第四話②

 実家は住宅街の中にあり、中古の一軒家である。昭和の面影が残る壁やフローリング、冷たい蛍光灯が今はとても快適に思える。ミスマッチな新品のエアコンからは新鮮で冷涼な風が流れており、汗だくだった体が一気に冷えていく。

 両親ともに元気そうであり、母はしきりに唐揚げやエビフライを食べさせようとしてきたので少し食べて、あとはビールだけを飲んだ。それから夕方になって両親と三人で先祖の墓参りを済ませた頃、真心から連絡が入った。店の詳しい位置とURLまでがトークメッセージに添付されており、そう言えば彼は超がつくほど真面目だったなと思い出す。返信した後、父の晩酌に付き合って風呂に入り、睡眠剤を水で流し込んでようやく一年ぶりの自室へ向かった。その間、小春の話題はひとつも出てこなかった。不器用な父はともかく、お喋りな母までもが小春の話題を避けようとしているのが目に見えて明らかで、居たたまれない気持ちの反面ありがたく思っていた。

「あれから一年か……時の流れは速いな、小春」

 狭いベッドの中でポツリとひとりごとを放つ。天井に話しかけても、左手の薬指にはめた結婚指輪に話しかけても、あの明るい小春の声は返ってこない。一年半の闘病生活を終えた妻の顔を思い出すと、胃の中に無理やり流し込んだ食べ物が消化不良を起こしたように気分が悪くなる。

 小春の死から葬式まで終えた後は抜け殻同然だった。覚悟してプロポーズし、彼女との残り少ない時間を幸せに暮らそうと努力した。その時が来るまで後悔のないよう過ごすつもりだった。それでも、いざその時がきたらどうすることも出来ず、彼女の遺影から離れることができなかった。気が付いたら彼女の顔を眺めている。小春が元気だった頃の写真を一枚一枚眺めて夜を明かすこともあり、溜まっていた有休休暇をすべて使い切った。母が様子を見に来るまで部屋は散らかしていたし食事もできなかったが、なんとかひと月で体調を戻し、仕事に復帰したもののぽっかりと空いた穴は埋まることがない。

 彼女が死んでも、世界は平常に回り続けるから不思議だと思った。そして、平和で幸せそうな周りが恨めしくなってからはひたすら仕事に打ち込み、休みの日は何も考えないように寝て過ごしていく。他人を気遣えるようになったのは、つい最近のことだ。なんとか穏やかに過ごせるようになるまで一年かかっている。

 倫明は無意識に指輪を触った。そして、ゆっくり深呼吸をして眠りについた。


 夕方十八時から、駅前の居酒屋でささやかな同窓会が開かれる。参加メンバーは真心が言っていたとおり、高校三年の頃つるんでいた友人を中心に、地元に残っている数人と当時の担任教師である。狭い店舗はカウンターと座敷のみであり、そのうちの座敷を貸し切っているという。高校、大学を卒業してからも同窓会は何度か開かれていたのだが、全員が結婚したり子供が生まれたりと忙しくなっていくにつれて集まる機会がなくなった。同窓会ももう十年は開かれていないので、久しぶりの再会だった。

 店に到着すると、すでに座敷に座っていた真心が存在感を放っていた。エスニックな麻生地のダブっとしたトップスにカンカン帽を合わせており、それを横にいる同級生がいじっていた。まんまるな狸のような男と、やけに浅黒い肌の男が談笑している。

「おぉ、木山と木下か。久しぶり」

 近づいてよく見れば、昔の面影があった。まんまるな方が木山で、浅黒い方が木下だ。

 木山木下のコンビはクラスでも人気であり、文化祭なんかではすすんで司会や漫才を買って出るタイプである。年相応に老けているが、愉快そうな笑顔は相変わらずである。

「急に連絡もらってびっくりしたよ! 平井、ちょっと痩せたな」

 木山が大笑いし、倫明に近寄って座らせる。木下も立ち上がって倫明の背中を叩く。

「そんなことないって。そういうおまえらはうるささに磨きがかかったな」

「あー! それそれ、そうやってすぐ皮肉るの、平井節って感じ! 懐かしいなぁ」

 木下が調子よく言い、木山が手を叩いて笑う。真心は静かにこちらを見ているが楽しんでいるよう。そうこうしているうちに他のメンバーと幹事が担任を連れてやってきた。

「幹事が遅れるってどういうことだよ!」

 木山木下コンビのツッコミが笑いの瞬間最大風速を記録した。すっかり老いた担任の菊川を恭しく席に案内する幹事の宮塚は、悪びれもせずに来て早々、店員に瓶ビールを注文する。それから次々と酒やつまみが用意されれば、あっという間に酒盛りが始まった。そのうち三人くらいから「平井、痩せたな」というコメントをもらったので、その度に「そんなことない」とはぐらかす。担任までもが「痩せた」と言うので、ごまかすのも一苦労だ。結婚したことは誰にも言っていない。東京で挙式し、小春側の友人と双方の親族を呼んだだけで、地元の友人には一切連絡をしなかった。急いでいたことも含むが、気を使わせたくなかったのが大きな要因であり、今もこの楽しい空間で自分の重たい話をするつもりもない。とにかく平静を装い、なんならこの同窓会が鬱屈した心を晴らしてくれるかもしれないと考えている。現に、みんな家庭の話はほとんどせず高校時代の思い出話に花を咲かせていた。そうすれば小春と出会っていない時代まで時間が戻ったように感じられ、また酔いも相まって気分が軽くなっていく。しかし、それも二時間後の中締めに差し掛かれば、一気に酔いが回ってテーブルに突っ伏す羽目になった。

「はい、平井くんが潰れました〜! おい、平井! ここで倒れてどうすんだ! 二次会行けんのか〜!」

 幹事の宮塚が喚くが、答える余裕などなかった。寝落ちることはなかったが、頭痛がひどく頭が上げられない。

「平井、大丈夫か?」

 それまで静かにビールを飲んでいた真心の声が近くで聞こえる。ちらっと顔を上げると、彼は素面のように顔色一つ変えない。こいつ、一緒に飲んでたよな、と胸の中で訝しく思っているも声にならずただ頷くしかできない。

「二次会はやめとこう。平井、送ってやる」

「おいおい、真心は二次会来いよ!」

 すかさず宮塚がツッコミを入れるが、ろれつが回っていない。そんな彼に対し、真心はきっぱりと返した。

「いや、奥さん待ってるから無理」

「んなーっ! つれねぇな! 分かったよ、平井おぶって帰れ帰れ!」

「うん。じゃあな、また飲もう」

 そんな声が頭上から聴こえたと思うと、脇を掴み上げられた。慣れたように肩を組む真心は背丈が近いから安心して体を預けられる。

「ごめんなぁ、真心。悪酔いした」

 素直に謝ると、いつの間にか店の外に出ていた。昼の熱がようやく収まったようだが、夜とは言え夏は汗ばむ。飲んだくれ達の熱気がまだまだ冷めやらぬまま、静かな夜道を無言で歩く。幸い、アルコールがせり上がってくることはなかったが、気分の悪さは治まりそうにない。信号待ちの間、意識が飛びそうになると、真心は「ちょっと休むか」と言って人気のない公園に入った。

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