第三話③

 夕食ができる頃には和弥も帰宅し、瑠菜と一緒に風呂へ入っていた。透子は家族全員分のとんかつを揚げ終え、ポテトサラダも一緒にプレートに盛り付け、キャベツの千切りも添えている。

「お風呂、上がったよ」

 和弥がタオルで頭を拭きながら現れる。瑠菜の髪を乾かしてから、ダイニングテーブルのキッズチェアに瑠菜を座らせ、自分も席につく。透子は茶碗にご飯をよそってからテーブルについた。家族全員が同時に手を合わせて「いただきます」と言う。そして透子は時折、瑠菜の様子を見ながらポテトサラダを口に含んだ。玉ねぎは自分ができるギリギリの範囲で薄くスライスしており、風味はほとんど感じられない。和弥はとんかつに市販のソースをたっぷりかけて食べていた。瑠菜も小さくカットされたとんかつを頬張るが、無言のままである。その視線はポテトサラダに向けられていた。

「瑠菜、ポテトサラダも食べなさい」

 つい注意すると、瑠菜は首を横に振った。

「やだ!」

「やだじゃないの。ちゃんと食べないと大きくなれないよ」

「〝からいからい〟やだ!」

「今日はからくないから大丈夫だよ。ほら、あーんして」

 瑠菜のポテトサラダをつまみ、口に入れようとする。しかし、瑠菜は顔を仰け反らせて口を閉じている。その様子を和弥は唖然と見ている。

「瑠菜! ちゃんと食べないとケーキ作らないからね!」

 透子はつい声を荒らげた。すると、瑠菜が「えっ」と驚いた顔を向ける。

「あやちゃんちのパーティー行けないね。それでいいんだもんね?」

 瑠菜は涙目になり、みるみるうちに大粒のしずくを落とした。

「おい、透子」

 ようやく和弥がなだめに入るが、透子はそれを無視して瑠菜を見つめた。

「ママもいじわるで言ってるんじゃない。瑠菜、食べないとケーキ作らないよ」

「……ご、ごめんなさいぃ」

 瑠菜はしゃくりあげながら素直に謝った。泣きじゃくる娘を見ていると、それまで苛立っていた感情が急にしぼんでいき、次第に罪悪感と化して胸の中に溜まる。そんな透子に対し、和弥は不審な目を向けながら席を立って瑠菜の横まで来た。

「るーな、泣かない泣かない。ポテトサラダならパパが食べるから」

「ちょっと、甘やかさないで」

「無理やり食べさせなくていいじゃん。そのうち食べられるようになるって」

 和弥は楽観的に言い、瑠菜の頭を撫でた。

「それに、あんな言い方は良くないよ。『ポテトサラダ食べなきゃケーキ作らない』って脅すのはひどい」

「お、脅してなんか……!」

 透子は思わず立ち上がった。しかし、返す言葉が見つからない。

 結局その日は、瑠菜の食事は中断した。あまり食べなかったが、泣きじゃくるあまりに食事どころじゃなかった。早々に寝かしつけながら、透子は瑠菜の頭を撫でて「ごめんね」と呟く。自分の料理がまずいばかりに、つい娘に当たるような言い方をしてしまった。和弥の言う通りだ。

 瑠菜が寝静まってダイニングに戻り、冷めた夕食を一人で寂しくつつく。和弥はすでに食事を済ませ、ソファでテレビを見ていた。

「ねぇ」

 透子は味のしないポテトサラダを飲み込んで、和弥に声をかけた。お笑い番組を観ている和弥だが、まったく笑わないところ、先程の一件についてモヤモヤしているに違いない。和弥はのんびりした声で「ん?」と言うが、目を合わせようとはしなかった。

「さっきはごめんね。ひどいところを見せて」

 沈んだ声で言うと、和弥はテレビの音量を落とした。

「うーん……いや、まぁ、俺もちょっときつく言い過ぎたよ」

 和弥は冷静に言った。喧嘩にならないようすぐに謝るというルールを、瑠菜が生まれてから決めたので大きな衝突は今まで滅多にない。だが、真面目な話をする機会もそうそうなく、互いに気まずいままだった。その空気を破ろうと、透子は緊張気味に声を強張らせて訊いた。

「あの、和弥……私の料理、おいしくないかな?」

 和弥はようやくこちらを見た。驚いた目で妻の顔を見つめる。透子はその視線に耐えられず、すぐに目を伏せた。

「ううん、なんでもない。ごめんね、変なこと訊いて。忘れて」

 慌てて繕うと、和弥はやや沈黙したあと「うん」と困ったように頷いた。そして、またテレビに目を向ける。ここでお世辞でも「おいしいよ」と言ってもらえない時点で分かりきっていた。自分が作る料理はまずい。家族の食欲を満たす料理は作れない。そう察してしまえば、それから追及できるはずもない。口に含んだポテトサラダが水っぽく感じ、一気に食欲が失せた。


