第四話⑤

「ん? くるみ薬膳庵?」

 くすんだ茶色の暖簾に白文字でそう書かれている。

「こりゃまた洒落てるな……知らなかった」

「ばあちゃんが使ってた台所を改装して店にした。まぁ、ゆっくりしてけよ」

 そう言って、真心は「ただいま」と声をかけて戸をくぐった。すかさず明るい声が飛んでくる。

「おかえりなさーい。あ、いらっしゃいませ! まーくんのお友達の……平井くん!」

 顔を覗かせてすぐ、小柄な女性が満面の笑みで迎えてくれた。どことなく小春に似ており、面食らってしまう。すると、真心が短く説明した。

「奥さんです」

「あ、例の奥さん! どうも、はじめまして。平井です」

 昨夜、酔いつぶれている間に聞こえてきた言葉を思い出す。広いおでこに明るい笑顔は今や「青果店あきやま」の花だ。その活発な人柄は町内でも有名らしく、近所に住む宮塚がなぜか自慢気に語っていた。

「どうも、真心さんの〝奥さん〟の棗といいます」

 おどけたように言う彼女は、それからすぐに倫明をカウンター席へ促した。

「まーくんの同級生ってことは私とも同い年です。高校が違ったから知らないですよね」

 棗は嬉しそうに勿体つけて笑った。

「まーくんとは小学校からの幼なじみで。この三軒先の中華料理店が実家なんですよー」

「あ、それで薬膳の店なんですか。へぇぇ、こんなかわいい人と幼なじみなんて知らなかったなぁ。真心も隅に置けない」

「やだ、まーくん、かわいいって言われちゃったー!」

 年齢の割にはしゃぎ方が幼いが、見た目も子供っぽいので違和感はない。そんな彼女に対し、真心は徹底してクールを貫いていた。キッチンに入る前に白衣と三角巾を身に着ける。あのブロッコリーみたいな髪の毛をどうやって仕舞ったのか気になるところだがあえてつっこまずにいた。

「昨日はとても盛り上がったそうですねー。いいなぁ。同じ学校だったら私もついていったのになぁ」

 人懐っこく話す棗は茶の準備をしていた。熱そうな茶を氷を入れたグラスの中に注ぎ、マドラーで撹拌しながら冷ましているようだ。何度か繰り返し、適温になったら氷を出して水滴を拭き取る。淡い水色のTシャツとジーンズでに白いサロンを巻いており、一見すれば店の看板娘と言っても差し支えない。

「いつもは割烹着なんですけどね、この暑さでしょ? 朝なのに二十九度ですって。もうほんと参っちゃう。だからサロンにしました」

 確かに真心のような割烹着は暑いだろう。棗の判断は正しいと言える。しかし、うまく言葉を返すことができず、倫明は無言のままだった。

 もしも小春が生きていたら、もっと愛想よく振る舞えたかもしれない。小春がいないという事実が心に重りをつけているようで、うまく笑えなかった。棗を見ていればますます気持ちが滅入っていく。

「はい、どうぞ。春黄菊カミツレ茶です」

 目の前に冷えた黄金色のグラスが置かれる。

「カミツレ?」

 聞き慣れない茶を出され、ようやく倫明は声を出した。これに棗はにっこり微笑んだ。

「はい。別名カモミール。リラックス効果の他、疲れ目や不眠にも効きます」

 なんだか見透かされているような気がし、倫明はわずかに警戒した。おそらく真心の差し金だろうが、それきり気の利いた言葉が言えず、出された茶をがぶ飲みするばかりだった。ゆっくり味わっていられない。何度か棗がポットの茶を入れ替える。その間、真心はただひたすら無言で厨房に立って料理の用意をしていた。

 一体、どういう経緯でこの店を開いたのだろう。棗が中華料理店の娘だから、彼女が開いた店なのだと思っていたがどうやら店主はあくまでも真心らしい。訝っていると、カウンターに料理が運ばれてきた。

