02 嫁
アルファベットの羅列をもどかしげに覗き込む麻子に、詳細を訳して伝える。
信哉が、現住所であるアメリカのアーカンソー州、ドークスビルで交通事故に遭った。手術は終わっているが、未だ意識不明。泊まる場所は用意するし、飛行機代も必要なら後で出すから、とにかく早く来てほしい。その下に、フライトの候補が三つ。
「これ、誰からなの?」
そうだ。その話もせねばならない。
「ワイフだってよ」
「えっ?」
「妻。奥さん」
「奥さん!? って、あの子……結婚したってこと? いつ?」
私はただ首を振る。我が子がいつの間に結婚していたのか。麻子にも、私にも、わからない。
「
「ねえ、それこそ詐欺とかじゃないでしょうね?」
はっと固まる。うかつだった。つい先ほどそんな話をしていながら、息子の名前一つで吹っ飛んでしまった。
「いや、しかし……」
お宅の息子が事故に遭った。危険な状態だからすぐに来てくれ。場所はアーカンソー。詐欺だとすれば、先方の狙いは何だ? 旅費を振り込めと要求されているわけではない。呼び寄せておいて身ぐるみ
落ち着け、と自分に言い聞かせ、メッセージを読み返す。
「そうか、リクエストを承認……」
さっき削除していなくてよかった。改めて承認をクリックする。
「承認するとビデオ通話ができるって?」
「ああ、使ったことはないけど……ちょっと貸して」
今度ばかりは麻子にマウスを委ねた。
「あ、これでかけれそう。いい?」
「よし」
何を話せばいいのかもわからぬまま、通話ボタンを押す。間もなく、「ハロー」と女性の声。
「ああ、ええと」
「
「ああ、イエス」
長年のブランクで錆び付いた英会話脳に鞭を打つ。そんな私の様子を察してか、先方はゆっくりと区切りながら、平易な英語で話し出した。
「今、車を出しちゃったところなので音声のみでごめんなさい。メッセージ、見ていただけましたね? 息子さんの件」
「うん……そのことなんだがね」
しばし呼吸を整える。カッツンカッツン、と微かにウィンカーらしき音。運転中というのは本当らしい。
「君がその……息子の妻ってことをだね、確認しないことには、何というか、急に言われても……」
「
数秒の間が空いた。
「彼の生年月日は一九八四年七月十六日。血液型はO。でもそんな情報はいくらでも調べられるし、盗める」
「そうだね」
「犬よりは猫が好きで、曇りよりは雨が好きで……でも、あなたはもちろんそんなことは知らない」
――何だって? 今、何と?
「リサ」なる女性は早口で呟く。本人は独り言のつもりだったろうが、
「
と聞こえた。
――俺が信哉の何を知ってるのか、だと?
私の耳は、パソコンの向こう、広い広い太平洋の向こうに挑戦的な空気を感じ取った。解釈に苦しんだあまりの沈黙を装いながら、
「甘いタマゴヤキみたいな男にだけはなるな」
「タマゴヤキ」の部分は英語なまりの日本語。唐突なカタカナワードに不意打ちを食らった。甘い卵焼き……。
「あなたは彼にそう言った」
「息子さん、今でも甘いタマゴヤキが好きよ。父さんと姉ちゃんはダシ派、母さんと僕が甘い派。って、卵割る度にその話」
私は鼓動を速めながらも、場違いな懐かしさにうなずく。今は昔、麻子が作ってくれた愛妻弁当第一号に入っていたのだ、甘ったるい卵焼きが。帰宅早々、勘弁してくれと訴えた。新婚時代の狭苦しい社宅での思い出。
「甘いのは食事なのかデザートなのかわからなくて嫌なんでしょ、あなたは」
スピーカーからそんな英語が聞こえ、私はただその場に固まる。厳密にいえば、私が麻子に告げた原文はこうだ。「おかずなのかおやつなのかはっきりしろと言いたくなる」。しかし、信哉がそのセリフそのものを知る
妙な気分で
「状況はわかった。飛行機が取れたら連絡する」
「ええ、お願いします」
「ああ。じゃあ」
通話終了ボタンを押し、不安げな麻子に宣言した。
「詐欺じゃない。事故は本当だ」
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