15 改宗


 だから何だと言われれば返答に詰まるが、いや、いくら何でも……。この二日間で想定外の事態にだいぶ免疫ができた我々も、これにはあんぐりだった。


「元はといえば、私たち二人とも結婚願望が薄くて、同棲のままでいいねって言ってたんです。アメリカでもカナダでも、そういうの全然珍しくないんで。でも、私がムスリムだってわかったら、ムスリムは結婚せずに同棲どころか、基本的にはお付き合いもできないって情報をショーンが見つけてきて……」


 そのルールは私も聞いたことがあるが、例えば信哉がビザ目的で結婚を急かしたという可能性はないだろうか。リサと結婚すればアメリカの滞在資格が手に入る。その原理は、できちゃったのを機に籍を入れれば一生安泰な仕事が付いてくる、という、かつての状況を彷彿とさせた。あのときの怒りがぶり返しそうになる。


「このまま付き合うなら結婚すべきだって言い出して……私の方がしばらくごねてたんですけどね。でも、トロントにいる親戚の集まりにうっかりショーンを連れてったら、すごく気に入られちゃって。その日のうちに母や姉に連絡がいったらしくて、あとはまあ流れというか……」


「つまり、君はあんまり乗り気じゃなかったんじゃないのかい?」


「いえ、ショーンと暮らしていきたい気持ちは固まってたからいいんです。ただ、長年結婚しろ結婚しろって親戚中からうるさく言われ続けてきて、彼らの思うつぼになるのがしゃくだったっていうか……」


 それはそれで何とも子供じみた反応というか、単なる天の邪鬼あまのじゃくのような気がするが。


「あと、ショーンがそのために改宗しなきゃいけないのも私にとってはネックでした。ムスリム女性はムスリム男性としか結婚できない決まりだから、ショーンの改宗が条件だったんです。ただ、それにあたってショーンが嫌な顔をしたことはないし、むしろ純粋に興味を持ってくれたみたいで」


 日本で生まれ育った日本人がイスラム教に改宗する。普通に考えれば高いハードルだが、婿養子のときと同様、あいつにはその条件の重みがわかっていなかっただけではないのか。考えの甘さというものは、いくつになろうと、苦い経験をしようと、こんなにも変わらないものだろうか。改宗が抑止力になって結婚を思いとどまっていれば、事故に遭うこともなかったのに。


「イスラムの教えについて最低限のことは私から説明したんですけど、自分でもインターネットで調べたり、私の親戚に聞いたり。あと、一緒にモスクに行ってみたこともありました。ショーンが真剣に考えてる様子を見てるうちに、私にとっても結婚が現実味を帯びてきたんです」


――真剣に、か……。


 私は言い返すに言い返せず、歯噛みした。もともと真面目な息子ではある。しかし、真面目と浅慮が同居しうることをこの嫁に説明したところでわかるまい。どんなに真剣に考えたところで、そもそもの発想がお気楽なら結論は自ずとものに終わる。緊張感だとか警戒心、リスク管理といったものを後天的に身に付けさせることの難しさを、私は信哉を通じて痛感していた。


「何ヶ月か経った頃、まだわからないことも多いけどいい宗教みたいだって言ってくれたんです。その日からショーンは、手始めにお酒と豚肉をやめました」


「へえ」


 ビール一杯でゆでダコになり、初めて日本酒を飲んだ晩には文字通りぶっ倒れた息子の姿を思い出す。弱いくせに、カルーアミルクとかいう軟弱なカクテルだけは好んで飲んでいたっけ。いずれにしても呑兵衛のんべえには程遠いから、断腸というほどの思いではなかったろう。


「アメリカに来てからはお祈りも覚えて、モスクにも週一ぐらいで通うようになって……今じゃ私よりよっぽどいいムスリムですよ」


 イスラム教のお祈りといえば、メッカの方角に向かってお辞儀をしたり土下座みたいな格好をしたりするあれか。非常にエキゾチックなイメージしかない。



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