07 暗雲


「植物状態というのは、脳幹や小脳は生きていて、昏睡状態ともまた違います。意識があるかないかと聞かれれば、少なくとも現状では、ないと言っていいでしょう」


 信哉の場合、健常な人々のように睡眠と覚醒を繰り返しているそうだ。ただ、呼吸はできても自力で動くことはできず、食事もとれない。しもの方は垂れ流すよりほかなく、目を開くことはあっても眼球は動かず、見えていることを示す兆候はない。呼びかけや刺激にも今のところ反応が見られない。


「治る見込みはあるんですか?」


「いい質問ですね。ただし、答えるのは非常に難しい。私からはイエスともノーとも言わずにおきます」


 これといった治療法が確立されておらず、効き目が証明されている薬もない。その一方で、数週間のうちに自然に植物状態を脱するケースもなくはないという。


「一ヶ月が最初の山になるでしょう。今の状態が一ヶ月を超えると、persistent持続的 vegetative植物 state状態と見なされます。その後の回復は、時間を追うごとに難しくなると思ってください」


 実際には数ヶ月、数年経って意識を取り戻した例もあるそうで、それはまさしく回復には違いない。ただし、必ずしも負傷前の健常な状態に戻るわけではなく、脳機能障害や知的障害が残ることが多い。


 一方、何の変化も見られないまま何年も経つケースや、意識のない生存状態を維持できずに亡くなってしまう例もある。目の前の白衣の男(といっても羽織っているだけで、中はチェック柄のワイシャツとベージュのスラックス)は、それらを丁寧に説明した。


 何度か聞き返しながら、言われていることは理解した。しかし、どういう感想を述べればよいのか。生きていてくれてよかったとは思うが、これからが勝負だ。


「今はまだ、頭を開いた傷も治っていない段階ですから、今後のことはまた改めて話し合いましょう」


 医師はそう締めくくり、長い脚で大股に去っていった。


「私、ちょっとお手洗いに」


と声をかけられて初めて、リサが同席していたことを思い出した。家族三人、病室に残される。


「じゃあ何、一ヶ月待ってみて、ダメならその後はどんどん可能性が下がってくってこと?」


「うん、そうみたいだな」


「でも、その一ヶ月に何もしないわけ?」


「うーん、いや、そうはっきりとは……」


「しっかりしてよ。あなたが頼りなんだから」


 日頃は何でも麻子に任せっきりだが、英語力となれば私に軍配が上がる。麻子は英文科卒とはいえ実用の機会はないまま今に至り、聞いて理解はできても話す方は片言レベルだ。


「とりあえず、薬とかは関係ないみたいだな。この点滴も多分栄養的なものだろう」


「ちょっと待って」


 麻子はショルダーバッグの中を探り、手帳に何やらメモを取り始めた。紙の上をペンが走る音にしばらく耳を任せる。


 信哉は先ほどよりも幾分眠たそうなトロンとした目つきになり、だらしなく開いた口からシューシューと音を立てて息をしていた。身動きも取れず、意識や感覚もなく、まさに植物のようにただ呼吸を続け、栄養を吸い取って生存している。周囲や自分自身の身に起きていることに対しては単純な反応すらもできない。


 自分が誰で、ここがどこなのか、周りに何があって誰がいるのかを認知する機能というのは、そのさらに先にあるものだろうと想像がつく。


「ねえ信哉、困っちゃったわねえ」


 麻子の細い指が、寝かしつけでもするように息子の手の甲でポンポンとリズムをとる。


「勝手にカナダなんか行っちゃって。そのうえ結婚だなんて……もう、電話の一本ぐらいくれたっていいじゃない」


 見ていて泣けてきそうになる。遺体にでも話しかけているような光景だ。


「今日はほんと大変だったのよ。昨日遅くにリサさんから連絡いただいてね。超特急で準備して、夕方には飛行機乗ったんだから」


「おい、よせ。どうせ聞こえやしないんだよ」


「だからって、いないみたいにするのも気持ち悪いじゃない」


 そう言って、「ねえ」と意識のない息子に同意を求める。麻子はショックの第一波をすでに越えてしまったらしい。私の方は顔に出すまいとしているうちにショックらしいショックを受けそびれ、却ってダメージが尾を引くたちだ。麻子と私、それぞれが親の死を迎えたときに明らかになった、人としての根本的な強さの違いだった。この状態の信哉に平気な顔で話しかけられるとは大した芸当だ。


 私は思わず席を立った。


「俺もトイレ行ってくる」


 病室の中にもRestroomトイレと書かれたドアが一つあったが、この際それは無視する。


 少々荒っぽくドアを開けて出て行くと、廊下の隅にリサの姿があった。手元の携帯から顔を上げ、私を見る。


「あ、トイレは……」


「そこ、曲がったところです」


「ああ、ありがと」


 席を外してくれていたことへの礼を、そこに込める余裕はなかった。



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