が付くらしい。


 メモと記憶にある用語をあらかた英語で検索した後は、おのずと日本語でのリサーチが中心になった。日米で病院の対応は異なるかもしれないが、基礎知識は共通だろうし、母国語で調べるとやはりスピードが全然違う。


 日本では、信哉のような状態が三ヶ月以上続くと、遷延せんえん性意識障害というものに分類されるようだ。似たケースを探していくと、外傷に限らず、中には原因不明の病気で植物状態におちいる人もいることがわかった。


 遷延性意識障害から意識が回復した事例は、相当数報告されている。外傷が原因の場合は、脳卒中や低酸素脳症に比べればいくらか回復率が高いが、一年以上経つと見込みは低下する。また、意識が戻ったからといって完全に健常な状態に至るとは限らない。


 治療法はこれといって存在せず、一般的なケアは寝たきり状態による害悪の防止が中心になる。例えば、感染症や血栓を起こさないための処置に、床ずれの予防など。呼吸器や泌尿器の感染症、多臓器不全などは死に至る可能性もあるため、油断できない。四肢が固まってしまわないよう定期的に曲げ伸ばしをしてやる必要もある。我々も看護師から、マッサージなどの簡単なケアの方法を教わった。



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