第四話⑥
本当は来年までには東京の家を引き払い、地元に戻ってくるつもりだったのだが真心にあんなことを言われてしまえば、帰ろうにも帰れなくなった。あのお節介な友人に言われて素直に帰るのは気が引ける。だからいつも本音を隠してしまうのだが、この思考回路すらお見通しなのかもしれないとすぐに気がついた。まったく、真心の思うツボのようで悔しくなる。
両親と話し合い、まだしばらく東京で暮らすことを決めたあとは早く、盆休み最終日には予定通り自宅へ戻った。そもそも小春の墓は東京のこの地にある。やっぱり離れるわけにはいかない。
空っぽな家は静かで寒々しい。小春がここに住んだのは結局一年も満たず、病院で過ごす毎日だった。棚に置いた位牌と遺影の前に線香を立てる。
「小春、ただいま」
声をかけるも、遺影の中の彼女は言葉を返さない。
「実家に戻ったら、懐かしいやつに会ったんだ」
笑った顔のままで止まっている小春に優しく話しかけた。
「話す機会がなかったな。高校の同級生の真心ってやつなんだけど、あいつさ、実家の青果店の裏で薬膳庵やってるの。びっくりしたよ」
薬膳と言えば、小春と一緒に行った火鍋の店を思い出す。薬草みたいな味付けがどうにも合わず、最後まで食べられなかったのを小春が茶化していた。彼女は好き嫌いがなく、なんでも食べる人だった。嫌がる倫明に対し、彼女は意地悪に微笑んで「また行こうね!」と言っていたのを急に思い出す。行けず仕舞いになってしまったが。思えば小春の前では素直な自分でいられた。きっと、これからもそうなんだろう。
「あ、そういえば、薬膳なのにおでんって意味が分かんないよな。結局、どんな効能があるのか聞いてないし。あんなんで店が務まるのか……まぁ、しっかりした奥さんがいるし、大丈夫なんだろうけど」
──幸せそうだったな。
あの二人はいつまでも仲良く暮らせるだろう。絶対にそうであってほしいと願わずにいられない。
倫明は物言わぬ妻から背を向け、荷物を放置してソファに寝転んだ。スマートフォンを開き、無意識に写真フォルダを開く。そして、いつものように指をスライドし、小春の写真を眺める。しかし、勢い余ってスライドしすぎてしまった。その時、ふと視線が止まる。見知らぬムービーフォルダが一件。写真フォルダにしか目を向けてこなかったことと、今までムービーを撮ったことがなかったので困惑する。迷いながら指でタップし開くと、すぐさま小春のアップが映った。
「小春!?」
驚いて飛び起きる。すると、画面の向こうにいる小春が恥ずかしそうに笑った。
『これ、大丈夫かな。うまく撮れてたらいいんだけど……』
懐かしい小春の優しい声。具合がいい時に撮ったのだろうか。
『やっほー! 倫明くんが売店に行ってる間に撮影してまーす。スマホ盗られたことに気づいてなかったでしょー。ふふふっ、サプライズだよ! 参ったか!』
いたずらっぽく笑う彼女の背景は病室だった。疲れた顔だが、愛嬌のある笑顔で手を振っていた。そんな彼女に対し、倫明はただただ息を呑んで画面を見つめるしかできない。日付は去年の春。小春がこの世を去る一ヶ月ほど前だった。
『この前はひどいことを言ってごめんね……薬が悪いの! あれねぇ、本当に気分が悪くなっちゃうんだもん! 本当にごめんね』
「ううん。そんなことない」
つい返事をするも彼女には通じない。当たり前だ。これはただの記録なのだから。
『結婚しなきゃ良かったっていうのはね、確かにそう思ったことだったんだけど、ストレス溜め込んじゃう倫明くんのことだから、きっと違う意味に捉えてそうだなって思いました。あれはね──』
その瞬間、つい画面をタップして動画を止めた。口を半開きにしたままで止まる小春。その顔を見ていられず、倫明はスマートフォンをひっくり返してテーブルに置いた。続きを聞くのが怖い。まさか、一年越しにあの話の続きをされるとは思わず、気持ちの整理がつかない。深呼吸しておそるおそるスマートフォンを取った。
「よし……」
動画を再生すると、止まっていた小春がゆっくりと話し始めた。
『あれはね、倫明くんのつらそうな顔を見ていられなかったからなの。私と結婚しなければ、倫明くんは幸せだったんだろうなって思って、勝手に悲しくなってね……』
「そんなこと……思ってたのか」
『うん。ずっと悩んでた』