「お待たせしました。店主のおまかせ薬膳です」

 棗がにこやかに言い、料理を目の前に置いた。

「夏野菜の冷やしおでんです」

 涼しい店内なので、この暑い中に食べても悪くはないだろうが釈然としない。

「夏なのに、おでん?」

 薬膳といえば苦い薬草や漢方を思い浮かべる。カモミールやらおでんやら、なんだか統一性のないものを出されては戸惑うのも無理はない。

「いいから食え。弱った胃腸でも食べやすいから」

 真心がカウンター越しに言う。三角巾を取るとブロッコリー頭がもさっと現れ、思わず仰け反った。確かに、冷やしおでんというだけあって器もひんやりしている。たまごやちくわ、さつま揚げの他、トマトやオクラ、とうもろこしもあり彩り豊かだ。

 ひと仕事終えた真心はキッチンを出て、倫明の横に立った。棗もその横で見守っているので、あまりにも食べづらい。しかし、作ってもらった手前食べないわけにはいかず、倫明はややためらいがちに箸を取った。

「いただきます……」

 まずはたまごを口に運ぶ。冷たいのに出汁がしっかり染み込んでいる。さっぱりとした味わいで、昆布の他にもまろやかな鶏ガラを感じた。よく噛んで飲み込むと、無意識にため息が漏れる。ちりばめられたクコの実と棗の甘みがアクセントになっており、思ったより食べやすい。だが、一通りつまんだ後、箸を置いた。

「おい、どうした。しっかり食え」

 真心が言う。そんな彼に対し、倫明は皿を遠ざけた。

「悪い。もういいや」

「口に合わなかったか」

「いや、うまいよ。こんなうまいものを作れるなんて、正直驚いてる」

 きっと、この野菜も真心が仕入れたうまい野菜なのだろう。しかし、食べたくても食べられない。

「ごめんな、真心。最近は飯食うのも億劫でさ。それに……」

 唐突に病床に横たわる小春の顔がフラッシュバックした。

 抗がん剤治療により、食べ物が受け付けなくなった彼女は『ごめん』としきりに言いながら食べたものを吐き戻す。それを見ているのがつらかった。食べることが大好きな彼女が食事を拒むようになったことが何よりショックだった。

「……なんで俺は生きてるんだろうな」

 本音が口からこぼれ、倫明はため息を落とした。おでんの出汁に浮かぶ自分の顔が苦しそうだった。どうして平然と生きているんだろう。当たり前に食べ物を口にし、なんの苦しみもなく朝起きて仕事して、好きなときに実家へ帰り、日常を送っている。小春はできなかったのに。

「小春が食べられないのを間近で見ていたら、何もしてやれない自分が嫌になった。代わってやりたかった。うまいもの食わせてやりたかった。それなのに、やっぱり俺には何もできないから……」

 見舞いに行くのもだんだんつらくなってきた。彼女もまた「もう来なくていいよ」と言う。そんなわけにいかず、毎日顔を見せに行ったが、入院が長引けば長引くほど小春は笑わなくなる。無言でその日を終えることもあった。また、薬の影響からか苛立つ彼女から暴言をぶつけられたことも──どんな困難も乗り越えようというのは所詮、綺麗事に過ぎない。あの日々を思いだすと今自分が生きていることにも罪悪感を抱いてしまう。食事どころじゃない。きっと、小春は不幸だった。

「……結婚しなきゃ良かった、って言われたんだ」

 茫然自失な倫明の声に、真心は深い溜め息をついて横に座った。棗はキッチンへ行き、静かに茶の準備をした。

「小春の病気が分かってからプロポーズした。絶対に乗り越えてみせると思ったんだ。結婚すれば彼女も前向きになってくれると思ってた。本当に馬鹿な考えだったよ」

 倫明は薬指にはまった指輪をさすった。

「一緒に頑張ろう」「大丈夫、俺が支えるから」「また一緒に旅行しよう」「絶対に元気になれるから」なんて言葉で励ませば彼女はその場では笑ってくれ、応えてくれた。でも現実は過酷であり、小春の目からは希望が失われていく。

