第四話④
小春と初めて出会ったのは、大学のコンパだった。その当時は友達の友達の後輩という認識で、自己紹介くらいしか会話することがなく、社交辞令として連絡先を交換しただけで終わった。それから社会人になり、慣れない仕事に勤しむ毎日で充実していた。ある日、参加していたセミナーの中で偶然、小春と再会した。
『平井さん、ですよね?』
正直、大学生の頃に会った時は印象が薄く、また十年も経っていたことからすぐには思いだせなかった。セミナー会場でパリッとしたスーツを着た彼女は頬を紅潮させて倫明を見上げていた。後で訊けば、彼女は倫明に一目惚れしていたらしく、連絡先を交換するのが精一杯でメールすることができずにいたらしい。それから彼女も倫明のことを忘れて生活していたのだが、偶然の再会で恋心が再燃したらしい。セミナーが終わって、ビルのロビーでしばらく立ち話をした。
『私、後悔してたんです。あの時、すぐ連絡していれば良かったのにって。でも、まさかまた会えるなんて。これはもう神様が『チャンスだよ!』って言ってくれてるんだって思ったんです』
もしもこの世に運命というものがあるのなら、この瞬間のことを言うのだろう。以前よりも明るく華やかになったと思っていたが、ひょっとすると彼女の後悔とやらが働き、勇気を出して倫明に話しかけているのだと思うとかわいく見えて仕方がない。小春はしばらく興奮気味に話し「今度はメールしますね」と言って、一旦その場で別れた。
それまで女性と出会う機会がなく、仕事に打ち込むだけの日々だったが一気に薔薇色に変わった。仕事終わりに軽く食事をし、休日も会うようになり、二人の時間が長引けば長引くほど、互いに気持ちは高まる。真剣に交際するようになってからは小春の趣味である旅行へ一緒に行く機会が増えた。彼女は博識で、観光名所や各地のおいしい料理を教えてくれた。自分の知らない世界を教えてくれるから、一緒にいて飽きない。優しくて真面目で、何もないところで転ぶようなそそっかしさもある。意外と頑固で強気だったり、そのくせ泣き虫なので喧嘩して仲直りした後は号泣することもあった。そのすべての思い出が愛しい。今だからこそ言える。あの日々が一番幸せだったと。そして、それからの生活は二度と思い出したくない。
翌日、倫明は玄関チャイムの音で起きた。睡眠剤を入れて眠るようになってからは目覚めが悪く、ぼんやりとしてしまうのだが、今朝も母が呼びかけるまでウトウトしていた。時計を見れば、現在八時。普段起きている時間ではあるが、昨夜のアルコールと休日モードのせいで起きる気がしない。
「倫明ー、秋山くんが来てるよ」
それから、母は玄関先で「もう、ごめんなさいねぇ。いい大人がみっともない」などと明るく笑い飛ばしていた。
「は? 秋山……って、真心か」
聞き間違いじゃなければ、この朝っぱらに真心が実家までやって来ている。どういうとこだろう。慌ててスマートフォンを手に取ると、充電が切れていた。ベッドに放り投げ、急いでズボンを履き、寝癖を直しながら階段を下りた。三十五にもなって、こんな風に起こされるなんて確かにみっともない。怪訝に思いながら寝ぼけ眼で玄関に出ると、真心が相変わらずの無表情で片手をあげていた。
「よう」
「よう、じゃねぇよ」
気にかけてくれるのはありがたいが、少々鬱陶しく感じてしまい邪険な言い方になった。母の手前、高校の同級生と一緒にいる姿を見せるのが恥ずかしいので、真心を押しのけて玄関を出る。途端にセミの大合唱と容赦のない陽光を一度に浴び、目眩がした。すぐに玄関を閉めて涼しい家の中に戻る。幸い、母はすでに居間へ退散していた。
「灼熱だろ」
背後で真心がのんびりと言う。
「あぁ、八時のテンションじゃねぇよ……もう、なんだよ。何しに来たんだよ?」
目をこすって情けなく訊くと、真心はサラリと答えた。
「飯、食いに来い。いいもの食わせてやる」
「おいおい……こんな朝からやってる店、この辺にはないだろ」
そう言いながら、倫明は眉をひそめた。もしかしたら、知らぬ間に朝食を提供する店ができたのかもしれない。それでもこんな朝早くにアポ無しで来るのは非常識ではないか。そんな一方的な苛立ちが募る。
「大体、なんでこの時間に元気なんだよ、おまえは。朝っぱらから友達の家に押しかけるとか夏休みの小学生かよ」
昨夜、同じように酒を飲んだはずなのに真心はケロッとしているから余計に腹が立つ。頭を掻いていると、真心は抑揚のない声で「あはは」と短く笑った。
「なんで笑う……まぁいいや。分かったよ、支度するからちょっと待ってろ」
友人の奇妙な行動は不審だが、「行く」と言わなければその場に居座られそうだと思った。それは困る。面倒だが付き合うことにし、倫明は急いで洗面所へ駆け込んだ。軽く支度し、服も着替えて外に出る。
「で、どこに行くんだ?」
「俺んち」
その答えに、倫明はずっこけそうになった。
「なんだよ。飯おごってくれるのかと思ったのに」
真心の家は青果店だ。新鮮な野菜を食べさせようとしているのかもしれない。祖母の代から続く店らしく、大学を卒業した後は亡くなった父の後を引き継いだのだと人づてに聞いた。高校生の頃、一度だけ真心の祖母が作ってくれた野菜たっぷりチャンポンを食べたことがある。部活が終わった後、あまりにも空腹だったので真心の家に数人と押しかけたのだ。そのことを急に思い出した。
「なぁ、おまえのばあちゃん、元気してるか?」
太陽が照りつける歩道で信号を待つ間、昨日訊きそびれたものを呟く。
「いや、亡くなったよ」
真心はそっけなく返事した。
「そっか……いつ亡くなったんだ」
「うーん、五年くらい前かな……きっかり八十歳だった。ボケもなかったし、元気だったんだけどなぁ」
のんびりとしているが、意外にも話してくれる。対し、倫明は「そっか」としか返せずにいた。
それからはまた無言で歩き、商店街を抜けた。あのスズキベーカリーの前も通り過ぎた。店主の孫らしき女子高生が店の前を掃いており、にこやかに挨拶してくれる。会釈して通り過ぎる最中、倫明はふと言った。
「あそこのおじさん、腰やっちゃったらしいな」
「あぁ、年も年だしな」
「人って急に死ぬからな。それもあっけなく……気づいた時には手遅れだったりするし」
つい後ろ向きな言葉が出てしまうも、真心は「そうだな」と静かに返すだけだった。しばらく歩き、ようやく『青果店あきやま』の文字が見えてきた。今日は店休日らしく、シャッターが閉まっている。裏手へ回ると、見慣れない暖簾がかかっていた。
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