愚息のシャハダ
生津直
第1章
01 メッセージ
後天的な行動力、というものは存在するのだろうか。
世の中には、勇気を振り絞るまでもなく、一歩踏み出すことに抵抗を感じない者がいる。彼らがいとも簡単に挑戦を重ねていくのを、生まれつき尻が重い人間は指をくわえて見つめるばかり。
ぐずぐずしているうちに誰かが尻を叩いてくれる。それに甘えたまま、私は還暦を迎え、古希を過ぎた。この年になってもなお、
小一時間のネット検索で、概要は把握した。いざ、キーボードに手を伸ばす。名前とメールアドレスに続き、先ほど紙とペンでこしらえたパスワードを間違えないように打ち込む。
「生年月日……と性別、か」
「で、『アカウントを作成』。そしたらメールが来るから……」
「わかってるよ、そう急かすなって」
「ボタン一つ押すのに何分かかってんのよ、もう」
「うるさいな」
世界中で何百万人もが通ってきた道だ。何も難しいことなどあろうはずがない。それでも念のため、表示された指示を一字一句読みながら慎重に進む。
いくつかの操作を経てついに、世界に名だたるソーシャルネットワークの画面が私のノートパソコンに表示された。これまで妻の肩越しに覗き込むだけだった、あの
「ほうら、できたじゃない!」
「できるさ、そりゃ」
強気に言い返すが、その実ほっと一息。
ちまちまと不規則に文字が並び、どこを見ていいのかわからない。上に下に縦に横にと散らかった単語やフレーズが機能の豊富さを誇示し、クリックされるのを待っている。こんなややこしいもの、数年前から使っている
SNSなるものが世に広まって何年になるだろう。デジタル全般が苦手な私までもが手を出すことになろうとは。
これというのも兄貴のせいだ。我々が昼間出席した甥っ子の結婚披露宴でのこと。写真をメールで送るなんて古いと笑われた挙げ句、親族一同の前でしつこく焚き付けられ、「アカウントだけは作る」と約束させられた。
一流ホテルが出すウェディング仕様のコース料理は文句なしにうまかった。が、どうせならもっと濁りのない気持ちで味わいたかった。身内の晴れの日を
兄貴の次男である
新婦は管理栄養士だそうで、しっかり者でありながら一歩下がる謙虚さを忘れない、理想的な嫁に見えた。まさに順風満帆。隆司の兄だって一流企業に勤め、すでに女の子二人をもうけている。兄貴自身がそうであったように、息子たちも成功者の空気を当然のようにまとっていた。
新郎新婦は二人ともが三十代後半。
「で、
恐れていた瞬間は、台本でも配られているのかと疑いたくなるほど律儀に訪れた。これがあるからこそ、よほどのことがない限り親戚との集まりはこの三年間避けてきたのだ。が、甥っ子の結婚は一応
「まだ連絡ないの?」
何の悪気もない兄貴に私が答えあぐねていると、麻子が
「直接の連絡はまだ。でも、
志穂の名前が出たことで、話題は自然と志穂一家の方へと移っていった。あるいは麻子がそう仕向けるべく敢えて長女の名を出したのかもしれない。
そんなストレスに満ちた宴を振り返りながら、私は真新しい我が「アカウント」を探索する。
「はい、送ったわよ」
「ん?」
「友達リクエスト」
「どこ?」
「上のほら、ここクリックして承認。これで私と友達になったから私のが見れるわけ。ほらね」
「ふーん」
「で、私んとこに志穂がいるから、はい、リクエスト送ってちょうだい」
「リクエスト……」
「ここね」
「何が何やらさっぱりだな」
「いいのよ、最初につながっちゃえば、あとはもう触んなくていいんだから。で、お義兄さんは名前で検索して……」
「ん? 何か来たぞ」
「どれ? ああ、知らない人のは承認しちゃダメよ。いたずらだったり、詐欺とかもあるんだから」
「ああ、なんか外国人みたいだな」
「そういうのは削除して、お義兄さんたちにリクエストしたら今日はおしまい。細かいことは気にしなくていいの」
麻子はそう言うが、理解できないものを使うほど気持ちの悪いことはない。私は暇に任せて一つひとつボタンを押し、設定だの何だのを確かめていった。
「あれ? これさっきの……おっ!」
順に開いた中の「メッセージリクエスト」欄で、思いがけない文字が目に飛び込む。
[
――何だこりゃ!?
「あんまり余計なとこいじっちゃ……」
「ちょっ」
麻子を手で制し、そのメッセージをクリックして開く。先ほど友達リクエストを送ってきた、
「これは……」
「なあに? 迷惑メールでしょ?」
「信哉が重体、って」
「なっ……」
絶句した麻子の腕をつかみ、内容を訳して聞かせる。
「信哉が……生きてはいるんだが……」
口を手で覆ってよろめき、テーブルに手をつく妻。
「交通事故に
麻子が声にならぬ息を漏らす。私は急いで付け加えた。
「手術は済んでるそうだ。ただ、意識が戻らないって」
「そんな……」
震え出す麻子の青い顔を見て、私の脇の下もじっとりと汗ばむ。
「急いで来てくれって」
「来てくれったって、カナダでしょ? 今から飛行機取ったって……間に合うの?」
「いや、アメリカだ」
妻の慌てた表情に混乱の色が加わる。無理もない。私の顔だってさほど変わらないだろう。
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