『結婚しなきゃ良かったね、私たち』

 そんなことを言われたのは、彼女が亡くなる二ヶ月前である。やせ細った声で、彼女は窓の外をぼんやり見つめながら言った。

『迷惑かけてごめんね、倫明くん』

 そんなこと言うな、と思わず声を荒らげた。すると、小春は静かに首を横に振った。

『私のことはもう忘れていいから』

 そうして静かに涙を流す小春の横顔が、いつまでも頭から離れない。葬式の時はその言葉の意味ばかりを考えていた。最期まで彼女の支えにはなれなかった──

 倫明は鼻をすすった。すかさず、席を立つ。

「悪い、帰るな……あぁ、奥さんもすみません。せっかくもてなしてもらったのに」

「いいえ。そんなお気になさらず……」

 咄嗟に話を振られた棗は戸惑ったが、すかさず身を乗り出して言った。

「あの、平井くん、自分を責めちゃダメよ」

「分かってます」

「いいえ、分かってない。そんな顔して店を出るのはダメ!」

 棗は頑固に言い放ち、倫明の前に回った。戸口に立ちふさがる。

「小春さんはきっと、平井くんに感謝してると思う。支えになっていたはず」

「……気休めの言葉は結構です」

 つい尖った言葉が飛び出す。今しがた顔を合わせたばかりの他人に何が分かるのか。励ましてくれているのは分かるが、素直に受け入れられるほど心に余裕はない。ほっといてほしい。ヤケになって棗を見下ろしていると、彼女は頬を膨らませた。一方で、真心は何もせず無言のままだ。

「まーくん!」

 棗が非難の声をあげる。振り返ると、真心は澄ました様子でトマトを口に運んでいた。そして、熱血とは程遠い声音でのんびりと言う。

「まぁ、ゆっくりでいいよ。一通り食ってくれただけ十分だ」

「もう、まーくん!」

「いいんだよ。どうせまた来てくれるだろ。平井、その時には全部食ってくれよ。昔みたいに適当にダラダラ話そう。おでんも作ってやるし、スズキベーカリーのパンも買って待っててやる」

 真心はとうもろこしにかぶりついた。その安穏さに棗は呆れてしまい、戸口から離れて夫の背中を思い切り叩いた。突然のことに、さすがの真心も驚いたのか噎せて咳き込む。すかさず棗が彼の背中をさするので、倫明も呆れてため息をついた。

「待っててやるってなんだよ。帰ってくる保証はないぞ」

「いいや、帰って来る。こっちに戻ってくるつもりなんだろ?」

 苦しそうに言う真心に、倫明は眉をひそめた。

「……おふくろに聞いたか?」

 問うと、彼は「いや」とすぐに返した。

「じゃあ、なんで分かったんだよ。俺が実家に戻ろうとしてるの」

 会社を辞め、小春と過ごした地を離れ、地元に戻ってこようかと悩んでいたところで、まだ誰にも明かしていないのだ。その相談をしに盆休みを利用して帰省したのである。すると、真心はしばらく唸り、ポツリと答えた。

「そりゃあ、友達だからな」

 当然のごとく言われれば、もう何も返せない。意固地になっていた自分が恥ずかしくなり、棗に向かって頭を下げる。

「さっきは言いすぎました。すみません」

「いいえ! 私こそ出過ぎた真似をしまして」

 棗もまた慌ててお辞儀する。その横では、ようやく落ち着いた真心はまたおでんを食べ始めていた。そんな彼に、倫明はおどけた声を投げつけた。

「真心。奥さん大事にしろよ」

「おう」

 真心は短く答え、出汁を飲み干していく。どこまでもマイペースな友人だ。

「平井もな。奥さんによろしく」

 その何気ない言葉に、倫明は一拍置いて笑った。

「また来てくださいね。待ってます!」

 棗が安堵した顔で見送ってくれる。倫明はまた一礼して店を出た。

 外はさらに蒸し暑く、太陽がどんどん高くなっていく。

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