彼女は躊躇うと「うん」と頷く癖がある。それが奇跡的に会話のように成り立ち、倫明はつい噴き出した。同時に涙がこぼれてくる。慌てて拭っていると、画面の小春が気まずそうに笑った。
『でもね、そんな風に思うことこそ、倫明くんに失礼だよね。倫明くんが私のこと、大好きなのはよく分かっているから……私も、倫明くんのこと、大好きだから、だから──』
だんだん涙声になっていく小春。それにつられて、倫明も鼻をすする。
『だから、結婚して良かった、です。私は幸せ者だよ。ありがとう、倫明くん』
それから小春は照れくさそうに笑って涙を拭った。
『あ、やばい。倫明くん帰ってくる……いやぁ、でも謝れてスッキリしたぁ。面と向かってはなかなか素直になれないよね! えへへ!』
「ほんとだよ。まったく……小春のバカ」
『ごめんね。許して』
「あぁ、許すよ。当たり前だろ」
『ふふっ。倫明くんのことだから絶対許してくれるよね! あーよかった。それじゃ、またね。私の分までおいしいもの食べて、面白いものを見て長生きするんだぞ!』
そう慌ただしく言い、小春の動画が止まる。
まだ聞いていたかった。生きている彼女を見ていたかった。これからもずっとその生活が続くと思っていた。でも、その幸せは当たり前に続くわけではない。倫明はスマートフォンを置き、再び遺影の前に立った。
「小春、やってくれたな。あんな置き土産、言われなきゃ気づかないだろ」
遺影を小突く。笑顔のままの彼女は、なんだか「してやったり」とでも言いたげだ。
また声が聞きたい。話がしたい。抱きしめたい。でもそれは、まだまだ先のことになりそうだ。
「またね、か……いつになるか分かんねぇぞ」
そう言って遺影を置くと、細長い線香の煙がくすぐるように揺れた。その匂いを嗅ぐと、急激に腹が減ってきた。
「……はぁ、仕方ねぇ。食うか」
倫明は冷蔵庫へ向かった。しかし、中身は空っぽで今からコンビニに行くのは面倒だ──と、思ったその時、玄関チャイムが鳴った。慌てて出ると、宅配便が来たようだった。
マンションの五階まで上がってくる宅配便を待つこと数分、再び玄関チャイムが鳴り、ドアを開けた。
「秋山さんからお届け物です」
快活な声に驚き、返事もそぞろに荷物を受け取る。どうやらクール便のようで、すぐに中を見てみると、ペットボトルに入った出汁と新鮮な野菜が入っていた。メモには真心の細長い筆跡で「食べ残しのやつ」と書かれている。倫明は唇を噛んだ。
「あの野郎……どこまでお節介なんだ」
ここまでくると末恐ろしくなる。もしかすると、あの時やっぱり食べ残したのを根に持っていたのかもしれない。まあ、そんな人間ではないことは分かっているのだが。
「でもまぁ、出かけずに済んだからいいや」
倫明は力なく笑い、届いた野菜を出汁のセットをキッチンに広げた。料理なんてやったことはないが、調理器具は一通り揃えてある。メモによれば、野菜は一旦茹でてから出汁に入れても良いし、生のままでも良いとのことだったのでズボラな倫明は食べやすいサイズにカットして、ペットボトルから皿に移した出汁に浸した。トマト、オクラ、とうもろこし、ナス、きゅうりを無造作に入れ、一緒についていた小さな練り辛子を皿の縁に引っ掛けた。まずはきゅうりを一口食べる。
「……やっぱり、おでんは出汁に染み込ませないとダメだな」
一人で苦笑し、今度はトマトに辛子をつけて頬張る。柔らかいトマトは出汁がよく絡んでくれ、甘い昆布とフルーティーなトマトの酸味が絶妙にマッチしている。忘れていた食欲を思い出し、ただひたすらに貪る。つけすぎた辛子が鼻腔を刺激し、目頭にまで到達すると涙が出た。
「あぁ、ダメだ。辛ぇ」
思わず声が震え、とうもろこしにかぶりついた。パンパンに詰まった実が口の中で弾け、出汁と果汁が口の中で溢れていき、唇の端から垂れそうになった。拭ってもう一度かぶりつく。最後に取っておいたナスも無心で頬張って、出汁を一気に飲み干す。
「ふー……」
口元を拭って息をついていると、線香の香りがキッチンにまで届いてきた。
──ほら、あわてんぼうなんだから。
そう言われているような気がした。
「次、あの店に行くまで元気にならなきゃダメだな。でないと、また真心に心配される」
そんなことを考えていると、薬指の指輪を撫でるような光が走った。
【第四話 プレゼント〜たっぷり夏野菜の冷やしおでん〜 了】
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