10 遁走
「さて、もう八時半過ぎてるぞ。そろそろ出た方がいいんじゃないか?」
「そっか、面会時間……」
麻子も立ち上がる。
「あ、面会の時間帯は割とフレキシブルなんで……でも、お疲れでしょうから、そろそろ行きましょうか。ホテルも取ってはありますけど、よかったらうちに泊まってくださいって姉が」
「ああ、いや、しかし……」
昨日の今日でこの状況。正直、疲れ果てている。見知らぬ外国人(しかも義理の家族)を相手に、お愛想に満ちた英会話を繰り広げる気力はなかった。
「とりあえず今日はホテルに入った方が、ね」
麻子の目にも懸命な訴えが感じられた。一度座って、落ち着いて二人きりで話をしたい。気持ちはありがたいが今日はホテルまで送ってもらいたいと告げると、リサは快く了承した。
「また明日来るね」
麻子が信哉の肩に触れる。顔の腫れた三年半ぶりの息子は、黙って天井の向こう側を見つめるばかりだった。
病院からホテルまでは車でものの一分。これなら歩いてもどうということはない。高級感はないが、気楽で快適なビジネスホテルだ。リサが私のパスポートをフロントに見せ、テキパキとチェックインを済ませてくれた。
「ええと、明日は……」
「起きてから考えましょ。もちろんお好きなときに病院に行ってくださってかまいませんし、私も仕事は休ませてもらってるんで、電話かメールくださればご一緒します。特にご連絡がない場合は……そうね、午後四時に病室で落ち合いましょうか」
「ああ、じゃ、そういうことで」
リサのリーダーシップと頭の回転の速さがありがたかった。今は段取りを考える気力もない。
麻子と二人、ホテルに隣接するファミリーレストランで軽く腹を満たすことにする。空腹より疲労が勝ってはいたが、ワンクッション置かなければベッドに入る気になれなかった。
この手のファミレスチェーンは美味とは言いがたいが、ある意味安定のクオリティとでもいうのか、大きな失敗がない安心感がある。スープとサラダとフライドポテトを頼むと、どれも無難な味。こんなときでも体は正直で、あくびを繰り返しながら約六時間ぶりの栄養を吸収していった。
お代わり自由のレモネードをストローですすり、息継ぎのついでに呟く。
「俺のせいか?」
ポテトをつまもうとしていた麻子の手が止まる。否定してもらえるとわかっていて聞くのは我ながら大人げないと毎度思う。が、麻子の答えをこの耳で聞かなければ今夜は眠れない。
「何言ってんの、そんなわけないでしょ。事故に遭っちゃったの。それだけ」
「俺が追い出さなきゃカナダに行くこともなかったし、こんなところに来ることもなかったんだろ」
言いながら、ああ、これだったのか、と気付く。相手のドライバーを責める気持ちが驚くほど弱いのは、私自身が事故に遭わせたかのような意識があるからだ。
「追い出したわけじゃないじゃない。ちょっと怒鳴るぐらいはしょっちゅうだったでしょ。それにね、こんなところに来たのだって信哉が自分で決めたことよ。まあ、リサさんにバシッと決められちゃったのかもしれないけど」
かもしれないどころか、十中八九そうだろう。
「子供だって二十七や八にもなればね、ちょっと一年カナダ行ってこよう、って、それぐらいのことあるわよ。高瀬さんとこの佑希君なんか大学生んときよ、留学したの。ほら、句会の時田さんだって……」
「そういう話をしてるんじゃないだろ」
「とにかく、あなたが何か言ったからとかじゃないんだから。まあ、信哉も信哉で出発前に一言言ってほしかったけど」
「そこだよ。俺が追い出したことになってんだ、あいつの頭ん中じゃ。だから黙って出て行ったんだろ」
あいつが黙って行っちまった。それを自分が根に持っていることを、私は今自覚しかけていた。確かに、出て行けとは言った。事故さえなければその言葉を悔やみまではしなかっただろうが、あの信哉がまさか本当に出て行くとは思っていなかった
「ねえ、そういうの待ってたんじゃないの?」
返答しかね、私は視線を落とした。信哉が家を出たことについて、麻子にそう聞かれるのはもう何度目かになる。親に黙って武者修行に飛び出す。「止めてくれるなおっかさん」の世界だ。男なら石にかじりついてでもやり遂げてみせろ。親の反対なんか小さな障害だ。押し切って踏み越えてどこへでも行っちまえ。いつまで経っても信哉に伝わらない思いを、私は夜な夜な麻子に聞かせてきた。
親に黙ってのカナダ行きとその後の沈黙が息子なりの初めての反抗だったなら、私は単純に喜ぶべきなのかもしれない。たとえ「自分探し」などという軽薄な名目が浮かんで
実際は、「逃げた」のだと思う。実家を出たことも、カナダに飛んだことも。私に言わせれば高飛びだ。糾弾に耐えかねたのだ。親の立場から言えば、非難しない方がおかしい。事の経緯を思い出すだけでイライラする。
付き合っている彼女が妊娠したから結婚する。しかも、
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