04 機上


 明かりを落とした機内。フライトアテンダントがコップに注いだ飲み物をお盆に並べ、そろりそろりと通路をたどる。時折そこかしこから手が伸びては、コップが一つずつ闇に消えた。


 窮屈な座席に押し込まれ、寝苦しいどころか憂鬱ゆううつな物思いにふけることすらままならない。隣では麻子が、やはり窮屈そうに背もたれに身を預けている。


 第一次オイルショックの年に結婚し、四十二年間連れ添ってきた妻。眠っていないことはわかる。目を閉じて休もうとしているだけだ。すっぴんの睫毛が微かに揺れた。


 近寄りがたいような美人でこそないが、顔立ちは整っている方だし、私がその昔惚れ込んだ愛嬌も健在。年齢を明かすと驚かれるのが自慢なだけあって、今年六十八になるにしては肌の張りも十分だ。孫が二人もいるようにはとても見えない。今日はさすがに化粧をする余裕もなかったし、機内の乾燥もあってか幾分くたびれた印象を受ける。


 息子がカナダに渡った当初、それを娘から聞かされた麻子はショックを受けながらも、「そのうち新しいお嫁さんでも連れてひょっこり帰ってくるわよ」と楽観を装っていた。「新しい」というのも変な話だ。では、まだ籍を入れてはいなかったのだから。


 交通事故。意識不明。……参った。それが正直な感想だ。ニュースではしょっちゅう見聞きする話だが、誰もが自分の身にだけは起きないと信じている。私もその一人だった。こうしている間にも容態が変わったらと気が気でない。一方では、どうか夢だと言ってくれ、と往生おうじょうぎわ悪く現実逃避を試みる自分もいる。


 電波は届かないし、wifiが使える機体ではないから、連絡が入ることはない。わかっていながらも、スマホの画面を点けたり消したりして無駄に電池を消費する。大洋をまたぐ十二時間のフライトは、遠い記憶の何倍にも長く感じられた。とにかく命だけは、と祈るような思いが呼吸を浅くさせ、あらゆる筋肉を緊張させた。


 なんで酔っ払い運転なんかに、という怒りもある。それでいて、相手のドライバーに対してどうこうという感情は、不思議とおのれの中に見当たらなかった。


 もしこれが志穂だったら……そんな不謹慎な空想が、ただでさえ混沌とした思考に割り込んでくる。事故に遭ったのが志穂だったら、娘をこんな目に遭わせたやからを限界までいたぶった挙げ句に殺してやりたいと思うに違いない。


 だが、現実はどうだ。事故に遭ったのは息子で、私は何とか生きていてくれと心底願いながらも、この悲劇を招いた過失やそのぬしを呪ってはいなかった。


 志穂と信哉の何が違うのかと問われれば……何も違わないと明言できる立場にないことは、私自身が一番よくわかっている。二人に対する愛情に差があるとは思いたくないし、そんなはずはないのだが。


 子供とは、親の元に生まれてくるというより、何らかの星の下に運命さだめを背負って産み落とされるものではなかろうか。世間では育てた親の顔が見たいなんていうが、おぎゃあと生まれた瞬間にはすでに諸々の性質を備えているものだ。親は子の健康と幸福を願い、長所を伸ばし短所を克服させてやろうとするが、できることなどたかが知れている。


 信哉に対しても、できることは怠けずにやってきたつもりだ。なのに私が胸を張れずにいるのは、己の通った道が理想とは程遠いからに他ならない。かといって、もっとこうすればよかったという模範的行動が思い浮かぶわけでもない。


 胸の内に渦巻く濁った感情は、ちょっと気を緩めれば息子の誕生以来の思い出を走馬灯のように映し出そうとする。大いに不吉だ。


――冗談じゃない。くだらん事故なんかで死なれてたまるか。


 座席に付いている画面によると、カナダ上空を通過中らしい。乗り継ぎのシカゴまで三時間強。


――嫁、か……。


 私がイメージする「リサ」は、いつだかのマイナーなハリウッド映画で見た女優の姿をしていた。声が少し似ていたせいかもしれない。


 肩に届かぬ短い金髪に、ややつり上がった青い目。太ってはいないが、筋肉と脂肪をバランスよくまとった健康的なシルエット。きっとしっかり者で勝ち気な娘だろう。通話時の声や口調は非常時にもかかわらず落ち着いていたし、メッセージの明快な文面からは聡明さもうかがえた。


「嫁をもらう」という図式に似つかわしくない出会いだ。息子から紹介されるでも、改まって挨拶されるでもなく、いつの間にかやってきていた嫁に会うために海を渡っているのは我々の方。問いただそうにも息子は意識不明。ため息以外に何をこぼせばいい? まったく、問題児にもほどがある。


 いや、一般的な「問題児」ならまだよかった。麻子の手に負えぬやんちゃ坊主にブレーキをかける役割なら、男の子だと知ったときから覚悟できていた。それなのに、私が対峙することになった長男は、活力や精気とは見事に無縁。


 不甲斐ふがいない息子に発破をかける度、実らぬ努力に疲労困憊こんぱいさせられる日々は、甘い卵焼きを噛み締めるのに似ていた。



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