16 勘当


「宗教のことがなければ、ショーンもお二人に結婚を報告してたかもしれない。でも、外国人と結婚するっていうだけでもきっと反対されるのに、その上イスラム教徒になるなんて言ったら、今度こそ本当に勘当されるって言うから」


――今度こそ、だと?


 つまり、信哉は現時点で本当に勘当されたとは思っていないということか。私が言った「出て行け」を勘当と受け取り、これ幸いと思ってかどうかは不明だが実際出て行き、私の言葉ゆえに連絡を絶ったのかと思っていたが……。


「じゃあ事後報告したらって言ったの。つまり、結婚を事前にお知らせしないことを私が後押ししたんです」


 リサの目はまっすぐ私を見ていた。逃げも隠れもしないという意志を宿した目。そう毅然きぜんと述べられては、こちらもどう責めてよいのかわからなくなる。


「母たちはそんなのダメだって猛反対でしたけど、私はショーンの事情も知ってますので」


 situation事情という言葉に込められた微妙なニュアンスに、腹の奥がチクリと痛む。思い浮かぶのはもちろん、我々が(主に私が)数年前、信哉の結婚に反対したことがあるという事実だ。


「わかります、彼の心境も。これまでの経緯も踏まえると、賛成してもらうのは難しい。かといって、結婚を先延ばしにして付き合い続けるっていう選択肢もない。だから結婚だけ先にして、わかってもらえそうなタイミングで話したいって」


 これまでの経緯。どこまで知っているのだろう、この嫁は信哉の過去を。


「ただ、こんなに長く隠してしまうことになるとは私も思ってませんでした。ムスリムになった後に、今度はショーンが言い出したんです。今みたいな中ぶらりんの状態で知らせたら心配もされるし、イスラム教なんて辞めろって言われそうだし、そうなったら僕自身、説得されてしまうかもしれない、って」


 実際、ふらふらと説得されがちな息子であることは、私と麻子が一番よく知っている。かつての婿養子縁組も、了承したときと等しく安易に反故ほごにした。イスラム教への改宗にしたって、覚悟とか決意なんてものがあったとは思えない。


「ムスリムになって正解だった、僕は幸せです、って胸を張って言えるようになってから話したい。そう言ってました」


「それは、今が幸せじゃない、つまりconversion改宗の選択を悔やんでるってことかな?」


 リサの言葉を借りて「改宗」とは言ったものの、別にもともと何教だったわけでもないから、「入信」の方が的確かもしれない。半ば自問だった私の問いに、リサは「ノー」と明言した。力のこもった目がじっとこちらを見る。


「悔やんではいないけど、簡単じゃない。そういうことだと思います」


 簡単じゃない。仮に私にそうこぼせば、自分で選んでおいて泣き言を言うな、と怒鳴られる。そこで本当の心のありかを押し隠し、虚勢を張れるような息子ではない。とはいえ……だから親にはまだ言わないでおこう、という結論は、どこかあいつらしくないようにも思える。


 縫い糸にできた小さな結び目のように何かが引っかかっている気がしたが、その結び目は光の残像のように見ようとすればするほど逃げていき、いつまでも焦点が合わなかった。




 サフィナと子供たちが寝静まる中、我々はリサの車でホテルまで送ってもらった。


「よりによってなあ……婿養子の次はイスラムか」


「大丈夫なのかしらねえ」


「ムスリムもいろいろだけどな。名ばかりの信者で大酒飲みって奴から、毎日お祈りを欠かさないってのまで」


 駐在時代に私が担当した工場に、前者にあたるアルジェリアからの移民がいた。親はムスリムに育てようとしたが、自分は国を離れてまで守ろうとは思わない、と彼は明言していた。


「サフィナさんは……まあ雰囲気は普通っぽい感じだけど」


 私も同感だ。接していて、単に外国人であるという以上の特殊性は感じない。


「まあ、これからいろいろ見えてはくるだろう」


「リサはかぶってないのね」


 麻子が頭を指差す。


「周りの思う壺になるのが嫌で結婚を渋ったぐらいだからな。ありゃあ万年反抗期って感じだ」


「出会ったのもクラブだもんね。お酒ぐらい飲んでんのかも。サフィナさんとは全然違う感じ。姉妹なのにね」


 ふふふと笑う麻子に、私も苦笑を返す。同じ親の元で育っても、子供たちはそれぞれの道を行く。我が家でも証明されていることだ。


 私がシャワーを浴びている間に、麻子は寝息を立て始めていた。電気を消し、少し離れた隣のベッドに潜り込む。


 ホテルにはそれなりに客が入っている風だが、夜は静かだった。表のハイウェイを車が行き交い、時折トラックが段差を踏んでガタコンと音を立てる。


――私が後押ししたんです……。


 リサの声が今も耳に残る。よく通るりんとした響き。物怖じしないどころか、相手を怖気おじけづかせそうな強気な態度。こんな女性が信哉のことを気に入るとは、世の中わからないものだ。


 リサが語る信哉像に大きな驚きはなかった。誰かがこぼした酒を拭くのに奔走し、嫁や義理の家族に手料理を振る舞い、安楽な道を手に入れるためならほいほいと結婚でも改宗でもし、してしまってから「簡単じゃない」とこぼす。しかし……。


 私は先ほど覚えた違和感をまだ拭えずにいた。今度こそ本当に勘当される。わかってもらえそうなタイミングで話したい。胸を張って幸せだと言えるようになってから……。


 何かがあいつらしくない気がする。一見重大な結論をさらりと出すのは、あの「できちゃった婿養子事件」と変わりない。ただ、今回は決断から二年近くもの間、撤回する様子はないわけだ。やはり、あの美香という女性との間では妊娠の威力が強く働き、それが消滅したから結婚の理由もなくなったに違いない。


 では、リサとの結婚はあいつにとって何なのだろう。答えの如何いかんによっては信哉を改めて勘当することになるかもしれない。いや……。


 臓腑のわりが定まらないような不快感を寝返りでごまかしながら、私は息子が近いうちに目覚めることを前提としてものを考えている自分に気付く。信哉がこのまま寝たきりになるかもしれない、あるいはどこかの時点でってしまうかもしれないなどとは実感しきれていなかった。


 不意にスイッチの切れるような眠りが訪れた。眠っていたことを自覚したのは、聞いたことのない奇妙な鳥の声で目覚めた瞬間だった。



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