06 再会


 病室に入った瞬間、「信哉」、と二人同時に声をかけていた。ベッドに仰向けになった信哉は、天井を見つめていた。起きているが、イヤホンでもしていて周りの音に気付かない。……そんな風に見えた。


 困惑してリサの方を振り返ると、信哉の目がかなりはっきりと開いていることに、彼女は驚いてはいなかった。とてつもなく嫌な予感。


 麻子が息子の肩に触れ、軽く揺する。


「信哉。母さんよ。ほら、父さんも」


 麻子が呼びかけると、信哉は中途半端なまばたきをした。


「信哉。わかる?」


 布団から出ている左腕に点滴がつながっている。麻子はその手を握り、反応がないと見るや、信哉の目の前で手を振った。信哉は驚いた様子もなく、その手に焦点を合わせることもなかった。麻子が手を止めた頃になって、思い出したように再びぼんやりとした瞬き。


「信哉。信哉……」


 たちまち涙声になった麻子は、薄い布団に覆われた長男の胸に突っ伏した。


――だから言わんこっちゃない……。


 いや、何をわけでもないのだが、せめて麻子に対して強がっていなければ平静を保てる気がしなかった。


 約三年半ぶりに見る息子は、頭に包帯をグルグルと巻かれ、そのくせ血色だけはいい。鼻や口には何のチューブもなく、微かに胸が上下している。自力で呼吸できているということだ。


 何かの冗談かと笑い飛ばしたくなる。眠っているなら起こせばいい。この場に信哉と二人きりだったら、私だって体を揺すったり顔をペチペチ叩いたりしただろう。


 黙って家を出たまま連絡がつかなくなってから、息子のことは失ったつもりでいた。もう戻らないと諦めていた。少なくともそう思い込もうとしていた。しかし、どこかで元気にしているのと目の前で意識すらないのとでは、天と地ほどの差がある。


 意識不明の重体と聞いて飛んできたものの、ここはどう見ても一般病棟。しかも相部屋だ。もう一つのベッドには今は誰もいない。


 一段とぼけっとした信哉の顔を見れば見るほど、悲しいとか不安だとか以上に腹が立って仕方がない。どこまで親を苦しめるのだ、この息子は。


 そのとき、


Ohああ, there皆さん youおそろい areですね


 野太い声が響き、白衣を着た白人男性が入ってきた。


「担当医のマーティン・ニールズです。初めまして」


「ああ、初めまして」


 五十代前半ぐらいか。立派な鼻に銀縁の眼鏡。


「さっそく、息子さんの病状についてお話ししましょう。どうぞ、お掛けください」


 室内にあった椅子に、麻子と並んで腰を下ろす。


「顔がむくんでるのは? お薬のせいかしら?」


 麻子の問いを、私が英語にして医師に尋ねる。


「ああ、いくらか影響があるかもしれません」


 そこへリサが付け加えた。


「あと、太ったと思いますよ、カナダに来てから……結婚してからも少し。学生時代の写真見て、細いねえってびっくりしちゃった」


 なるほど、連絡を断っていた三年四ヶ月は、人一人の外見を変えるには十分な時間だ。


 医師は「まずあなた方の最大の関心事から」と前置きし、信哉が今、何も見えず、聞こえず、認識・知覚できていないことを告げた。強い衝撃による頭部外傷が原因で、脳の機能がダメージを受けているという。


「脳死……ですか?」


 脳死は直訳的にbrain deathというのだと、成田に向かうバスの中で知った。必要になりそうな言葉を思い付く限りスマホで調べておいたのだ。オンライン辞書を引きながらも紙にメモを取る辺りがアナログ世代丸出しだったが、多少検索をしたぐらいでは一ギガバイトの上限はびくともしないことを学んだ。


 医師は軽く首を振る。


「いえ、脳死というのは脳幹や小脳の機能が停止している状態で、短期間のうちに全脳死に至るのが普通。つまり基本的に回復が見込めないものです。息子さんの場合は心臓の機能に問題がなく、呼吸も自力ででき、脳波も見られますので、いわゆるベジテイティブ・ステートに該当します」


「ベジ……何ですって?」


 聞き慣れない言葉だ。スペリングを尋ねると、医師はポケットから裏紙の切れ端のようなものを取り出し、ボールペンでその言葉を書いてくれた。


 vegetative state。字面じづらから察するに、植物状態のことだろう。そう告げると、麻子の顔には絶望の色。鏡でも見ている気分になる。いやいや、まだわからない、落ち着け、と互いに視線でなだめ合った。



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