 子供の頃からなんでもそつなくこなし、勉強も運動も成績が良かった透子は社会に出るまで挫折を知らなかった。ゆえに、家庭を持っても問題はないだろうと思っていたのだが甘かった。思えば、学生時代は習い事や塾、部活動なんかでまともに母の手伝いをしたことがない。いつかできるようになるだろうと楽観的に考えていたものだが、いつまで経っても上達しないのだ。そんな自分のようにはなってほしくなくて、瑠菜には簡単な手伝いをさせているし、苦手なものを克服してもらいたい。それを伝えるのはとても難しい。

 透子は思いつめながら瑠菜を幼稚園まで送った。話しかけてみると、瑠菜はケロッとしていたがいつもより会話が弾まなかった。その帰り道、一人であの『青果店あきやま』の横を通りかかると、目の前にうさぎの着ぐるみが手を振ってきたので挨拶だけして帰ろうとする。しかし、あの女性店員が店の奥から「奥さぁぁぁん!」と声をかけてきたので立ち止まるしかなかった。

「ちょっと待っててね!」

 どうやら客の応対をしているようだ。不審げにうさぎを見やれば、彼は腰に手を当てて妻の仕事を待っている。無言で突っ立っているのも気まずいので、透子はうさぎに声をかけた。

「あの、暑くないですか?」

 五月も半ばのこの時期、じわじわと蒸すような気温の高さである。着ぐるみは蒸れるだろう。すると、うさぎは頭を抱えてコクリと頷いた。透子は哀れに思い、苦笑した。

「それ、夏もやってるんですか? 熱中症になっちゃいますよ」

 これに対し、うさぎは顎に手を当てて考える仕草をした。店先で二人きりなのに、うさぎはキャラクターを守ろうとしているのか無言のままだ。それがますますおかしくなり、透子は思わず噴き出した。

「ごめんなさい、おまたせしました!」

 女性店員がバタバタと外に出てくる。透子は「いえ」と笑いながら答える。すると、彼女も朗らかに笑いながら訊いた。

「昨日のことがちょっと気になっちゃって。瑠菜ちゃん、どうでした? 玉ねぎ食べられました?」

「あっ……いえ。結局、食べられなくて」

 透子はすぐに真顔に戻した。

「すみません。私が悪いんです。おいしいものが作れないから、あの子の好き嫌いが出始めてるのかなって思って……気を悪くされたなら申し訳ないです」

「いえいえ! うちのことなんて気にしないでください!」

 透子の言葉に、女性店員はあたふたと手を振った。

「お母さん、いつも頑張ってるじゃないですか。ここ、よく通るでしょ。毎日じゃないけど、お野菜買いに来てくださる時、真剣に選んでるじゃないですか。あんまり気を落とさないでくださいね」

 その言葉に、透子は目をしばたたかせた。そして、なぜか目頭が熱くなった。すぐに顔を伏せる。

「ありがとうございます……でも、自信ないです。いつも残されるし、夫も子供も『おいしい』って言ってくれないし……料理、うまくなれたらいいのになぁ」

 つい弱音をこぼす。すると、急にくぐもった男性の声が聞こえてきた。

「料理、教えましょうか」

 ハッと勢いよく顔を上げると、うさぎがわずかに後ずさった。

「それ名案!」

 女性店員が指をパチンと鳴らしたが、透子は意味が分からずうろたえる。うさぎと女性店員を交互に見やっていると、うさぎが周囲を見渡した。そして、おもむろに被り物を取る。出てきたのはもっさりとパーマがかかった黒髪と顎髭をたくわえた三十代半ばの男性だった。うさぎの中身があまりにも仏頂面なので、今度は透子が後ずさった。一方で、女性店員はエプロンのポケットからフライヤーを取り出す。

「うち、青果店と薬膳庵やってます。秋山棗です。こっちは旦那で店主の真心さん」

 棗が差し出すフライヤーを透子は拍子抜けしながら受け取り、二人を見つめた。

「薬膳庵、ですか。意外です」

「いろいろあって薬膳にたどり着いたんです。そろそろお昼時ですし、うちも昼休みに入るので良かったらご飯、食べていきません?」

 棗が言うと同時に、うさぎの頭を小脇に抱えた真心が、店のシャッターを降ろし始める。透子はこの展開についていけず、なんとなく周囲を見渡し、フライヤーを見やり、棗の顔を見つめた。

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